◇◇

 カーン、カーンと終業の鐘の音が鳴る。

 軽やかに席を立っていく同級生たちと裏腹に、三枝琴葉は自分の席に座ったまま、重苦しい息を吐いていた。

 (……紗良さんにひどいことを言っちゃった)

 パーティーから数日経った今も、琴葉の心に後悔が重くのしかかっていた。

 パーティーの後、琴葉は兄からこっぴどく叱られた。おおらかで、いつも優しい兄が本気で怒っていたのは、琴葉がそれだけの失言をしたからだ。

 自分が紗良にどれほど残酷な言葉を浴びせたのか、今になって胸に突き刺さる。

 ずっと仏頂面をしていると思っていた紗良は、両親を目の前で亡くし、それ以来笑えなくなってしまったのだという。

 (事情を知らなかったなんて、ただの言い訳だよね……)

 琴葉には思ったことをそのまま口に出してしまう悪癖があった。

 こういう部分を自分の短所だと理解していても、はっきりしていていいとか、素直だ、などと褒められる機会も多く、無意識に周囲に甘えていたのだ。

 そのせいで、紗良を傷つけてしまった。だというのに、紗良はそんな琴葉を責めるどころか、元々体調が悪かったせいだと庇ってくれたのだ。

 もう一度謝罪したかったが、いくら謝っても琴葉の気が済むだけで、気持ちの押しつけにしかならないだろう。紗良はもう琴葉の顔など見たくないかもしれない。

 そもそも、夜刀の好きな相手というのも紗良のことで、子供の頃に会い、ずっと捜していてようやく再会したのだそうだ。

 琴葉がやったことはすべて裏目に出てしまった。そう考え、またため息をつく。

 ふと気がつけば、教室に生徒はもうほんの数人しか残っていなかった。帰ろうと、琴葉も立ち上がる。

 「ねえ、三枝さん。一緒に帰らない?」

 突然話しかけてきたのは、同級生の織井綾子だった。

 紗良が従姉妹だと言っていたのを思い出す。

 同級生とはいえ、綾子と特に親しいわけではなく、ふたりきりで話すのもこれが初めてだった。

 綾子は美人で成績もよかったが、学生が持つには分不相応な化粧品や高いバッグを自慢しているのを目撃し、個人的にはあまり好きではないタイプだ。

 (でも、この思い込みで失敗したばかりだった)

 断ろうとしたが、話してみたら案外いい人かもしれないと琴葉は考えを改める。

 「いいけど……」

 琴葉が了承すると、綾子は甘えるように琴葉の腕に手を絡める。

 「よかった! ねえ、話したいことがあるから、カフェーに寄らない? (おご)るわ」

 (織井さんってこんな子だったっけ)

 普段はお嬢様らしく、ツンと澄ましているように見えていた。

 違和感とともに、琴葉は蜘蛛(くも)の巣に絡められたようにも感じていた。

 綾子はカフェーに入ると、琴葉に了承も得ずクリームソーダをふたつ頼む。

 奢ってくれるとはいえ少々一方的すぎないかと琴葉はつい出そうになった文句を呑み込み、綾子に尋ねた。

 「……織井さん、話ってなに?」

 「三枝さんって、お兄様が夜刀様の部下なんでしょう?」

 「う、うん。でも先に言っておくけど、紹介はできないから!」

 警戒してそう答える琴葉を綾子はクスッと笑った。

 「違うわ。あたしの従姉妹が夜刀様の婚約者なのは知ってるでしょう。その話がしたいなって思って」

 ちょうどそのタイミングで店員がクリームソーダを運んでくる。

 綾子の前に置かれたクリームソーダにだけチェリーが添えられていない。

 「あれ、織井さんのクリームソーダ、チェリーがないけど」

 「ええ。苦手だから、乗せないように頼んであるの」

 注文の際にはなにも言っていなかったから、おそらくこの店の常連なのだろう。

 「ふうん、そうなんだ……」

 ここまで完全に綾子のペースに乗せられていて、なんとなく心に引っかかるものを感じる。虫の知らせというのだろうか。けれどそれがなにかまではピンと来ない。

 「ほらほら飲んでちょうだい。アイスが溶けちゃう」

 綾子は唇の両端を吊り上げてそう言い、クリームソーダをひと口飲んだ。

 「う、うん……」

 琴葉も勧められるままにクリームソーダを口にした。喉を通る味は、やけに甘ったるい気がする。

 (アイスが甘いのかな?)

 「それで、話って」

 「紗良の話よ」

 先日の紗良のことを思い出すも、ドレス姿がぼんやり滲む。どういうわけか急に頭の中がじわじわ痺れて、眠いような気がした。

 「紗良さん……悪いことしちゃったな」

 琴葉は無意識のうちにそう呟いていた。なんでそんな発言をしてしまったのかも、よくわからない。

 「先日のパーティーの話? ねえ、噂で聞いたんだけど、夜刀様はもう記憶がなくなることはなくて、しかも紗良が夜刀様の記憶を繋ぎ止める力を持っているっていうのは本当なのかしら?」

 「うん……でも紗良さんと離れると、黒須さんの記憶はだんだん消えてしまうって。ええと……十二時間以上、だったかな……」

 聞かれるままに、兄から聞いた内容をそのまま話した。

 入眠の直前のように考えがまとまらず、頭がふわふわする。ぼんやりとして、自分がなにを口走っているのか、よくわからなくなっていた。

 「ほら、もっと飲んで」

 口元にクリームソーダのストローをあてがわれ、琴葉は勧められるままに甘ったるい液体を飲み込んだ。飲めば飲むほど喉が渇き、なにも考えられなくなっていく。

 「ふふ、すごい効き目。これを夜刀様に飲ませられたらよかったんだけどなぁ」

 クスクスと綾子の笑う声がするが、琴葉はもうそれを疑問に思わなかった。

 「ねえ、三枝さんにお願いがあるの」

 「なに……?」

 「夜刀様の日記を持ってきてくれないかしら。三枝さんなら、お兄さんに頼まれたって説明すれば、夜刀様の家に入れるでしょう?」

 「でも……そんなことできない……」

 綾子は琴葉の耳元で囁く。

 「実はね、夜刀様の本当の婚約者はあたしだったの。でも、夜刀様の記憶がなくなるのを利用して、紗良が婚約者の座をあたしから奪ってしまったのよ。ひどいでしょ」

 甘い声を無理やり脳にねじ込まれると頭がクラクラして、少しずつそんな気がしてしまう。

 「だからね、三枝さんが夜刀様の日記を持ってきてくれたら証拠になるわ。これは夜刀様を助けるためなの」

 「たすけるため……?」

 「そうよ。悪魔から夜刀様を助けなきゃ」

 (たすけなきゃ)

 ぼんやりしたままそう考え、こくんと頷いた。

 琴葉は、カフェーにいたはずなのに、いつのまにか外を歩いていた。隣に綾子がべったり張りつき、琴葉の耳に囁いてくる。

 「いい? 『兄の届け物を持ってきました』って言って、夜刀様の部屋に入れてもらうのよ。そしたら、日記を持って外に出てくるの。誰にも見つからないように。わかった?」

 「うん……」

 琴葉が頷くたびに首がガクッと揺れるのも気にならない。

 幼い頃、兄に連れられて、黒須家には何度か遊びに行ったことがある。

 (だいすきなくろすさんのおうち)

 琴葉は黒須家の門扉を見上げ、幼い頃に戻ったような気がしていた。

 万智や使用人たちも、みんな琴葉に優しかった。夜刀への淡い恋心だけでなく、純粋に遊びに行くのを楽しみにしていた。

 (ああ、きっとこれはゆめなんだ)

 だから、昔に戻っているんだと思えば、なにも気にならない。

 出迎えてくれた使用人に、綾子に吹き込まれた通りの言葉を言って敷地内に入れてもらった。訝しげな顔の使用人からあれこれと話しかけられたが、夢の中だからか、くぐもってよく聞こえない。

 記憶の中と変わらない夜刀の部屋に行き、日記を鞄の中に入れる。そしてまた、いつのまにか門の外に出ていた。

 ぼんやりしていると、鞄を引っ張られ、持ち出したものが彼女の手に渡る。

 (このこ……だれだっけ……わたし、なにしてたんだっけ……)

 なにもわからない。

 「すごい。ちゃんと取ってきてくれたのね。それから、他の人には聞かれないようにこれを紗良に伝えて――」

 綾子は琴葉の耳元でなにかを囁く。

 琴葉はもうなにも考えられず、ただぼんやりとその場に(たたず)んでいた。