◇◇

 「大変です、夜刀様!」

 突然、中央妖魔討伐隊に血相を変えた葵が飛び込んできた。

 いつも冷静沈着な葵の焦った姿に、ただごとではないと夜刀は悟る。

 「なにがあった!」

 夜刀の前に、ふらついた琴葉が万智に支えられて歩いてくる。

 「ごめんなさい、黒須さん……私のせいで紗良さんが……っ!」

 琴葉は夜刀を見た瞬間、(ぼう)()の涙を流した。

 「わたくしからご説明いたします」

 葵の話によると、どうやら琴葉は綾子に薬を盛られたようだった。まだ顔色が悪く、足元もふらついている。飲まされたのは言いなりにさせる類の薬で、綾子に操られた琴葉は夜刀の日記を盗み出してしまったらしい。

 (薬……あの時のものか!)

 綾子は以前、夜刀に薬を盛ろうとした。匂いで察したからひと口も飲まなかったが、もし飲んでいたら大変なことになっていたかもしれない。

 薬で操られた琴葉は、紗良の治癒により正気を取り戻したそうだ。しかし綾子は夜刀の日記を餌に、紗良を呼び出したのだという。

 「それで紗良は⁉︎」

 「申し訳ありません。紗良様は行方が知れず……」

 葵は目を固く閉じ、深く頭を下げる。夜刀は目の前が真っ暗になった気がした。

 琴葉は謝罪しながら泣きじゃくり、三枝も話を聞いて青ざめている。夜刀は拳を強く握って感情を抑え込み、琴葉に尋ねる。

 「紗良がどこに呼び出されたかわからないか?」

 「は、半分くらいしか、覚えて、なくてっ……」

 琴葉はしゃくり上げながら、やっとのことでそう言った。

 「それでいい。教えてくれ!」

 綾子は紗良になにをするかわからないのだから、うろたえている暇はない。一秒でも早く、紗良を取り戻さなければ。

 琴葉が覚えていた内容によると、紗良は織井村に呼び出されたそうだ。

 だが、それ以上はわからず気の焦る夜刀の背中を、万智が叩いた。

 「落ち着きなさい! 織井村なら、紗良ちゃんはバスを使って戻るはずよ。乗務員さんがどこで降りたか覚えているかもしれない。私が問い合わせるから、夜刀はすぐ出られるように準備をして!」

 万智が問い合わせた結果、紗良らしい女性がバスに乗って織井村に向かったという証言があった。

 降りた場所は、織井家のある辺りからさらに先の終点だという。

 終点といっても、もう近隣にはなにもなく、ただバスを転回するための場所なのに若い女性が降りていったのを乗務員が疑問に思ったらしい。

 万智や葵に、薬の影響が残っている琴葉を任せ、夜刀は大急ぎで向かった。

 部下たちにも協力してもらい、織井家や、他に行きそうな場所も押さえてもらっている。

 三枝と村に着いた頃には、周囲はすでに暗くなり始めていた。

 (紗良、どこだ……!)

 紗良が最後に目撃されたバス停の前で周囲をうかがった。

 この先は桑畑ばかりで、人家はほとんどなくなる。どこかの空き家か納屋にでも潜伏しているのだろうか。

 その時だった。ドーンと鼓膜を震わせるような音がして、夜刀は眉をひそめた。

 「この音は……」

 妖魔は時に、自らの意思で結界を破ろうとする行動に出る。結神の加護を持つ一族が禍山の周囲を巡らせるように結界を張っていたが、強力な妖魔は群れをなし、一丸となって結界を破るのだ。それを未然に防ぐため、定期的に大規模討伐を行い、大きな群れにならないよう数を減らす必要があった。

 しかし、前回の大規模討伐からまだ一ヶ月も経っていない。

 (どういうことだ……?)

 何度かの音の後、ひときわ激しい音が響き、結界が破れたのを悟る。ここからさほど離れていない山際のようだ。

 「お、おい夜刀。これはまずいんじゃないか……」

 三枝も察したようで青ざめている。

 「……三枝、織井家にいる部下を率いて、村民の避難誘導を頼む」

 夜刀は血の気が引く思いをしながらも、隣の三枝にそう頼んだ。

 「お前はどうする気だ」

 「俺は紗良を捜す。紗良が癒神の血を引いているのなら、紗良は狙われる可能性が高い。早く紗良を助けなければ」

 「そうだったな……わかった。村の方は俺に任せてくれ!」

 「頼む!」

 夜刀はそう言うと駆け出した。暗い畦道(あぜみち)をひた走っていると、ふと妖魔の気配を察知した。それも複数の妖魔が集っている気配だ。

 近辺に人家はもうなく、農作業で使う納屋などがあるくらいだった。

 そんな場所に妖魔が集っているということは、紗良がいる可能性が高い。

 そう推測して気配が多い方に向かうと、納屋らしいシルエットが見えた。おそらく紗良はここに呼び出されたのだろう。

 周囲を見回していると、ふと血の匂いを嗅ぎつけ眉をひそめた。神喰という狼に似た妖魔が何匹もうろついているのが見える。

 (紗良、無事でいてくれ!)

 夜刀は戦神の刀を抜き、妖魔めがけて駆け出した。

 納屋の周囲にいた妖魔をすべて片付けたが、納屋の戸はすでに破壊されていた。生々しい血の匂いに犠牲者が出てしまったのを悟り、血の気が引く。

 「……紗良!」

 (いち)()の望みに縋り、戸が破壊された納屋に入った。

 納屋の中はぼんやりと明るい。土間に転がった洋燈が横倒しになってもまだ火がついているせいだ。

 思った通り、ここに人がいたのは間違いないし、洋燈がまだついていることからしても襲われてからさほど時間は経っていないはずだ。だというのに納屋の中に妖魔はおらず、戸は破壊されていたが室内を荒らされた様子もない。

 「紗良、いるのか!」

 そう呼びかけると、物陰でガタッと物音がした。

 「や、夜刀様ぁ……」

 ひっくり返った木箱から這い出てきたのは綾子だった。顔から出る液体すべてを垂れ流し、ガタガタ震えている。

 「た、助けに来てくれたのね! 怖かった! 麦野もあたしを見捨てるし――」

 「紗良はどうした」

 夜刀は綾子の言葉を遮ってそう尋ねた。とはいえ、綾子の性格からして、知らないと言い張られると思っていた。

 しかし綾子は複雑そうな顔で隠れていた木箱を見下ろし、着物の袖で顔を拭ってから神妙に口を開いた。

 「……(さら)われたわ。妖魔に」

 「なんだと?」

 妖魔が人を()うのではなく、攫っていったなど前例がない。

 「あたしだって知らないわよ! 聞いたこともないような大きな妖魔がいたんだもん。しかも、他の妖魔に命令して操っているみたいだったわ」

 「命令だと? なぜそんなことがわかる?」

 どれもこれも前代未聞の話だというのに、綾子は嘘をついているような顔ではなかった。

 「なにを言ってるかまではよく聞こえなかったけど、なにかしゃべってるみたいだった。そうしたら小さい妖魔が命令に従ってるみたいな動きで、紗良を(くわ)えて出ていったの」

 綾子は木箱を指差した。どうやら、木箱の隙間から一部始終を覗いていたようだ。

 「紗良を連れた妖魔はどっちに向かった?」

 「禍山の方に戻っていったわ」

 「……そうか」

 夜刀は真偽について考える暇などない。妖魔がなぜ紗良を連れ去ったのかはわからないが、まだ助けられるかもしれない。

 (それなら、追うしかない……)

 「ちょ、ちょっと、まさか禍山に行く気?」

 「当たり前だ」

 夜刀は紗良を守ると誓ったのだから。

 「ど、どうして行くの? 自分だって死んじゃうかもしれないんでしょう。どうして、自分の命を捨てて人を助けるなんてことができるのよ……!」

 「そんなの決まっている。紗良を愛しているからだ」

 「じゃあ、どうして紗良があたしを助けるのよ! 今までさんざんいじめてきたのにっ!」

 綾子は喚き、それで夜刀も綾子に木箱を被せたのが紗良だったと察した。

 紗良はか弱いが、それだけではない芯の強さも兼ね備えた存在だと夜刀はわかっている。つらいことがあって記憶の欠落や表情が出なくなってしまったのも、紗良が弱いからではない。きっと冬の厳しい寒さを耐える桜の蕾のように、つらい状況を受け入れられるようになるまで時を待っていただけなのだ。

 「それは紗良が強くて優しい人だからだ。従姉妹なら知っていたんじゃないのか? 笑顔や涙が出なくなってしまっても、紗良の芯はなにも変わっていなかった」

 虚を衝かれたのか綾子は目を見開き、泣きそうな顔で立ち尽くした。

 「……あたしなんて見捨てればよかったのに。紗良の、馬鹿……」

 綾子の瞳から、ひと粒だけホロリと涙がこぼれ、同時に()き物が落ちたようにこれまでの険のある顔つきではなくなっていた。

 夜刀は用意してきた装備から、発煙筒を綾子に渡す。

 「この発煙筒を使え。煙だけでなく光も出るタイプだから、夜でも合図が送れる。討伐隊が来るまで、ここで待っていればいい」

 綾子はもう夜刀に縋る様子もなく、おとなしく発煙筒を受け取った。

 周囲にいた妖魔はすでに一掃しており気配もないため、ここは安全だ。

 夜刀はそれだけ伝えると、振り返らずに納屋から飛び出した。

 走りながら綾子の言葉を思い返す。『聞いたこともないような大きな妖魔』と言っていた。頭に浮かんだのは、調査隊に参加した部下の臼井の言葉だった。

 弱っていた小型の妖魔が、掘り出したなにかを食べた途端、四、五メートルはありそうな超大型の妖魔に変貌したと報告したのだ。

 しかし、大規模討伐で超大型の妖魔はいなかった。結局、臼井の見間違いだったということになったが、あの群れはやけに統率のとれた動きをしていると夜刀も気になっていた。

 もしかすると超大型の妖魔は臼井の報告の通り本当にいて、妖魔討伐隊の動きを察知し、偽のボスを用意して逃げた後だったのかもしれない。

 そもそもなにかを食べて巨大化したというのが気になる。妖魔は力のあるものを食べると成長をするのなら――そこまで考え、ゾッと血の気が引いた。

 「妖魔は、紗良を喰らうつもりかもしれない……」

 神々のふたつの加護を持つ紗良は、妖魔にとっても稀有(けう)な存在のはずだ。

 夜刀は、出せる限りの全速力で禍山にたどり着いた。

 結界は透明だが、間近で見るとシャボン玉のように虹色の被膜が見える。虹色の被膜がない箇所があるから、妖魔が空けた穴はここに間違いない。

 (随分大きな穴だ……)

 結界に空いた穴の大きさから、超大型の妖魔の可能性が高まったが、ひるんではいられない。夜刀は暗闇に包まれた禍山を登り始めた。

 戦神の刀を継承し、通常より夜目がきく夜刀でなければ、歩くのもままならないだろう。それでもこの広い山の中で、どこかに攫われた紗良を捜し出すのは至難の業だ。

 その時、不思議なことに夜刀の左手首がカッと熱くなった。

 「紗良が作ってくれた腕輪が……」

 大規模討伐前に紗良が作ってくれた組紐の腕輪が熱くなり、ほんのりと輝いていた。まるで、夜刀を紗良の元に導くかのように。

 「紗良、今助けに行く……!」

 駆け出したが、突然、激しい頭痛に襲われた。

 そろそろ深夜に差しかかる。紗良と離れ離れになって、十二時間が経過したのだ。

 「嫌だ……忘れたくない……!」

 夜刀は耐えがたい苦痛の中でも足を止めない。

 「紗良を失いたくないんだ……!」

 歯を食いしばり、それでも進み続けた。消えていく紗良との思い出を少しでも逃がさないよう、組紐の腕輪を強く握りしめていた。