それから逃げる隙もないまま、何時間経過したのだろうか。日が暮れたらしく、戸の隙間から差し込んでいた光も消えてしまった。
早く夜刀の元に戻らなければ、と焦燥が紗良を苛む。
綾子は食事を済ませ、麦野に紗良を見張るように命令すると、納屋の奥に敷かれた畳の上にゴロッと横になる。しばらくして寝息を立て始めた。
ふたりより、ひとりの方が逃げやすいかもしれない。
そう思って麦野に視線を向けると、彼女はニタッと嫌な笑みを浮かべた。
「外は綾子お嬢さんが雇ったゴロツキが見張ってるから、逃げられるなんて思わないでくださいよ。でも、綾子お嬢さんが寝てる間に、お前をあいつらに犯させちゃおうかな。綾子お嬢さんは小難しいやり方を考えてるけど、その方がよっぽどすっきりするし」
「ど、どうしてそんなに私を嫌うんですか……」
「はあ? 面白くないからに決まってるじゃないですか。どいつもこいつも、偉そうな顔をしやがって……後から来たお前まで偉そうにするなんて許せないんだよ!」
本性を現した麦野にギロッと睨まれる。
紗良が恐怖に身を縮めた瞬間、どこからか不思議な音が聞こえた。
ドーンと空気を振動させるような音。遠くで太鼓を鳴らしている音にも聞こえる。
その音に、紗良のこめかみがズキッと痛んだ。
「い、今の音は……」
「はあ、音? 騙そうったってその手は食いませんよ!」
麦野は気づいていないようだ。
しかし、その間にもドーンドーンとかすかな音が続いていた。なにかを破ろうとするような音にも聞こえ、全身が総毛立つ。
しばらくして、雷が落ちたかのような轟音がし、空気がビリビリと震えた。
紗良は両耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込む。
「なっ、なんの音よっ⁉︎」
寝ていた綾子も跳ね起き、麦野も慌てたように周囲を見回す。
「ま、まさか夜刀様がもう……」
綾子がそう呟いたが、紗良は耳を押さえたままかぶりを振った。
この音は助けなどではない。
思い出したのだ。三年前の夜にも、この音がしたことを。
紗良の体は瘧のようにガタガタと震え、自分の意思では止められなかった。
「け……結界が……破れたの……」
あれは、妖魔が結界を破った音。紗良の欠落した記憶を呼び覚ます、恐怖の音だった。
「は、早くここから逃げないと……」
「は? 逃がさないわよ! それに妖魔の話が本当なら、外の方がよっぽど危険だわ。帰れない言い訳ができてよかったじゃない」
紗良は首を横に振る。妖魔は建物の中に人間がいることを理解して狙ってくるのだと、紗良は身をもって知っていた。人家は決して安全などではなく、しかもこんな納屋ではひとたまりもない。
「あ、綾子さん、本当にそんな場合じゃないんです」
震える声で紗良はそう伝えたが、綾子は取り合わない。
「黙りなさい! 近寄ったら日記を燃やすわよ!」
綾子はマッチを擦って、火を日記に近づける。
「やめて!」
紗良が叫んだ瞬間、ギャアアーッと男の悲鳴が響き渡った。
「な、なんなのっ⁉︎」
おそらく、外で見張っているという綾子が雇った男の悲鳴だろう。さらに、逃げようとする足音が入り乱れる。妖魔はもうすぐそこまで迫っているのだ。
「も、もう、妖魔が……」
「ひいっ……」
外の悲鳴に綾子は身をすくめ、日記を取り落とした。
紗良はそれをすかさず拾い上げ、綾子から奪い返されないように帯に挟み込んで抱きしめる。
次の瞬間、ドンッと激しい音がして納屋が揺れた。おそらく納屋の戸に体当たりしているのだろう。体当たりは一度で終わらないことから、明確にこの納屋の中にいる紗良たちを狙って、戸を破ろうとしているのだ。
「あ……ぁ……」
綾子もそう確信したようで、恐怖にペタンと座り込み震えていた。
いち早く動いたのは麦野だった。
「い、嫌ぁーッ! どきなさいよッ!」
恐怖に動けない綾子を突き飛ばし、裏口の小さな木戸をくぐって出ていく。この納屋には裏口もあったらしい。
「むっ、麦野! 置いていかないでぇッ!」
綾子は麦野を追いかけようとするが、完全に腰が抜けて動けないようだった。
しかし紗良は、裏口の外に妖魔の赤く光る目がいくつもあったのを見てしまった。
もうこの納屋は妖魔に囲まれている。もはや、裏から逃げたところで無事ではいられないだろう。
その間にも、妖魔による体当たりの音は続いていた。
(な、なんとか隠れなきゃ……)
紗良は恐怖の中、周囲を見回すと、綾子がテーブル代わりにしていた農作業用の空の木箱に目を止めた。
これをひっくり返して被れば、ひとりならギリギリ身を隠せるかもしれない。
「こ、こんなところで死にたくない……」
ふと、そんな声が聞こえて振り返ると、泣きながらガクガク震えている綾子の姿が目に入った。その顔は従姉妹としてまだ仲がよかった頃、野良犬に追いかけられて泣きべそをかいていた幼い綾子を彷彿とさせた。
これまで彼女は紗良にひどい仕打ちをしてきたが、それでもまだ見捨てたくないくらいには彼女への情が残っている。なにより、彼女は紗良より年下の少女なのだ。
「……綾子さん、声を出さないで」
紗良はためらいなく、綾子に木箱を被せる。
次の瞬間、バキッとつんざくような音がして表の引き戸が枠ごと壊されていた。扉の外には、暗闇に溶け込むように赤い目がたくさん光っている。
一匹や二匹ではなく、数えられないほどの数の妖魔だった。
もう隠れるのは無理だ。納屋は妖魔に囲まれ、逃げるのも不可能。外から聞こえていた逃げ惑う男たちの足音や麦野の悲鳴もとっくに途絶えていた。
おそらく、もう生きてはいない。そして次は紗良の番だ。
せめて、と夜刀の日記を守るように抱きしめ、目をギュッと閉じる。
とうとう納屋の中にも妖魔が入ってきたらしく、ミシッ、ミシッと重い足音が少しずつ近づいてくる。
(助けて……お父さん、お母さん――夜刀さんっ!)
そのまま紗良の意識は闇の中に消えていった。
早く夜刀の元に戻らなければ、と焦燥が紗良を苛む。
綾子は食事を済ませ、麦野に紗良を見張るように命令すると、納屋の奥に敷かれた畳の上にゴロッと横になる。しばらくして寝息を立て始めた。
ふたりより、ひとりの方が逃げやすいかもしれない。
そう思って麦野に視線を向けると、彼女はニタッと嫌な笑みを浮かべた。
「外は綾子お嬢さんが雇ったゴロツキが見張ってるから、逃げられるなんて思わないでくださいよ。でも、綾子お嬢さんが寝てる間に、お前をあいつらに犯させちゃおうかな。綾子お嬢さんは小難しいやり方を考えてるけど、その方がよっぽどすっきりするし」
「ど、どうしてそんなに私を嫌うんですか……」
「はあ? 面白くないからに決まってるじゃないですか。どいつもこいつも、偉そうな顔をしやがって……後から来たお前まで偉そうにするなんて許せないんだよ!」
本性を現した麦野にギロッと睨まれる。
紗良が恐怖に身を縮めた瞬間、どこからか不思議な音が聞こえた。
ドーンと空気を振動させるような音。遠くで太鼓を鳴らしている音にも聞こえる。
その音に、紗良のこめかみがズキッと痛んだ。
「い、今の音は……」
「はあ、音? 騙そうったってその手は食いませんよ!」
麦野は気づいていないようだ。
しかし、その間にもドーンドーンとかすかな音が続いていた。なにかを破ろうとするような音にも聞こえ、全身が総毛立つ。
しばらくして、雷が落ちたかのような轟音がし、空気がビリビリと震えた。
紗良は両耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込む。
「なっ、なんの音よっ⁉︎」
寝ていた綾子も跳ね起き、麦野も慌てたように周囲を見回す。
「ま、まさか夜刀様がもう……」
綾子がそう呟いたが、紗良は耳を押さえたままかぶりを振った。
この音は助けなどではない。
思い出したのだ。三年前の夜にも、この音がしたことを。
紗良の体は瘧のようにガタガタと震え、自分の意思では止められなかった。
「け……結界が……破れたの……」
あれは、妖魔が結界を破った音。紗良の欠落した記憶を呼び覚ます、恐怖の音だった。
「は、早くここから逃げないと……」
「は? 逃がさないわよ! それに妖魔の話が本当なら、外の方がよっぽど危険だわ。帰れない言い訳ができてよかったじゃない」
紗良は首を横に振る。妖魔は建物の中に人間がいることを理解して狙ってくるのだと、紗良は身をもって知っていた。人家は決して安全などではなく、しかもこんな納屋ではひとたまりもない。
「あ、綾子さん、本当にそんな場合じゃないんです」
震える声で紗良はそう伝えたが、綾子は取り合わない。
「黙りなさい! 近寄ったら日記を燃やすわよ!」
綾子はマッチを擦って、火を日記に近づける。
「やめて!」
紗良が叫んだ瞬間、ギャアアーッと男の悲鳴が響き渡った。
「な、なんなのっ⁉︎」
おそらく、外で見張っているという綾子が雇った男の悲鳴だろう。さらに、逃げようとする足音が入り乱れる。妖魔はもうすぐそこまで迫っているのだ。
「も、もう、妖魔が……」
「ひいっ……」
外の悲鳴に綾子は身をすくめ、日記を取り落とした。
紗良はそれをすかさず拾い上げ、綾子から奪い返されないように帯に挟み込んで抱きしめる。
次の瞬間、ドンッと激しい音がして納屋が揺れた。おそらく納屋の戸に体当たりしているのだろう。体当たりは一度で終わらないことから、明確にこの納屋の中にいる紗良たちを狙って、戸を破ろうとしているのだ。
「あ……ぁ……」
綾子もそう確信したようで、恐怖にペタンと座り込み震えていた。
いち早く動いたのは麦野だった。
「い、嫌ぁーッ! どきなさいよッ!」
恐怖に動けない綾子を突き飛ばし、裏口の小さな木戸をくぐって出ていく。この納屋には裏口もあったらしい。
「むっ、麦野! 置いていかないでぇッ!」
綾子は麦野を追いかけようとするが、完全に腰が抜けて動けないようだった。
しかし紗良は、裏口の外に妖魔の赤く光る目がいくつもあったのを見てしまった。
もうこの納屋は妖魔に囲まれている。もはや、裏から逃げたところで無事ではいられないだろう。
その間にも、妖魔による体当たりの音は続いていた。
(な、なんとか隠れなきゃ……)
紗良は恐怖の中、周囲を見回すと、綾子がテーブル代わりにしていた農作業用の空の木箱に目を止めた。
これをひっくり返して被れば、ひとりならギリギリ身を隠せるかもしれない。
「こ、こんなところで死にたくない……」
ふと、そんな声が聞こえて振り返ると、泣きながらガクガク震えている綾子の姿が目に入った。その顔は従姉妹としてまだ仲がよかった頃、野良犬に追いかけられて泣きべそをかいていた幼い綾子を彷彿とさせた。
これまで彼女は紗良にひどい仕打ちをしてきたが、それでもまだ見捨てたくないくらいには彼女への情が残っている。なにより、彼女は紗良より年下の少女なのだ。
「……綾子さん、声を出さないで」
紗良はためらいなく、綾子に木箱を被せる。
次の瞬間、バキッとつんざくような音がして表の引き戸が枠ごと壊されていた。扉の外には、暗闇に溶け込むように赤い目がたくさん光っている。
一匹や二匹ではなく、数えられないほどの数の妖魔だった。
もう隠れるのは無理だ。納屋は妖魔に囲まれ、逃げるのも不可能。外から聞こえていた逃げ惑う男たちの足音や麦野の悲鳴もとっくに途絶えていた。
おそらく、もう生きてはいない。そして次は紗良の番だ。
せめて、と夜刀の日記を守るように抱きしめ、目をギュッと閉じる。
とうとう納屋の中にも妖魔が入ってきたらしく、ミシッ、ミシッと重い足音が少しずつ近づいてくる。
(助けて……お父さん、お母さん――夜刀さんっ!)
そのまま紗良の意識は闇の中に消えていった。
