秋の日差しが窓から差し込む家庭科室は、誰もいない昼休みの特等席だった。
橘花橙は、職員室で借りた鍵を手のひらで握りしめながら、扉を開ける。
カチャリという金属音が静かな廊下に響いて、それだけで少し緊張してしまう自分が情けない。
「誰も、いないよね……」
小さく呟いて室内を見回す。
前方には大きなホワイトボード、ガスコンロの付いている調理台が整然と並び、壁際には食器棚、電子レンジ、トースターが静かに佇んでいる。
窓の外では秋の冷たい風に吹かれた木々が揺れている。
家庭科部所属の特権で、橙はここを自由に使える。
温かいご飯を食べられる――ただそれだけのことが、僕の世界を少しだけ彩ってくれる。
「えっと、二分ずつで……いいかな」
カバンから取り出したのは、紺色と黒色、二つの弁当箱。どちらも同じサイズで、同じように丁寧にラップがかけられている。
橙は慣れた手つきでラップを外し、別々の電子レンジに入れた。
ピッ。
電子音とともに、機械の中で弁当箱がゆっくりと回り始める。その単調な音を聞きながら、橙は窓の外を眺めた。
(翔也くん、今日も来るかな……)
そう思った瞬間――
バンッ!
勢いよく扉が開く音に、橙は小さく肩を跳ねさせた。
「すんません! 授業が長引いて……!」
息を切らせて入ってきたのは、金髪の一年生――犀川翔也だった。
少し汗ばんだ額、乱れた金髪、荒い息遣い。
学ランは前を開けていて、中には赤いTシャツが覗いている。
「大丈夫だよ、翔也くん。今、ちょうど温めてるところだから」
橙は穏やかに笑いかける。
その笑顔を見て、翔也の表情がふっと緩んだ。
「おお! 今日もマジで美味しそうっすね!」
翔也は電子レンジの小窓に顔を近づけ、まるで子どものように鼻をひくひくと動かす。
その仕草があまりに無邪気な子犬のようで、橙は思わず小さく笑った。
「あと一分……く〜、早く温まらねえかな〜」
「そんなに楽しみにしてくれるの、嬉しいな」
橙が呟くと、翔也は少し照れたように頭を掻いた。
「だって、先輩の飯、マジでうめぇんすもん」
その言葉に、橙の胸の奥が少しくすぐったくなる。
ちょうどポットが沸いた音を立てたので、橙は棚から急須を取り出した。
引き出しの奥から緑茶のティーバッグを探し出し、湯を注ぐ。
淡い緑色がゆらゆらと広がっていく様子を、橙はぼんやりと眺めた。
「あ、すんません! 俺、コップ取ってきます!」
翔也が勢いよく立ち上がろうとして、橙は慌てて手を伸ばす。
「あ、ありがとう。でも、焦らなくて大丈夫だよ」
「っす!」
翔也は素直に頷いて、食器棚からコップを二つ取り出した。その背中を見ながら、橙はふと思う。
(翔也くんって、本当に素直だな……)
チン。
電子レンジが鳴った。
扉を開けると、あたたかい湯気と一緒に生姜焼きの香ばしい匂いが教室いっぱいに広がる。
「うわっ、めっちゃいい匂い!」
翔也の目が輝く。
その反応が嬉しくて、橙は少し胸を張った。
「今日は生姜焼き。昨日の夜から漬け込んでおいたんだ」
「マジっすか! 先輩、そういうとこマジで主婦っすよ」
「しゅ、主婦って……」
頬が少し熱くなるのを感じながら、橙は二つの弁当を調理台へと運ぶ。
翔也も急いで椅子を引いて座った。
窓の外から秋の日差しが二人の間を柔らかく照らしていた。
「「いただきます」」
二人の声が重なる。
翔也は待ちかねたように箸を動かし、真っ先に生姜焼きを頬張った。
「んーっ! やっぱりうまいっす! マジで最高!」
その無邪気な笑顔に、橙の胸の奥がまたくすぐったくなる。こんなに素直に喜んでくれる人が、今まで周りにいただろうか。
「よかった……。昨日の夜から漬けてた甲斐があったな」
「そりゃ美味いに決まってるっすよ! 先輩の愛情がこもってんすから」
「あ、愛情って……」
橙は慌てて視線を落とす。
翔也は気づいていないようで、夢中で弁当を食べ続けている。
その食べっぷりを見ているだけで、橙は不思議と満たされた気持ちになる。
自分が作ったものを誰かが美味しそうに食べてくれる――それだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて。
「ごちそうさまでした!」
翔也が箸を置いたとき、橙の弁当はまだ三分の一ほど残っていた。
「は、早い……」
「だって先輩の弁当、うますぎるんですよ。気づいたら食べ終わってるんす」
翔也はにかっと笑う。
その笑顔がまぶしくて、橙は思わず視線をそらした。
「じゃあ俺、先輩が食べ終わるまで見てていいっすか?」
「え……?」
「だって、先輩が食べてるとこ見るの、俺好きなんで」
翔也は無邪気にそう言って、頬杖をついた。その視線を感じて、橙の心臓が大きく跳ねる。
(それ、どちらかというと僕のセリフじゃ...)
「み、見られてると緊張するんだけど……」
「いいじゃないっすか。減るもんじゃねぇし」
「そういう問題じゃ……」
残りの弁当を食べ終えるまで、翔也は本当に静かに、けれど楽しそうに橙を見つめていた。
その視線が優しくて、橙は何度も胸が締め付けられるような気持ちになる。
「ごちそうさま……」
「っす! じゃあ片付けましょう!」
二人で食器を洗い、弁当箱をしまう。
その何気ない時間さえ、橙にとっては特別なものに感じられた。
「じゃあ……名残惜しいっすけど、俺、次体育なんで」
翔也が立ち上がり、カバンを肩にかける。
「うん。頑張ってね」
「っす! ……また明日!」
そう言って教室を出ていく背中を、橙はじっと見つめた。
「……また明日」
小さく呟いた言葉が、いつもより少しあたたかく響いた気がした。
橙が窓の外の金木犀の木を眺めながら、ふと思う。
(翔也くんが僕の周りに現れるようになったのは、最近のことだ……)
あの日は、今よりもう少し過ごしやすい寒さの日だった。
昼休み、橙はいつものように校舎裏のベンチで一人、弁当を広げていた。
ここなら誰にも邪魔されない。
一人でいることに慣れている橙にとって、それは当たり前の風景だった。
校舎裏には金木犀の木があり、ちょうど満開の時期で、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。
橙はその香りを深く吸い込んだ。
(この香り、好きだな……)
そう思いながら弁当を食べ始めたとき、だった。
「よお、一人で寂しそうじゃん」
聞き覚えのない声に顔を上げると、三人の上級生が立っていた。見るからに柄の悪そうな三年生だ。
「あの、何か……?」
橙は小さく声を震わせながら尋ねる。
「いやさ〜、ちょっと金貸してくんない? 千円でいいからさ」
「で、でも僕……」
「いいじゃん減るもんじゃねぇし」
一人が橙の肩に手を置く。
その重さに、橙は思わず身体を強張らせた。
(どうしよう……誰か……)
「おい」
低く、鋭い声が響いた。
橙が顔を上げると――二階の窓から、誰かが飛び降りてきた。
風に靡く金髪が太陽光を浴びて輝いている。
飛び降りる瞬間、風でTシャツが捲れて、引き締まった腹筋がちらりと見えた。
ドンッ。
軽やかに着地した少年は、学ランを着崩し、中には赤いTシャツ、ズボンは少し丈が余っている。見るからにヤンキーだった。
「随分しょーもないことしてんな」
少年は、三人を鋭く睨みつけた。
「目障り。失せろ」
その凄みに、三年生たちは一瞬で顔色を変える。
「う、うわ……コイツやばい」
「行こうぜ」
三人はあっという間に逃げていった。
橙は呆然と、目の前に立つ少年を見上げる。
金髪、吊り目、小麦色の肌――橙とはまったく逆の見た目だ。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
橙が頭を下げると、翔也は少し照れたように視線をそらした。
「別に。たまたま通りかかっただけ」
そのとき、橙は翔也の腕に擦り傷があることに気づいた。
「怪我……大丈夫?」
「あー、そこの階段でぶつけたんだろ。てか俺、一発もくらってねぇの見てたろ」
「でも、血が……」
橙は慌ててポケットから絆創膏を取り出す。
「絆創膏、持ってるから」
「いらねぇ」
「でも……」
「いらねぇって――」
グゥゥゥゥ……
そう強がる少年の腹が、大きく鳴った。
二人の間に沈黙が落ちる
橙は思わず翔也の顔を見上げる。
少年は顔を真っ赤にして、ぷいっと横を向いた。
「……お昼、まだなの?」
「昼は食べねぇ主義」
「でも、お腹空いてるんでしょ……?」
橙は少し迷ったあと、自分の弁当箱を差し出した。
「僕のお弁当……もしよかったら、食べる? まだ手をつけてないから」
翔也は驚いたように目を見開く。
「……マジで?」
「うん。僕、結構作りすぎちゃって……一人じゃ食べきれないから」
本当は一人分しかないのに、橙は咄嗟にそう嘘をついた。
でも、この子の空腹そうな顔を見ていたら、放っておけなかった。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
遠慮がちに箸を手に取り、おかずを一つ口に運ぶ。
次の瞬間――
「うんま!!」
強面の顔が、パッと輝いた。
「先輩、マジでうめぇっすね! 何これ、売れるレベルっすよ!」
「そ、そんな大げさな……」
「大げさじゃねぇっす! マジで今まで食った飯の中で一番うまいかも」
金髪の少年は夢中で弁当を食べ始める。
その食べっぷりを見ていると、橙の胸の奥があたたかくなった。
(こんなに喜んでくれるんだ……)
「先輩、もしかして料理得意なんすか?」
「うん……家でいつも作ってるから」
「へぇ〜。一人暮らし?」
「ううん、両親と一緒だけど……二人とも帰りが遅いから、僕が夕飯作ってるんだ」
「マジか。偉いっすね」
「偉いとか、そういうんじゃなくて……慣れてるだけ」
橙は少し寂しそうに笑う。
「小さい頃からずっとそうだったから、一人でいることに慣れちゃって」
その言葉に、少年の箸が止まる。
はじっと橙を見つめたあと、ぽつりと呟いた。
「……俺も、一人でいること多いっすよ」
「え……?」
「母親、小学生のときに死んで。親父は失踪。今はばぁちゃん、じぃちゃんと三人暮らしっす」
橙は息を呑む。
「そんな……ごめん、変なこと聞いちゃって」
「いや、別に。もう慣れたっすから」
気にも留めない様子で少年はそう言って、また弁当を食べ始めた。
でも、その横顔はどこか寂しそうで――橙は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
(この子も……一人なんだ)
二人はしばらく、金木犀の香りの中で静かに時間を過ごした。
「ごちそうさまでした」
翔也が弁当箱を返すとき、その顔は少しだけ穏やかだった。
「……じゃあ、また明日っす」
「え……?」
「また明日、ここに来ていいっすか?」
橙は驚いて翔也を見上げる。
少年は少し照れたように頭を掻きながら、続けた。
「俺、先輩の飯、また食いてぇんす」
その無邪気な言葉に、橙の胸の奥があたたかくなる。
「……うん。また明日」
金髪の少年はにかっと笑って、校舎へと戻っていった。
(あの日から……翔也くんは毎日、僕のところに来るようになった)
橙は窓の外を眺めながら、小さく微笑む。
(まるで野良猫みたいだな……)
でも、嫌じゃなかった。
むしろ、翔也が来てくれることが、橙にとって毎日の楽しみになっていた。
「また明日」
その言葉が、少しずつ橙の世界を変えていく――そんな予感がしていた。
