秋の夕暮れが窓から差し込む家庭科室。オレンジ色の光が調理台を照らしている。
橙は一人、コンテスト用の料理を作っていた。

家庭科部の課題で、全員が一品ずつ応募作品を出さなければならない。
「よし……あとは盛り付けだけ」
丁寧に仕上げたキッシュを見つめながら、橙は小さく息をついた。

バンッ!

勢いよく扉が開く音に、橙は肩を跳ねさせる。 
「よっ、先輩!」
翔也が息を切らせて入ってきた。
学ランを脱ぎ、青のラインの入った白い体操服の半袖の袖をまくり上げている。
寒くないのだろうか

「しょ、翔也くん? どうしたの?」
「いや、なんか今日先輩が部活してるって聞いて。もしかしたらまだいるかなーって」
その無邪気な笑顔に、橙の胸がきゅっとなる。

「わざわざ……ありがとう」
「別に。ついでっす、ついで」
照れたように頭を掻く翔也を見て、橙は思わず微笑んだ。

「あ、そうだ。翔也くん、もしよかったら……これ、味見してくれない?」
橙は皿に盛り付けたキッシュを差し出す。
「マジっすか!? いいんすか!?」
「うん。コンテスト用だから、客観的な意見が欲しくて」
「っしゃ! じゃあ遠慮なく!」
翔也は嬉しそうにフォークを手に取り、一口食べた。
「――うんま!!」
その瞬間、顔がぱっと輝く。
「先輩、これマジでやばいっすよ! 絶対優勝っす!」
「そ、そんな……大げさだよ」
「大げさじゃねぇって! マジで店で出せるレベルっすよ!」

翔也の興奮した様子を見ていると、橙の胸があたたかくなる。でも同時に、不安も湧き上がってきた。

「でも……僕なんかが優勝できるわけないよ」

「はぁ? なんすかそれ」
翔也が不思議そうに橙を見る。

「だって……料理以外、僕は何もできないから」
橙は視線を落とす。

「勉強も運動も苦手で……この間の中間テストも散々だった。親にも呆れられちゃって」
言葉が自然と溢れ出す。

「『橙はせめて家事くらいちゃんとできなきゃね』って……それだけが僕の価値みたいに言われて」
「……先輩」
「親は忙しいから仕方ないんだけど……でも、たまに思うんだ。僕はここにいなくていいんじゃないかって」
橙の声が震える。

「だから……料理で認めてもらえなかったら、僕には何も残らないから」
そう言って、橙は使った包丁を手に取り、水で洗い始めた。

(僕って、本当に何の価値もないのかな……)
そんなことを考えながら、ぼんやりと刃先を見つめる。

不意に――
自分の手首に刃先が向いていることに気づいた。
(あ……)
それは衝動的なものではなかった。ただ、ふと。まるで吸い込まれるように。

「――ッ!」
次の瞬間、翔也が飛んできた。
橙の手首を掴み、包丁を取り上げる。

「っ……!」
「……なに危ないことしてんすか」
翔也の声が震えている。

顔が近い。心臓の音が聞こえそうなほど近い。
「ご、ごめん……別に、そんなつもりじゃ……」
「つもりじゃなくても!」
翔也は強く橙を抱きしめる。

「俺、マジで焦ったんすから……先輩が、いなくなるとこ想像したら……」
その腕の力が強くて、あたたかくて――橙は何も言えなくなった。

しばらく沈黙が続く。

やがて翔也が、ぽつりと呟いた。
「……先輩、自分のこと、価値がないとか言ってたっすけど」
「……」
「そんなわけねぇっすから」
翔也は橙の肩に顔を埋める。

「先輩は……俺にとって、めちゃくちゃ大事な人っす」
橙の心臓が大きく跳ねる。
「俺……母親、小学生のとき死んだって言ったっすよね」
「……うん」
「あの頃、マジで何もかもどうでもよくなって。学校もサボりまくって、喧嘩ばっかして」
翔也の声が少し震える。

「誰とも関わりたくなかったんす。どうせまた、いなくなるって思って」
「翔也くん……」
「でも……先輩と出会って、変わったんす」
翔也は少しだけ顔を上げ、橙の目をまっすぐ見つめた。

その吊り目が、いつもより優しく見える。
「先輩が作ってくれる飯食ってると……なんか、あったかい気持ちになるんすよ」
「……」
「母親の記憶、もうほとんど忘れちゃったんすけど……でも、母親と一緒にいたときって、こんな感じだったのかなって」
翔也は少し照れたように視線をそらす。

「だから、最初は……母親の代わりみたいに思ってたのかもしんねぇっす」

「でも、違ったんすよ」
翔也が再び橙を見つめる。

「先輩は母親じゃねぇ。先輩は……先輩っす、橘花橙なんす」
初めて名前で呼ばれて、橙の心臓が大きく跳ねた。

「先輩の笑顔が見たいとか、先輩と一緒にいたいとか……そういうの全部、俺の気持ちなんすよ」
「……っ」
「俺……先輩のこと、好きっす」
息が止まる。

「……恋愛的な意味で」

橙は、頭が真っ白になった。

「え……」
「別に、返事とか今すぐじゃなくていいっす。ただ……」
翔也の腕に少し力が入る。

「先輩が自分のこと、ダメな奴だとか、価値ないとか思ってるのが……俺、我慢できなくて」

「……っ」

「先輩は、めちゃくちゃすごい人っす。料理も上手いし、優しいし……何より、先輩といると、俺……安心するんすよ」
翔也の言葉が、胸に染み込んでいく。

「だから……もっと自分のこと、大事にしてほしいんす」
橙の目から、ぽろりと涙が零れた。

「……ごめん」
「謝らなくていいっす」
翔也は優しく橙の頭を撫でる。
「ただ……明日も、先輩に会いたいんで」
「……」
「だから……いなくならないでほしいんす」
その言葉に、橙の涙がさらに溢れる。

「うん……ごめんね。もう、しないから」
「約束っすよ」
「……約束」
二人はしばらく向かい合っていた、橙は恥ずかしくて目を逸らしていたが翔也が優しく微笑んでいることだけははっきりわかった。
だって橙の頭を撫でる翔也の手がこんなにも
ーー(暖かくて安心する)

窓の外では、夕日が金木犀の木を照らしている。
甘い香りが、秋風に乗って教室に流れ込んできた。
やがて翔也が手を離し、少し照れたように言った。
「あ、あと……俺、明日も先輩の飯、食いたいんすけど」
「……え?」
「だから……明日も、一緒にお昼食べていいっすか?」
その無邪気な言葉に、橙は思わず笑ってしまった。

「……うん。もちろん」
「っしゃ!」
翔也が嬉しそうに笑う。その笑顔を見て、橙の胸があたたかくなる。

「じゃあ……また明日っす!」
「うん。また明日」
翔也が教室を出ていく背中を見送りながら、橙は静かに思う。

(翔也くんは……僕のことを、必要だって好きだって言ってくれた)
(それだけで……こんなにあたたかい気持ちになるなんて)
胸に手を当てる。心臓が大きく跳ねている。
(これって……)
(恋、なのかな……)
なにぶん生まれてこのかた恋愛なんてしたことがないからわからない

橙は窓の外の金木犀を見つめた。
もうすぐ散ってしまう花たちが、夕日に照らされて美しく輝いている。

(でも……僕なんかが、翔也くんの気持ちに応えられるのかな)
(翔也くんは、こんな僕のこと好きだって言ってくれたけど……)
不安が胸をよぎる。
(あのタイミングだから翔也君も、焦って思ってないとこ言っちゃったのかも)
答えはまだ、わからない。

でも――
翔也の腕の中の温もりは、確かに橙の心に残っていた。

橙は弁当箱をカバンにしまいながら、小さく呟いた。
「また……明日」
その言葉が、いつもより少し震えていた。
その夜、橙の部屋
橙はベッドに横たわり、天井を見つめていた。
(翔也くんが……僕のこと、好きだって)
何度思い返しても、心臓が跳ねる。
(でも……僕、どうしよう)
スマホを手に取る。
翔也からのメッセージはない。

(当たり前だよね……今日、あんなこと言われて、僕……何も答えられなかった)
橙は枕に顔を埋めた。

(翔也くん……明日、普通に話せるかな)
(気まずくなったら、どうしよう……)
不安と、でもどこか嬉しい気持ちが入り混じって、橙は一睡もできない夜を過ごした。
窓の外では、満月が静かに輝いていた。

翌日・昼休み
橙は廊下を歩きながら、心臓をどきどきさせていた。
(今日……翔也くん、来るかな)
(もしかして、昨日のこと後悔してるんじゃ……)

そんなことを考えながら家庭科室の前まで来たとき――

「先輩!」
振り返ると、翔也が笑顔で立っていた。 
いつもと変わらない、無邪気な笑顔。
「お、おはよう……」
「おはようっす! ……あ、いや、もう昼か」
翔也は照れたように頭を掻く。

「あの……昨日は、その……」
橙が何か言おうとすると、翔也が先に口を開いた。

「先輩、無理しなくていいっすよ」
「え……?」
「俺、昨日告白したっすけど……別に、すぐ返事とかいらないんで」
翔也はまっすぐ橙を見つめる。

「ただ……俺、先輩と一緒にいたいんす。それだけは本当っすから」
その言葉に、橙の胸があたたかくなる。

「だから……また明日も、一緒にお昼、食べましょう」
「……うん」

橙は小さく頷いた。
でも――

(僕、このままでいいのかな)
心のどこかで、不安がくすぶり始めていた。​​​​​​​​​​​​​​​​