綾子の指定した場所は、かつて紗良の生家があった近くの村外れで、周囲には桑畑しかない。その桑の木も冬の間に大きく刈り込まれており、視界は開けているが、もう夕方近いのもあり農作業をしている人は誰もいなかった。

 こんなところに綾子が来ているのだろうか。

 周囲を見渡していると、離れた木の陰から綾子が現れた。

「ちゃんとひとりで来て偉いじゃない」

 どうやら木の陰に隠れ、紗良がひとりで来たことを確認してから近寄ったようだ。

「綾子さん……夜刀さんの日記を返してください」

「いいわよ。こっちに隠してあるから」

 紗良の返事を聞かずに歩き出した綾子の後を追いかける。

 しばらく歩き、綾子が足を止めたのは、使われていなそうな納屋の前だった。

「ここよ」

 綾子はためらいなく納屋に入っていく。嫌な予感はあったが、紗良も意を決して飛び込んだ。

 納屋には窓がなく、戸口からの光だけで薄暗く、先に入った綾子の姿は見えない。

 そう思った瞬間、背後の引き戸がピシャンと締められた。

 この納屋には綾子以外にも誰かがいるのだ。肝が冷えた紗良を嘲笑うように、綾子の笑い声が暗闇に響く。

「そんなに怯えないでよ。取って食べたりなんてしないから」

 マッチを擦る音がし、洋燈(ランプ)の明かりが納屋の中をぼんやりと照らし出す。

 この納屋は物置として使われていたようで、収穫物を入れる木箱や農作業に使う道具類が浮かび上がった。

 振り返ると、織井家の使用人の麦野がいた。戸を閉めたのは彼女だろう。

「麦野さん……」

 そう呟いた紗良に、麦野は忌々しそうに眉をひそめ舌打ちをする。

 麦野になにかした覚えはないのだが、彼女の恨みがこもった視線からすると、相当恨まれているようだ。

「あの、綾子さん。日記を……」

「そうね。紗良はちゃんと約束を守ってくれたし」

 そう言って綾子が取り出したのは、間違いなく夜刀の日記だ。

「でも、ダーメ!」

 返してもらえる、そう思った紗良の期待を、綾子は笑顔のまま打ち砕いた。

「嘘をついたわけじゃないのよ。日記の何枚かは燃やすけど、それ以外はちゃーんと返してあげるから安心して。……ただし、明日の朝にね。それまで、ここでゆっくりしましょう」

 綾子は不敵な笑みを浮かべた。

「そんな……!」

 今はおそらく午後三時過ぎ。夜刀と十二時間以上離れると、夜刀の記憶が失われる。今日は昼に会ったから、夜中の十二時頃までには再度会わなければいけないのだ。

 明日の朝に解放されても、その頃には夜刀の記憶はごっそり消えてしまう。もしかすると、一緒に寝るようになった以降の、すべての記憶を失ってしまうかもしれない。

「ど、どうしてこんなことをするんですか……」

 綾子は紗良の言葉に柳(りゅう)眉(び)を逆立てた。

「はあ? あんたのせいで、あたしと麦野は北部のど田舎に追いやられることになったのよ! しかも女学校まで辞めさせられて……全部があんたのものになるなんて、許せるわけないでしょう!」

 綾子に強く睨まれ、聞いた内容のどれもが初耳だった紗良は息を呑む。

「そうですよ。私もせっかく縁談がまとまりそうだったのに……やっとくだらない使用人なんか辞めて幸せに暮らせると思ったのに、全部お前がぶち壊したんだ! ねえ、綾子お嬢さん、こいつの両手の指を全部折って、もう守布を織れなくしてやりましょうよぉ!」

 加虐的な笑みを浮かべる麦野に、紗良はゾッと背筋を震わせた。

「ちょっと、そんな短慮を起こすのはやめてちょうだい」

 しかし綾子は肩をすくめて麦野を制した。

「じゃあ、なんのためにこいつを呼び出したんですかぁ」

 麦野は不満げな態度をあらわにする。

「あら、説明してなかった? 夜刀様は、紗良と長時間離れていたら記憶が消えちゃうんですって。つまり、紗良をしばらくここに閉じ込めておけば、夜刀様はあたしがやったことも全部忘れちゃうってわけ。日記の該当ページも捨て、夜刀様が完全に忘れちゃったら、後はお父様を丸め込むだけですもの。北部行きの話をなしにできるってわけよ!」

(どうしてそれを……)

 紗良の顔色が変わったのを見て、綾子は得意げに笑う。

「先日のパーティーに出ていた知り合いが教えてくれたの」

「ふーん、そうだったんですかぁ」

 よくわかっていなかったらしい麦野は納得したように手を打っている。

「そう。麦野も結婚したいんでしょう? 下手に怪我をさせたら、紗良の体に証拠が残っちゃうもの。だから変な気は起こさないでよね」

 傷つけないようにしていたのはそのためで、紗良を案じていたわけではないのだろう。しかし、怪我はさせなくても、日記を奪い紗良を閉じ込めるのだって犯罪だ。

 紗良の視線からそう考えていると気づいたのか、綾子はふんと鼻を鳴らす。

「言っておくけど、日記を盗んだ実行犯は三枝さんよ。彼女、パーティーであんたとトラブル起こしたんですってね。どうせ、あんたを恨んで犯行に及んだって思われるだけよ。それに、三枝さんには命令に従う薬を飲ませてあるから、もう証言もできないし」

 やはり琴葉の様子がおかしかったのは綾子が薬を飲ませたからだったのだ。

「そんなことのために琴葉さんを……」

「そんなことですって? あたしからすべてを奪っておいて、よくもぬけぬけと。あんたは時間が経てば夜刀様のところに戻れるんだから、自分の無力を嘆いてなさい!」

 しかし、紗良はどうしても我慢ならなかった。これまで紗良に対してのひどい行いだけでなく、罪のない琴葉に手を出したのだ。

「だって琴葉さんは関係ないでしょう。おかしな薬を飲ませて、死んでしまったらどうするんですか」

「黙りなさいっ! そんなのどうだっていいわよ! あんただって夜刀様のお父様が死ぬ原因になった穢れた疫病神のくせに!」

「いいえ、黙っていられません。その言葉は私だけでなく、夜刀さんのお父様に対して侮辱です!」

 だって夜刀が教えてくれたのだ。紗良も、身を削りながら人々を守ろうと奮闘する夜刀たちを気高いと思っている。

 言い返す紗良にカッとした様子で綾子は手を振り上げる。叩く気だと思ったが、綾子はギリギリのところで手を止めた。

「っと、危ない。あんた、あたしを激昂させて叩かせて、暴力を振るわれたって証拠にする気でしょう。そうはいかないんだから!」

「そんなんじゃありません。日記を返してもらいたいだけです」

「だから返すまで待ちなさいってば。でも、あんたも言うようになったじゃない。心が凍って感情なんてなくなったんだと思ってたわ」

「感情はずっとありました。確かに凍りかけていたこともあったかもしれません。でも、それはわかってもらえないと自分から諦めていたせいです。綾子さんもこんなことはやめて誠心誠意謝罪をすれば、夜刀さんはきっとわかってくれます」

 紗良が必死に言葉を重ねたが、綾子は鼻白んだようにそっぽを向いた。

「はあ? お説教のつもり? 別にもうどうだっていいわ」

 しかし、綾子の口調からすると、紗良が癒神の加護も持っているとまでは知らないようだ。きっと今頃、正気に戻った琴葉が夜刀に伝えてくれているに違いない。

(きっと夜刀さんが助けに来てくれる)

 ただ、紗良を捜すのに時間がかかってしまうかもしれないから、隙を見て日記を奪って逃げられないだろうか。

 紗良はチラッと日記に視線を向ける。

 しかし綾子はお見通しとばかりに笑った。

「外にも見張りはいるから、逃しはしないわよ。ねえ、あたし食事にするけど、あんたもどう? お酒もあるのよ。時間を忘れてしまった言い訳にピッタリでしょう」

 綾子が麦野に向かって顎をしゃくると、麦野は綾子の前に軽食や飲み物を並べた。納屋に綾子がいろいろ持ち込んでいるらしい。

 用意の良さからしても、そう簡単に紗良を逃がすつもりはなさそうだ。

(……どうすればいいの)

 できれば穏便に日記を返してもらいたかったが説得はうまくいかなかった。けれど、紗良は簡単に諦めるつもりはない。

 なんとか油断した隙を狙って逃げるなり、どうにか夜刀と連絡を取る方法がないか考えるのだ。

 紗良はその決意を綾子に知られないよう、そっと拳を握りしめた。