「とっ。もそら先輩、おはよう!」
「お。おはよう」
翌朝。
マンションを出てすぐ先輩の背中を見つけた。
……色々訊きたいけど、やっぱりすごくプライベートなこだ。訊けない。
先輩の顔を見たら気が変わらないか心配だったけど、杞憂みたいだ。絶対俺から訊いちゃいけない、と改めて感じた。
先輩が話してくれるまで待とう。
でも……先輩は三年生だ。進路のことがあるし、ゆっくりしてたらあっという間に遠い場所に行っちゃうんじゃないか。
考えたら目眩がしてきた。
いや、しっかりしろ。一番辛いのは先輩なんだ。
先輩も今混乱の中にいて、必死に納得しようとしてるのかもしれない。そうだとしたら、俺が不安になってる場合じゃない。
「雅月、今日はいつも通りだな」
「あ、見た目のこと?」
訊くと、彼は頷いた。そこは正直に、早起きできなかったからと答える。
「ははっ。分かる。ぎりぎりまで寝てたいよな」
「……うん」
俺も単純だから……朋空先輩の笑顔を見ただけで、大抵のことはどうでもよくなる。
この先もずっとずっと、先輩に笑っててほしい。
「じゃ、放課後な」
「はい。また後で!」
先輩と別れて、今日も長い一日が始まる。
朋空先輩と付き合いだしてから有名になってしまったけど、基本はいつも通りだ。文化祭も近くなってきたから、やることと言えばその準備。
クラスメイトは俺が適当な性格ということを知ってるから、美人だなんだって持て囃されてからも態度は変わらなかった。それにめちゃくちゃ感謝して、放課後は先輩と研究室で眠る。
今だけでも本当に幸せ。怖いほど……。
「入川。何か元気ないな?」
「そう? し、幸せだよ」
「いきなり幸せってワードが飛び出してくんのも心配だな……」
教室の窓際でぼうっとしてると、館原が苦笑しながらやってきた。
本当に、彼には心配ばかりかけてる。
「いつもごめんな。もうちょっとしっかりしたいと思ってんだけど」
「別に。お前は警戒心ない以外はしっかりしてるよ」
素直過ぎて心配、と彼は壁に寄りかかった。
「でも、その素直さがお前の一番の長所だもんな。……他人を疑うのも疲れるし。やっぱそのまんまでいいよ」
「ほんとに、このままでいいのかな?」
「いいよ。俺が保証する!」
何の根拠もない台詞だけど、館原のおかげで尚さら元気が出た。礼を言い、教室を出る。
落ち着いて見ると、付き合ってそうな二人組をちらほら見かける。今までは興味がないから全然見えてなかったのかもしれない。
好きな人ができてからは、世界が変わって見える。これは地味にすごいことだ。
でも未だに、俺は恋人らしいことをしてない。キスはしたけど、そういうんじゃなくて……もっと喜んでもらえることがしたいんだ。
朋空先輩は何をしたら喜んでくれるだろう。
寝るのが好きだから、良い寝具をプレゼントするとか?
ううん……悩む。
結局何も思いつかずに放課後を迎えた。研究室へ行こうとすると、ちょうど朋空先輩を見つけた。
「朋……」
すぐに駆け寄ろうとしたけと、同じタイミングで先輩に話しかけた男子がいた。
おっと……。
思わず口を押さえ、足を止める。
「あの、辰野先輩。良かったらちょっとお話できませんか……?」
どうやら一年生のようだ。恥ずかしそうに声を掛けてるから、多分朋空先輩に好意を持ってるんだろう。
何もなければ応援してしまいたくなる。でも朋空先輩と付き合ってる俺としては、胸が痛くなった。
先輩は何て返すんだろう……。
不安に押されながら様子を見守っていると、朋空先輩は優しい声で、その男の子に振り返った。
「ごめんね。今日はこれから用事があるんだ」
「そ、そうですか。すみません、引き止めて」
「ううん。君も気をつけて帰ってね」
おぉ。
さすがに慣れてる。二人のやりとりを見て、ホッとした。
男の子に見つからないよう遠回りして研究室に向かう。部屋の前へ行くと、朋空先輩がこちらを見て笑った。
「お疲れ」
「お、お疲れ様です。すぐに鍵あけますね!」
職員室で借りてきた鍵を取り出し、ドアを開ける。部屋に入ると、突然ドアに押しつけられた。
「ち、ちょっと先輩っ?」
「もう少しこのままでいさせて。体力回復してんだ」
そのままぎゅっと抱き締められる。先輩からすれば抱き枕に思いきり抱き着いてるような感覚なんだろうけど、俺はめちゃくちゃ心臓に悪い。
「ところで、さっき廊下にいただろ。何で声掛けなかったんだ?」
「うぇっ。み、見えちゃいました?」
「チラッとな」
朋空先輩は体を離し、俺の顔を覗き込む。
「……あの子が、先輩に告白するのかと思って……声掛けたらまずい気がして、隠れちゃいました」
「隠れる必要はないだろ。OKするわけないんだから」
「でも、躊躇はしちゃいますよ。可愛い子でしたし」
先輩から視線を外し、俯く。
ただでさえ可愛い子が照れくさそうにしてたら、勝てる気がしない。そう言って項垂れると、先輩は俺の腰を引き寄せた。
「確かに可愛い子だったな」
「や、やっぱり」
「でも、俺は可愛いだけで付き合ったりしないから」
ドアの鍵がかかる音が聞こえた。
俯く俺の顔に手を添え、ゆっくりと上向かせる。
「俺が欲しいのは、ずっと前からお前だけだよ。……雅月」
「先輩……んっ」
唇を塞がれる。以前と同じく柔らかくて、とけてしまいそうだった。
唇が触れてるだけなのに、どうして包まれてる感じがするんだろう。
瞼を伏せると、そのまま夢の世界に連れて行かれる気がした。
「こらこら。立ったまま寝るなよ」
「あ。すみません……」
「ははっ。ま、倒れたら支えるからいいけど」
……っ。
これはやっぱり、先輩の底なしの優しさに包まれてるのかも。
じゃあ俺もそれだけの包容力を見せないと。男なんだから!
という謎の決意を抱き、先輩に向き直った。
「朋空先輩!」
「ん?」
「なっなっ……なにか悩みがあるなら、遠慮なく言ってください! 役に立つかは分かりませんが、全力でお支えします!」
「……」
俺としてはかなり真剣に言ったんだけど。先輩は数秒フリーズした後、堪えきれない様子で吹き出した。
「何で笑うんですか……」
「ふはっ……いや、だって唐突だから……」
先輩はひとしきり笑った後、俺の頭を撫でて笑った。
「大丈夫だよ。よく分かんないけど、心配してくれてありがと」
「本当に大丈夫ですか……?」
「あぁ。ていうか、雅月はやっぱ良い子だなー」
朋空先輩は俺を抱き締め、唄うように呟く。
「もう俺の部屋に持って帰りたい」
「あはは。良いですね、それ」
叶うなら、俺も朋空先輩の部屋に住みたい。想像したら毎日楽しそうで、胸が高鳴った。
……それは一旦置いといて。先輩、本当に悩みはないのか……。
素直に喜んでいいかも分からず、複雑な気持ちになる。
でもその時、ぐう、という音が朋空先輩から聞こえた。寝てる時ならいびきかと思うけど、今はがっつり起きてる。ということはお腹の音だろうか。
「先輩、お腹空いてるの?」
「あ〜……今日昼食べてないから」
「何で? お腹空くでしょ」
「うん。でも売店行くのもめんどくさくてな」
先輩はふうとため息をつく、困ったように頭を搔いた。
「俺が売店に行くだけで周りが大騒ぎになるんだ。赤城や他の奴が代わりに買ってくるって言ってくれるんだけど、それもパシらせるみたいで嫌でさ」
「そうだったんですか……」
やっぱり大変だ。お昼ご飯すら気軽に買いに行けないのはあまりに酷い。
でも待てよ?
「先輩、お弁当とかは……」
「母親が忙しいから、弁当はないな。学校の売店以外じゃいつもコンビニ」
朋空先輩は少しだけ寂しそうに言った。
「別に親に作ってほしいとかは思わないけど。友達の美味そうな弁当とか見ると、良いな、とは思う」
「……」
その時の彼の表情が印象的で。別れて、家に帰ってからもずっと脳裏に焼き付いていた。


