氷の花嫁~笑顔を失った能面の少女が幸せになるまで~

 守布の提出は終わったが、紗良には休む間もなく家事が待っている。

 しかも今日は大事なお客様が訪問する日で、屋敷中を丹念に掃除することになった。使用人たちは休憩を挟みながらやっていたが、紗良だけ伯母から水汲()みと薪割りを言いつけられ、休憩どころか食事の時間すらもらえない。

 屋敷の裏手にある井戸で水を汲む。運んでいる最中によたつき、水をこぼしそうになってしまい慌てて押さえた。

 (しんどいな……)

 (おけ)の水面に、紗良が映っている。

 こんなにもつらいのに、水に映った顔は能面のような無表情で、自分でもつらさを感じていないように見える。寒いのもあって顔色もやけに白っぽく、唇は乾燥してカサついている。左目の下にふたつ横並びの泣きぼくろがあるのが、辛気臭い表情に拍車をかけている気がした。

 「薪割りもやらなきゃ……」

 ふと、紗良の灰茶色の髪に綿毛のような雪がふわりと落ちる。見上げると、はらり、はらりと雪が舞っていた。

 「寒いと思ったら、雪が……」

 紗良の吐息が白く染まり、空を覆う一面の雲に紛れて消えていく。

 薪割りをしていると、みるみるうちに勢いを増した雪が地面を白く染め上げた。この勢いなら、久しぶりに雪が積もりそうだ。

 皇都の端にある織井村の辺りでは、積もるほど雪が降るのはせいぜい数年に一度で、前回積もったのは、おそらく三年前。もしかすると、両親が亡くなった日以来かもしれない。

 両親の顔は思い出せないのに、そんな意味のない記憶だけが残されている。

 こんなふうに雪が降っているのを見上げると、こめかみが(うず)いた。痛みというほどではないが、胸にぽっかりと穴が空いたような、ひどく(むな)しい気持ちになるのだ。

 なにか忘れてはいけないことを忘れてしまっている気がする。

 (……お父さんやお母さんが亡くなった時のことかしら)

 どれだけ考えても、雪のように白く塗りつぶされた思い出は(よみがえ)らなかった。

 なんとか薪割りを終え、ふらついて戻った紗良は、麦野から(ほうき)を突きつけられる。

 「お客様がいらっしゃるから、玄関前に雪が積もらないよう箒で払っておきなさいって。やっといてくださいよ」

 「はい……」

 紗良はもうくたくたで、少しでいいから休憩したい気持ちはあったが、逆らわずに箒を受け取った。

 (どうせ休憩したいとお願いしたところで、聞いてもらえないもの……)

 玄関に向かおうとすると、使用人たちは休憩中らしく楽しげに談笑しているのが聞こえ、紗良は箒の柄をギュッと握りしめた。

 玄関の周囲と前の道に薄く積もっていく雪を箒で掃くが、雪はしんしんと降っては道を覆い、掃いても掃いてもキリがない。

 (こんなに降るなんて。お客様は大丈夫かしら)

 頬に雪が落ちるたび、冷たさが痛いくらいだった。

 睡眠不足と慢性的な疲労で体がふらつく。考えに気を取られたせいか、薄く積もった雪に足を取られ、紗良の体がグラッと(かし)いだ。

 「あっ……!」

 咄嗟に踏ん張ろうとしても、疲れきった体はいうことを聞かない。

 倒れてしまう――そう思ったけれど、もう体勢を立て直すのは無理で、せめてギュッと目を閉じ、転倒の衝撃に耐えようと身を固くする。

 しかし、トンッと軽い衝撃だけがあり、紗良は誰かに抱き留められていた。

 「大丈夫か?」

 低いのに、どこか甘さを感じる声が紗良の耳に届く。

 「……え?」

 おそるおそる目を開けると、顔に包帯を巻いた青年が紗良の顔を(のぞ)き込んでいた。

 紗良を見つめる片方だけの瞳は謎めいた銀色で、ドキンと鼓動が跳ねる。

 視線が絡み合い、時が止まった気がした。

 紗良を抱き留めた青年は背が高く、鍛えられた(たい)()に漆黒の軍服を身に(まと)っている。

 紗良よりいくつか年上だろうか。怪我をしているようで、顔だけでなく首や手首からも包帯が覗き、見るからに痛々しい姿だったが、研ぎ澄まされた刃を連想させる(りん)とした雰囲気を青年から感じた。

 思わず目を奪われていた紗良は、ハッと我に返った。

 「す、すみません! お怪我をなさっているのに……」

 薬っぽい匂いがする。怪我をしている人に思いっきり体重をかけてしまったのだと気づき慌てて離れようとしたが、ぐんっと髪が引っ張られた。

 「痛っ……」

 紗良は青年の胸元に頭を擦るような体勢になってしまう。

 どうやら紗良の髪が彼の胸元のボタンに引っかかってしまったようだ。しかも、がっちり絡んでしまったらしく、痛みをこらえて引っ張ってもほどけそうな感触ではない。引っかかった位置も悪く、紗良にはどう絡んでいるのか見えなかった。

 ただひとつ幸いなことに、紗良は携帯用の裁縫道具を帯に挟み込んでいた。

 「も、申し訳ありません。ボタンに髪が引っかかってしまったようで……。お手数をおかけしますが、絡んでいる髪をこの(はさみ)で切っていただけませんか?」

 「ああ……」

 小さな鋏を取り出して青年に渡すと、少しの間の後、チョキンとかすかな音が聞こえた。

 「はい、取れた」

 静かで、どこか優しい声で囁かれ、紗良の胸の鼓動がわずかに早まる。

 「あ、ありがとうございます……」

 絡んだ髪が取れたおかげで、紗良はようやく頭を動かすことができた。

 顔を上げ、思わず「あっ」と驚きの声が漏れる。

 青年の軍服の真ん中、ちょうど紗良の髪が引っかかっていた箇所のボタンが欠けていた。彼の手の中でキラリと光るのは、先ほどまで胸元で輝いていた金ボタンだ。

 (私の髪ではなく、ボタンの糸を切って……)

 「申し訳ありません。髪を切ってくださってよかったのに……」

 「謝らなくていい。ただ、この()(れい)な髪を切るのが惜しかっただけだ」

 彼はそう言いながら、紗良の髪をひと房、指に巻きつけスルッと滑らせる。

 包帯で彼の顔は半分しか見えないが、大理石に丁寧に刻み込んだような整った形の唇が淡い微笑みを浮かべている。

 胸がドキドキする。

 怒鳴るでも責め立てるでもない、こんなふうに優しい言葉をかけてもらったのは、いつぶりだろう。そう考えて、一瞬、(ほう)けてしまった。

 だが、ボタンをこのままにはしておけない。

 「あ、あの、すぐにボタンをお付けします」

 紗良は青年からボタンを受け取り、手に持ったままだった裁縫道具から針と糸を取り出す。使っているのは守布を織った余りの糸だったが、他の糸より丈夫で質もいい。彼の着ている軍服も守布製だというのは触っただけでわかった。同じ材質の糸なら問題ないだろう。

 「立ったままで失礼します」

 ボタンを付けるのに顔を近づけたせいか、また薬の匂いを感じた。

 痛々しいほど包帯を巻いているし、随分ひどい怪我なのだろうか。

 (……どうか早くお怪我が治りますように)

 紗良はそう祈りながら、ささっとボタンを付け直す。

 「お待たせしました」

 「ありがとう。手つきがいい。君は裁縫が得意なのだな」

 褒められて、紗良は恥ずかしさに指をもじもじとさせた。

 「い、いえ、とんでもない。私こそ助けていただいて……」

 「大したことはしていない。それより、君は織井家の娘さんだろうか」

 使用人以下の扱いではあったが一応養子だし、違うと言えば(うそ)になってしまうと、紗良はこくりと(うなず)く。

 「……君」

 そんな呟きが聞こえ、紗良は顔を上げた。目が合った彼の銀色の瞳がキラッと光ったと思った瞬間、紗良の頬が彼の手のひらに包み込まれていた。冷えきった肌を温めるかのような、優しいぬくもりを感じる。

 そのまま左目の下を親指で撫でられ、紗良の心臓がドクンと大きな音を立てた。

 吐息まで感じられるくらいのわずか数センチの距離に銀色の瞳が迫っていた。

 口づけをされてしまいそうで、紗良の心臓がドキドキと早鐘を打っていく。

 「この左目の下にあるふたつのほくろは、子供の頃からあったのか?」

 不意にそう問われ、紗良は目を瞬かせた。

 彼は紗良の左目の下にあるふたつ並びのほくろを確認しただけのようだ。顔を近づけたのは、片目に包帯が巻かれていて視界が悪いせいだろう。

 (へ、変な勘違いをして……恥ずかしい)

 そう思ったが、紗良には羞恥の表情すら浮かばない。

 「は、はい。子供の頃からありました」

 肯定すると、青年の唇が小さく動く。はっきりとは聞こえなかったが『見つけた』と動いたように見えた。

 どうしてそんなことを聞くのだろう。紗良が問い返そうとしたタイミングで、玄関の引き戸がガラララッと激しい音を立てて開かれた。

 「ちょっとぉ、いつまでやってるんですかぁ?」

 麦野の声だ。なかなか戻ってこない紗良に腹を立て、様子を見に来たのだろう。

 彼はスッと紗良の頬から手を離し、目礼をするとそのまま紗良から数歩下がった。

 麦野が肩をいからせて外に出てくるのを見て反射的に謝ろうとしたが、麦野は青年の顔を視認するや否や紗良をドンッと突き飛ばすように押しのけ、青年との間に割って入った。

 「く、黒須様じゃないですかっ! す、すぐご案内しますっ!」

 この青年が、今日来る予定だった大事なお客様だったようだ。

 麦野の大声が聞こえたらしく、伯父も出迎えに来た。

 「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。ささ、どうぞお上がりください!」

 織井家は加護持ちの家系で、この村どころか、周辺でも一番の名家だ。その当主である伯父が、年若い相手にペコペコとコメツキバッタのように頭を下げている。

 軍服姿だから、おそらく役職付きの偉い人だったのだろう。そうとは気がつかず、失礼なことをしてしまった。

 (でも……優しい人だったな)

 「紗良さん、大事なお客様に色目なんて使ってないでしょうねぇ」

 麦野は声をひそめ、紗良を睨んだ。

 「い、いえ、まさか。……それより、今の方はどなたですか?」

 紗良が小声でそっと尋ねると、麦野は嘲るように鼻で笑う。

 「はぁ? 『中央妖魔討伐隊』の隊長、黒須夜刀様ですよ。知らないなんて、常識がないんですか?」

 「黒須夜刀様……」

 紗良はその名前を口の中で転がした。

 妖魔討伐隊はその名前の通り、妖魔を討伐する国の武装組織である。守布の軍服を纏って刀を振るい、その身ひとつで妖魔と戦うのだ。

 国内の各地に妖魔討伐隊があるが、中央討伐隊の隊長ということは、すべての組織の中でもトップに位置する。織井家の当主である伯父よりずっと格上の相手だというのに、偉ぶった態度はいっさいなかった。

 「いい男だって聞いてたけど、包帯でぐるぐる巻きだしニコリともしないし、なんだか薄気味悪い……」

 麦野がぶつぶつとそう呟いていたが、紗良はそうは感じなかった。

 (まるで、抜身の刀みたいな綺麗な色の瞳だった……)

 紗良は三年前の事件以降、妖魔という言葉を聞くだけでも頭痛が起きていたのだが、今日はなんともない。彼が優しかったからだろうか。

 さっきまで寒くて仕方がなかったのに、抱き留められた時に感じたぬくもりを思い出すと、不思議と体温が上がる気がした。

 (……またお会いできないかしら)

 「いつまでボケッとしてるんですか。仕事はまだまだ残ってるんですからね。さっさとやってください」

 「はい。すぐやります」

 紗良はそう返事をして空を見上げた。

 鈍色をした雲からはらはらと雪が舞い落ち、頬に触れる。けれど頬が火照(ほて)っているせいか、少しも冷たくなかった。