「このままじゃいけないと思って、離れたんだ。それがこんな風に話せるなんて」
先輩は横向きになり、スマホを枕元に置いた。

「今もちょっと、夢でも見てるんじゃないないか……って思う」

俺が思うならともかく、朋空先輩がそんな風に思うなんて。……意外過ぎた。
そんなこと聞いたら、俺もめちゃくちゃ自惚れちゃうじゃないか。

「現実ですよ。ほら、触れるでしょ」

彼の空いた左手をとり、そっちも繋ぎ合わせる。温かくて、自然と眠りに誘われそうだ。
朋空先輩も同じなのか、目を細め、静かに頷いた。

「幸せだな……」

……。

俺も。
という言葉をぐっと飲み込んだ。

こんなに尊い存在がいるなんて。一週間前の自分は夢にも思わなかった。
季節通り、とうとう俺にも春がやってきたってことか。
内心苦笑して、寝息を立てる朋空先輩を眺めた。

もう寝ちゃった。寝つきがいいのか、寝不足なのか……分からないけど、寝顔が可愛過ぎて考えることを放棄してしまった。

……さてと!

朋空先輩を起こさないよう、音を殺してベッドから起き上がった。彼は少しの振動でも気付きそうだから、部屋を出るまでに一分近くかかってしまった。
扉を開け閉めし、何とか廊下に出る。
「ふぅ」
これはこれで大仕事だな。向かいの壁に寄りかかり、天井を見上げた。

朋空先輩がこの研究室に来てることを、恐らく多くの生徒が知ってしまった。
正直鍵をかけてるぐらいじゃ安心はできない。先輩に安眠してもらうには、やはり俺が廊下で見張って、来訪者がいたら対応することだ。

案の定数人の生徒がやってきたが、丁重に説得して帰ってもらった。できれば先輩が寝てるときではなく、朝や授業後の休み時間に話しかけてほしい、と伝えて。
何だかんだスマホを見ていると、あっという間に夜がやってきた。

ドアを開け、最奥のベッドに片膝を乗せる。

「おはようございます」

ブランケットを少しだけめくり、瞼を開けた彼に笑いかけた。

「帰りましょ、朋空先輩」



夏は日が長いけど、空が薄紫に染まったらあっという間に夜に傾く。
マンションに辿り着き、エレベーターのボタンを押した。

「……寝癖すごかったな」
「あはは。気にするほどじゃないですよ」

エレベーターに乗り込み、姿見を見た朋空先輩はぽつりと呟いた。
「授業終わってるから帰るだけだし。髪が乱れた先輩も、それはそれでかっこいいし」
「相変わらずおだてんのが上手いな」
三階と四階のスイッチを押す。先輩が降りる三階に到着するのは、本当にすぐだった。

明日また会えるのに……別れるのが惜しい。

「お世辞じゃないよ。一番かっこいい」
「……嬉しいこと言ってくれるな」

扉が空く三秒前。まばたきと同じほどわずかな時間、口付けを交わした。

「おやすみ。俺の雅月」
「……っ」

こちらがなにか言うより先に、扉は閉まった。せめておやすみなさいぐらいは言いたかったけど、声が上手く出ない。

うう。タイミング難しい……。

そもそも不意打ちが多過ぎて、朋空先輩にペースを乱されっぱなしだ。
でも別れの挨拶すらできないなんて。……こんな状態で別れたら、また眠れなくなりそう。

鏡に映った自分の顔は、思ったとおり真っ赤だし。

四階に到着し、外廊下を歩く。右側は部屋と壁、左側は開放的な夜景が広がっている。
「…………」
何となく手すりを掴み、外側に乗り出し、下を覗いた。
「……朋空先輩?」
「おぉ。バレた」
下側を覗くと、白くて細い腕だけ飛び出てるのが見えた。何も知らなかったらホラーっぽいけど、思わず吹き出してしまう。

「あははっ。何してんですか」
「お前がドア閉めた音が聞こえたら、俺も部屋に入ろうと思って」

朋空先輩は、凛とした声で答えた。
夜でも蒸し暑い外で、鈴のように透き通る。ずっと聞いていたくて、できる限り顔を下に向けた。
「マンションの中とはいえ、防犯意識は大事だからな」
「大丈夫ですよ。……でも、良かったです。このまま部屋に入るの、何か悔しかったから」
「悔しい?」
不思議そうな声が返ってきたので、「はい」と言って自分の家の鍵を鞄から取り出す。

「朋空先輩、おやすみ。また明日ね」
「…………おぉ」

短い声が聞こえた。
これでよし! 心残りがなくなったので、自分の部屋に入った。

どうせなら同じフロアだったら良かったのに。でも、同じマンションってだけでラッキーか。
「へへ……」
靴を脱ぎ、家の鍵を棚に置く。
ただ一緒に帰るだけなのに、こんなにも胸が弾むなんて。恋人って、本当に偉大な存在なんだな。

リビングで待つ母に不審がられないよう、表情を戻すのが大変だ。

早く明日が来ますように。

初めて、心の底から学校が好きになった。それは全部、彼のおかげだ。