先輩は瞼を伏せ、わずかに微笑んだ。
とは言え、こっちは全然笑えない。彼から視線を外せないまま後ろに後退る。

「俺……って、気付いてたんですか」
「当たり前だろ。確かに、昔よりずっと大人っぽくなったけど」

乱れていたらしく、手ぐしで優しく髪を梳かれる。少しくすぐったくて、思わず目を瞑った。
うわわ。何か知らんがめっちゃ恥ずかしい。

「同じマンションに住んでるのに全く会わないから……俺のことなんて忘れてると思ってました」

無性に照れくさくて小声で呟くと、先輩は目を眇め、低い声で答えた。

「忘れるわけないだろ。俺がお前を……」
「え?」
「……」

しかしその先は小さ過ぎて、聞き取れなかった。
「何ですか? 何何?」
耳に手を添えて近付くと、何故か頬をぎゅっと押された。ぐむっという変な声を上げ、後ろの壁に押し付けられてしまう。

「それよりお前、どうして廊下で寝てたんだ?」
「……」

両側に先輩の手が伸びて、小さな空間に閉じ込められる。
息が詰まりそうで、自分の襟元を押さえた。逃げ出したいけど、どうあっても逃がさない、という力強い声と視線。

どうしよう。

先輩を襲うとしてる奴らがいるから、と言うのは憚られた。余計なお世話だと冷ややかに言われるに決まってる。

そもそもマンションで全然会わなくなったのも……実は避けられたからなんじゃ……。
自意識過剰かもしれないけど、つい考えてしまう。
知るのが怖い。何だか急に息苦しくなってきた。

「ね……寝るのにちょうどよさそうな廊下だな、っ思って」

悩んだ挙げ句アホ過ぎる言い訳をすると、案の定先輩は神妙な表情を浮かべた。

「俺もどこでも寝るけど、廊下で寝ようと思ったことはないな」
「ろ、廊下で寝たのは初めてですっ。それに先輩だって机の上なんかで寝たりして。寝返りしたら床に落ちますよ! 危ないです!」

ついつい必死に言い返してしまった。言ってからしまった、と口元を手で抑える。

「じゃあお前は俺が机で寝てるのを確認してから、廊下で寝たわけか」
「い、いや……」

図星過ぎて、気まずさが大気圏を突破した。
何とか彼のエリアから逃れようとしたけど、むしろ腕の中に引き寄せられてしまう。

「わわわ。ちょっ、辰野先輩」
「名前で呼べよ」

先輩は不可解そうに眉を寄せた。