夕方に花見は終わり、紗良は後片付けを手伝いながら余韻に浸っていた。

 「紗良ちゃん、ちょっといいかしら」

 万智に呼ばれて母屋に行くと、(たとう)()に包まれた着物があった。

 「これは……?」

 「先ほど、織井のご当主様が持ってこられたのよ」

 「伯父様が……?」

 万智は頷きながらも、どこか複雑そうな顔をしている。

 伯父夫婦はそう遠くないうちに引退して北部の遠縁のいる地に行くと聞いている。

 綾子は夜刀の記憶を消すため、紗良を軟禁しようとした。その責任を取るために女学校を辞め、伯父たちより一足先に行ってしまった。不思議とこれまでのように大騒ぎせず、すべてを受け入れるように粛々と旅立ったそうだ。

 「それで、お詫びにもならないだろうけど、紗良ちゃんに渡してほしいって」

 「開けてもいいですか?」

 「もちろん」

 畳紙の中に入っていたのは、それはそれは見事な(しろ)無垢(むく)だった。見ただけで熟練の技術を感じる織りで、繊細な紋様が輝いている。

 「すごい……なんて綺麗……」

 そっと触れ、紗良は気づいた。

 「……これ、もしかしてお母さんの織った守布では」

 「まあ、さすが紗良ちゃん。よく気づいたわねぇ」

 滑らかでどこか優しい手触りは、紗良には覚えがある。

 母はいつか紗良が結婚する時のためにと、守布で白無垢用の布を織ってくれていたらしい。紗良も機織りが上達したと自信がついてきたが、亡き母の技術にはまだ一歩及ばないようだ。

 「紗良ちゃんのお母様が、いつか紗良ちゃんが結婚する時のために布を用意してくれていたのを、織井さんが探して仕立てに出してくれていたそうよ。……本当はこの白無垢で綾子さんを許してもらうように夜刀に頼むつもりだったみたい。でもさすがにもう無理だって諦めていらしたわ」

 「そうだったんですか……」

 伯父もまた、父親として綾子を愛していたのだ。

 紗良も、綾子にされたことのすべてを許せるわけではないが、幼い頃には妹のように思っていた相手だし、遠い地でも元気にやっていてほしいと考えられるようになっていた。

 「あの、夜刀さんとの結婚式で、この白無垢を着てもいいでしょうか……?」

 紗良は艶やかな白無垢をそっと撫で、万智にそう切り出した。

 夜刀との結婚は少しずつ準備を進め、来年に式を挙げる予定だった。黒須家で花嫁衣装も用意すると言ってくれていたが、紗良は母の白無垢を着たくなってしまった。

 「ええ、もちろん。せっかくお母様が用意した花嫁衣装だもの。紗良ちゃんに着てもらえないか、私からお願いしようと思っていたのよ!」

 万智はにっこり笑い、紗良も唇が綻ぶ。

 「ねえ、今ちょっとだけ着てみない?」

 試しにと、母の織ってくれた花嫁衣装を着せてもらう。

 生地自体は厚みがあるのに、軽く柔らかで着心地がいい。身動きするたびに、繊細な模様が光沢を帯び、煌めくのだった。

 「まあ……すごく似合うわ!」

 万智は両手を組み、目を輝かせていた。

 不思議なくらい、紗良の肌に馴染む気がする。

 「あ、あの……夜刀さんに見せてきます」

 ニコニコと手を振る万智に会釈をして、紗良は離れに戻る。

 「あの、夜刀さん……」

 夜刀の部屋の襖を開けると、夜刀は部屋にいなかった。

 「あら……?」

 掃き出し窓の外に夜刀がいるのが見える。

 声が聞こえたのか、夜刀は紗良の方を振り返った。どうやら夜刀は庭で()き火をしていたらしく、日の落ちた庭を(だいだい)(いろ)の炎が照らしている。

 「紗良、それはどうした」

 紗良の着た白無垢に気づき、夜刀は目を丸くする。

 「……お母さんの織った布で作った白無垢です。結婚式で着たいなって……」

 「すごくよく似合っているよ」

 夜刀は頬を赤らめ、優しく微笑んでいた。

 「夜刀さんは焚き火ですか?」

 「ああ。……日記を燃やそうと思ってね」

 炎が周囲を橙色に染め、パチパチと小さく()ぜながら白い灰を飛ばしている。

 「この日記を守ってくれた紗良には感謝している。けれど、この日記でもう君を危険にさらしたくない」

 「……ごめんなさい、夜刀さん」

 紗良は夜刀の日記のために、綾子の罠とわかっていて向かうという愚行をしてしまった。夜刀が間に合わなければ、紗良は妖魔に喰われていたかもしれない。

 「謝らないでほしい。それに、この日記は俺にとって苦しみの記憶でもある。三年前、戦神の刀を継承した俺は、君を救えなかったと悔やみ、自分の力不足を嘆いていた。俺の記憶はそこまでしか保たなかったから、毎朝日記を読み返す時、寝る前に日記を書く時、いつも苦しかったんだ」

 だけど、と夜刀は繋げた。

 「紗良のおかげで俺の記憶は消えなくなった。だからあの時の気持ちを昇華させるために日記を燃やしたいんだ。……相談もせずにすまない」

 「もう。謝らないでって先に言ったのは夜刀さんじゃないですか」

 紗良は敢えて唇を尖らせてみせた。もちろん、ふりだけで、怒っても悲しんでもいないため、すぐに笑みを浮かべる。

 「夜刀さんがそうしたいと思ったのなら、反対なんてしません。気持ちを昇華するのは、前に進むために大切ですから」

 それは紗良も同じだ。両親を目の前で亡くした悲しみで心が壊れそうになり、それを防ぐために記憶が欠落し、表情が出なくなってしまったのだろう。

 でも、記憶はすべて取り戻した。

 夜刀も紗良も過去の悲しみに決着をつけ、前に進む時が来たのだ。

 「燃やすのを隣で見ていてもいいですか?」

 「もちろん。火の粉にだけは気をつけてくれ」

 「大丈夫ですよ。お母さんが織った守布なんですから、とっても丈夫なんです」

 三年前、母の守布が紗良を守ってくれたから、傷ひとつつかずに済んだのだ。

 紗良が夜刀の隣に並ぶと、白無垢が橙色の炎で照らされた。

 守布と同じ素材でできているせいなのか、パチリと爆ぜた火が強く光ったり、揺らめいたりするたびに光を反射し虹色に輝く。

 夜刀は黙って日記を火にくべた。あっという間に日記は焼け焦げ、綿毛のような白い灰になって、黄昏(たそがれ)の深い藍色の空を飛んでいく。

 まるで雪みたいだけれど、もう冷たくもなく、寒くもない。そして白い灰に混じり、はらはらと紗良たちに降り注いだのは、風に混じって飛んできた桜の花びらだった。

 「紗良」

 夜刀が紗良を引き寄せ、ギュッと抱きしめた。

 紗良が温かな腕の中で目を閉じると、唇にそっと口づけが落ちてきた。

 「愛している。……ずっと」

 「私も夜刀さんを愛しています。来年も、再来年も……その先もずっと一緒に、桜を見ましょうね」

 紗良が微笑めば、夜刀も優しい笑みを浮かべる。

 「ああ、約束だ」

 夜刀は紗良の小指に小指を絡める。

 まるでふたりを祝福するように、夜空に輝くふたつの星が煌めいていた。

 おわり