確かに、未来のことは誰にも分からない。特に夫婦は当事者同士のことだし、俺みたいな他人が下手に口を出していいことでもない。
「でも、先輩のお父さんになる人だから。……なにかあったら、先輩もちゃんと気持ちを伝えていいと思います。お母さんの為にも」
最後の方は消え入りそうな声になってしまったけど、何とか言えた。先輩は頷き、俺の額にキスした。
「そうだな。今は見守って……ちゃんと祝福しようと思う」
「……うん」
引っ越しのことは訊けなかった。
でも、再婚の話を聞けただけで充分だと思った。
あれもこれもって訊くと、俺の頭もパンクしそうだし。今は見えてるものだけ、ひとつずつ拾っていこう。
横になって、先輩の腕枕で眠りに落ちる。
この瞬間を大切にしたい。
周りから見ればただ寝てるだけ。でも俺にとって、これはデートとそんな変わらなかった。
俺達しかいない場所で、人目を気にせず触れ合える。これはこの部屋でしかできないことだ。
まどろみの中で手を繋げば、眠りに陥るのは一瞬。
アラームが鳴るのも一瞬だ。さっき瞼を閉じたと思うのに、もう十八時を知らせる音楽がスマホから鳴っている。
「う〜ん……」
ちょっと残念な気はするけど、デートはまだ終わってない。
「起きましょうか……」
同じ方向。同じマンションに帰れる今は、幸せ継続。
隣ですやすやと眠る恋人の頬をつつき、声をかけた。
「朋空先輩。帰りましょ」
◇
「あっという間だな」
帰り道、朋空先輩は呟いた。
「お前と過ごしてるとあっという間。授業中はあんなに長いのに」
「ははっ! 俺もそうです」
横断歩道を渡り、いつもの並木道を抜ける。誰もいないのを良いことに、先輩と手を繋いだ。
「先輩が来年からいなくなる、と思うと……今から死にそうです」
「俺も卒業したくないけど、大丈夫。……会いに行くよ」
先輩は強く手を握った。
「前は、会いたいけど会えなかった。でも今は違う。いつでも会いに行ける」
「あの……会えなかったっていうのは、どうして?」
「俺が弱かったからさ。前も言ったかもしれないけど、お前を守れる自信がないから離れてた」
マンションの中に入り、エレベーターのボタンを押す。
いつものように乗り込み、先輩の部屋がある三階に止まった。
「雅月、公園で俺と隠れんぼしたこと覚えてる?」
「え?」
隠れんぼ?
すぐに小学校の頃の話をしてるんだと分かったが、思い当たる記憶はなかった。あの頃は確かカードゲームに熱中していたからだ。小六にもなると遊具で遊ぶこともなかったし、鬼ごっこなんかもしたことはない。
だから頭の中が真っ白になった。先輩は俺の反応が分かっていたように、ゆっくり廊下に出た。
「……だよな。ごめん、今のは忘れて。……おやすみ」
頬を撫でる手はいつものように優しかった。
でも先輩の後ろ姿は、何故か寂しく映った。
何だ……このざわざわした感じ。
俺は、絶対なにか忘れてる。それもすこく大事なことを。
先輩は時々苦しそうな顔をする。自分自身を責めてるような姿は、まるで罪悪感があるみたいだった。
その理由を知らなきゃいけない。四階に下りて、足早に家に入った。
「おかえりなさい、雅月」
「ただいま。ねぇ母さん、いきなりなんだけど、朋空せんぱ……」
「ん?」
「朋空さん、いるでしょ。辰野さんの息子の」
母はリビングで書き物をしていたが、手を止めて俺のことを見た。
「朋空くんがどうしたの?」
「あの……昔、何かなかったっけ。俺あんまり覚えてなくて」
襟元を緩め、母の正面に座る。先に手を洗えと怒られるかと思ったが、幸いそこは注意されなかった。
「何かって、何? 何の話?」
「俺もよく分かんないけどぉ……何かあったと思うんだよ」
母なら、昔何があったか覚えてるはず。しかし肝心の内容がアバウト過ぎて、思い出してもらうのも一苦労だった。
思い出せ。先輩が言ってたことと、……俺がこの間気付いた違和感を。
「公園で遊んでた日。俺と朋空先輩の帰りが遅いこと、なかった?」
一縷の望みを持って尋ねる。すると母は少し考えたのち、顔を曇らせた。
母のそんな顔を見たのは久しぶりだ。
訊いちゃいけないことだったのか……?
焦燥したものの、もう遅い。どのみち忘れたまま過ごすなんて嫌だった。
忘れてはいけないことを忘れてるなら……俺は絶対に思い出さなきゃいけない。
固唾をのんで待つ。母は、どうしたものかと困りながら静かに告げた。
「雅月……それってもしかして、知らない人に追われた時のこと?」


