立花の家は、黒須家からさほど離れていない場所にあった。
黒須家ほどではないが、立派な門構えの洋風の屋敷だ。近隣も豪邸ばかりで、この一帯は高級住宅地なのだろう。
急な訪問にもかかわらず、在宅していた立花は快く迎えてくれた。
通されたのはモダンな洋風の応接室だ。白を基調とした部屋で、ソファや家具類は黒で統一されている。すっきりしたインテリアだが、壁際の棚には高級そうな洋酒瓶が並んでいる。
これもインテリアだろうか、と眺めていると、立花は照れくさそうに笑う。
「私の趣味なんです。洋酒の蒐集と、それから飲む方も」
立花は紅茶を淹れ、ちょっとだけ、と言いながら自分のカップに洋酒を垂らした。
意外な趣味だと思ったが、笑顔で洋酒入りの紅茶を飲んでいる立花の姿は不思議としっくりくる。
「それで、今日はどうしましたか?」
すると夜刀は出された紅茶に手をつけもせず、性急に話を切り出した。
「急にすまない。少し気になることがあって」
夜刀は先ほどの、公園で女の子が転んでしまい膝から出血したが少しの間に塞がっていたという話を立花に聞かせた。
紗良は夜刀の意図がよくわからず、黙って話を聞くことしかできない。
「こないだの大規模討伐でも似たような話があった。結構な深い傷だと思ったのに、後で見たら、ほとんど塞がっているような浅い傷しかなかったと、俺だけでなく部下も言っていたんだ」
「確かに皆さん軽傷ばかりでしたね」
立花にも思い当たる節があるようで、表情を引き締めて夜刀に先を促す。
「それだけじゃない。あの時、俺や部下は妖魔の攻撃がいつもより弱い気がしていた。だが、本当は負傷が通常より早く治癒していたからそう感じたのではないだろうか」
「……なるほど。治癒の力ですか」
「ああ。それに、昨年末に行った大規模討伐で俺は大怪我をしたはずだ。だが、傷痕すらいっさいなく、現状ではそんな怪我があったとは信じがたい。当時の記憶はないままだから自分では判断できないんだ。立花先生に聞きたいのは、俺の怪我が急に回復したことがあったんじゃないか、ということなんだ」
立花は記憶を巡らせるように顎に指を当て、それから静かに頷いた。
「……ありました。あの時、夜刀さんは重傷を負い、特に左目は視力が戻るかも正直五分五分というところでしたが、一月の半ばを境に、急に快方に向かったんですよね。妙なほど回復が早いとは思いましたが……」
「その時期に起きた出来事のおかげではないかと推測している。……紗良、俺が織井家を最初に訪れた日を覚えているか?」
急に話を振られ、紗良は慌てて口を開く。
「え、ええ。夜刀さんに会ったのは守布の提出日でしたから、一月十五日で間違いありません」
そう答えると、立花の顔がハッとしたものに変わり、夜刀はこくりと頷いた。
なにか間違ったことでもしてしまっただろうか。
「日記に書いてあったんだが、その日、紗良は俺の軍服のボタンを付け直してくれたはずだ。使った糸も、守布と同じ糸ではなかったか?」
紗良は落ち着かない気持ちで肯定する。
「はい。余った糸を裁縫用に使っていますから……」
「そして、こないだの大規模討伐でも、紗良は俺に手作りの組紐をくれた。隊員たちの軍服の補修もしてくれたな」
つまり、と夜刀は続ける。
「紗良には癒しの力があるのではないか?」
「なるほど。それも単独の癒しの力というより、守布や糸に癒しの力を付与しているように感じますね」
「ああ。これまで同様の報告はなかったから、紗良が織った守布製の軍服に癒しの効果があるわけではなく、手ずから加工した糸や布を用いるのが癒しの力を発動するきっかけになるのではないだろうか」
「一応、紗良さんの守布から制作した軍服も改めて検証した方がいいでしょう。いくつか可能性がありますが、夜刀さんが織女神の力で記憶を留める効果を得ているように、戦神の加護を持つ夜刀さんのそばにいることで紗良さんの持つ加護が今までより引き出されているのかもしれません」
ふたりの会話を聞き、紗良のほとんど変わらない表情筋が珍しく仕事をし、わずかではあったが口がポカンと開いた。
「ま、まさか……」
そんなわけないと、慌てて首を横に振って否定した。
「紗良、癒神の加護を持つ一族の存在は知っているだろう」
そう尋ねられ、紗良はおずおず頷く。
「それはもちろん。でも……そんなすごい方、親戚にもいませんし……」
癒神は、戦神や織女神と同じ四柱の神々のうちの一柱だ。名前の通り、傷を癒す力を持つ神で、癒神の加護を持つ一族も同様に手をかざすだけで傷を癒したそうだ。
「た、確か、癒神の加護を持つ方は、もうほとんどいらっしゃらないのでは」
「そうですね。昔はもっと人数が多く、各討伐隊にも治癒師として所属していたそうです。しかし、妖魔は突如として治癒師を狙って攻撃してくるようになり、たくさんの治癒師が亡くなられました。生き残った癒神の加護を持つ一族は血筋を守るため、現在は禍山から離れた安全な場所に住まわれています」
「だが、いることには変わりない。その癒神の加護を持つ人が、紗良の実の父親という可能性はないか?」
紗良の心臓がドクンと大きな音を立てた。
(お父さん……)
父のことを考えると気持ちが昂ってしまう。紅茶をひと口飲んで落ち着こうとカップに手を伸ばしかけたが、紅茶の水面に亡き父の激昂した顔が映り、血の気が引いた。
震える指先がティーカップに当たってカチッと音が立ち、父の幻は揺らめきながら消える。背中を冷や汗が伝っていた。
「紗良の母親が妊娠した際、相手の話をしなかったそうだが、癒神の一族だったから言えなかったのかもしれない。あの一族は特殊で、現在でも婚姻の自由が許されていないんだ。だが紗良が癒神の加護を持つ一族の血を引いているのなら、捜せば実の父親がわかるかもしれない。紗良が望むなら捜しても……」
夜刀の言葉に、紗良は両手をギュッと握る。
「いえ、いいです。知るのが怖いというか……」
なぜ、母は結婚せず、ひとりで紗良を産んだのか。紗良が父だと認識していた人は、事情をどこまで知っていたのか。そして、紗良をどう思っていたのか。
父だけでなく母からもどう扱われていたのか記憶にない。家庭に問題はなかったと思い込んでいたが、ふたりとも紗良を疎んでいたのかもしれない。
(……だから思い出せないんじゃないの?)
心臓がずっと嫌な音を立てている。ニヤニヤしながら、本当は折り合いが悪かったんじゃないかと言っていた綾子の姿が浮かんだ。
寄る辺ないような感覚に引っ張られたせいか、紗良は完全にネガティブな気持ちになっていた。両親を亡くした時に血の繋がった父親が名乗り出てこなかったことからも、捜し当てたところで拒否されるとしか思えず、どんな人か知りたいどころか否定される恐怖しか感じない。
「そうか。紗良が知るのが怖いなら捜さないが……」
「そ、それに、私にそんな力があるなんて実感もないですし」
夜刀と立花は紗良に治癒の力があることを前提に話を進めているが、紗良はそんなつもりはなく、信じられるはずがない。
「では、ちょっと切って試してみましょう」
立花は、洋酒の蝋キャップを開けるのに使っていたナイフを自分の腕にあてがう。
紗良は血の気が引き、慌てて止めた。
「や、やめてくださいっ!」
「待てっ!」
夜刀も引きつった顔で立花の腕を掴んでいる。
しかし当の立花は残念そうな顔をした。
「自分の目で傷が治るのを確かめたいですし、こうするのが手っ取り早いのですが……」
「頼むから、自分で実験するのはやめてくれ」
「仕方ないですね」
渋々ながらもナイフを引っ込めたため、紗良たちはホッと胸を撫で下ろした。
紗良の能力を調べるためとはいえ、まさか自分の腕を切ろうとするなんて肝が冷えてしまった。
「立花先生は判断が早くて、俺としては助かることも多いんだが、思いきりが良すぎるのは難点だな」
夜刀は珍しく深々とため息をついている。
「ええ。心臓に悪いです……」
紗良は胸元を押さえ、こくこくと首を縦に動かした。
「では、代わりに隊員に聞き取り調査を行いますか。紗良さんが軍服の補修をしてくれたおかげで隊員の怪我が軽かったのだと仮定します。補修してもらった隊員と、してもらっていない隊員の怪我の予後を比較しましょう」
「それでもし俺たちが推測しているような結果が出れば、紗良も自分の力を信じてくれ」
夜刀にそう言われ、紗良はおずおずと頷いた。
黒須家ほどではないが、立派な門構えの洋風の屋敷だ。近隣も豪邸ばかりで、この一帯は高級住宅地なのだろう。
急な訪問にもかかわらず、在宅していた立花は快く迎えてくれた。
通されたのはモダンな洋風の応接室だ。白を基調とした部屋で、ソファや家具類は黒で統一されている。すっきりしたインテリアだが、壁際の棚には高級そうな洋酒瓶が並んでいる。
これもインテリアだろうか、と眺めていると、立花は照れくさそうに笑う。
「私の趣味なんです。洋酒の蒐集と、それから飲む方も」
立花は紅茶を淹れ、ちょっとだけ、と言いながら自分のカップに洋酒を垂らした。
意外な趣味だと思ったが、笑顔で洋酒入りの紅茶を飲んでいる立花の姿は不思議としっくりくる。
「それで、今日はどうしましたか?」
すると夜刀は出された紅茶に手をつけもせず、性急に話を切り出した。
「急にすまない。少し気になることがあって」
夜刀は先ほどの、公園で女の子が転んでしまい膝から出血したが少しの間に塞がっていたという話を立花に聞かせた。
紗良は夜刀の意図がよくわからず、黙って話を聞くことしかできない。
「こないだの大規模討伐でも似たような話があった。結構な深い傷だと思ったのに、後で見たら、ほとんど塞がっているような浅い傷しかなかったと、俺だけでなく部下も言っていたんだ」
「確かに皆さん軽傷ばかりでしたね」
立花にも思い当たる節があるようで、表情を引き締めて夜刀に先を促す。
「それだけじゃない。あの時、俺や部下は妖魔の攻撃がいつもより弱い気がしていた。だが、本当は負傷が通常より早く治癒していたからそう感じたのではないだろうか」
「……なるほど。治癒の力ですか」
「ああ。それに、昨年末に行った大規模討伐で俺は大怪我をしたはずだ。だが、傷痕すらいっさいなく、現状ではそんな怪我があったとは信じがたい。当時の記憶はないままだから自分では判断できないんだ。立花先生に聞きたいのは、俺の怪我が急に回復したことがあったんじゃないか、ということなんだ」
立花は記憶を巡らせるように顎に指を当て、それから静かに頷いた。
「……ありました。あの時、夜刀さんは重傷を負い、特に左目は視力が戻るかも正直五分五分というところでしたが、一月の半ばを境に、急に快方に向かったんですよね。妙なほど回復が早いとは思いましたが……」
「その時期に起きた出来事のおかげではないかと推測している。……紗良、俺が織井家を最初に訪れた日を覚えているか?」
急に話を振られ、紗良は慌てて口を開く。
「え、ええ。夜刀さんに会ったのは守布の提出日でしたから、一月十五日で間違いありません」
そう答えると、立花の顔がハッとしたものに変わり、夜刀はこくりと頷いた。
なにか間違ったことでもしてしまっただろうか。
「日記に書いてあったんだが、その日、紗良は俺の軍服のボタンを付け直してくれたはずだ。使った糸も、守布と同じ糸ではなかったか?」
紗良は落ち着かない気持ちで肯定する。
「はい。余った糸を裁縫用に使っていますから……」
「そして、こないだの大規模討伐でも、紗良は俺に手作りの組紐をくれた。隊員たちの軍服の補修もしてくれたな」
つまり、と夜刀は続ける。
「紗良には癒しの力があるのではないか?」
「なるほど。それも単独の癒しの力というより、守布や糸に癒しの力を付与しているように感じますね」
「ああ。これまで同様の報告はなかったから、紗良が織った守布製の軍服に癒しの効果があるわけではなく、手ずから加工した糸や布を用いるのが癒しの力を発動するきっかけになるのではないだろうか」
「一応、紗良さんの守布から制作した軍服も改めて検証した方がいいでしょう。いくつか可能性がありますが、夜刀さんが織女神の力で記憶を留める効果を得ているように、戦神の加護を持つ夜刀さんのそばにいることで紗良さんの持つ加護が今までより引き出されているのかもしれません」
ふたりの会話を聞き、紗良のほとんど変わらない表情筋が珍しく仕事をし、わずかではあったが口がポカンと開いた。
「ま、まさか……」
そんなわけないと、慌てて首を横に振って否定した。
「紗良、癒神の加護を持つ一族の存在は知っているだろう」
そう尋ねられ、紗良はおずおず頷く。
「それはもちろん。でも……そんなすごい方、親戚にもいませんし……」
癒神は、戦神や織女神と同じ四柱の神々のうちの一柱だ。名前の通り、傷を癒す力を持つ神で、癒神の加護を持つ一族も同様に手をかざすだけで傷を癒したそうだ。
「た、確か、癒神の加護を持つ方は、もうほとんどいらっしゃらないのでは」
「そうですね。昔はもっと人数が多く、各討伐隊にも治癒師として所属していたそうです。しかし、妖魔は突如として治癒師を狙って攻撃してくるようになり、たくさんの治癒師が亡くなられました。生き残った癒神の加護を持つ一族は血筋を守るため、現在は禍山から離れた安全な場所に住まわれています」
「だが、いることには変わりない。その癒神の加護を持つ人が、紗良の実の父親という可能性はないか?」
紗良の心臓がドクンと大きな音を立てた。
(お父さん……)
父のことを考えると気持ちが昂ってしまう。紅茶をひと口飲んで落ち着こうとカップに手を伸ばしかけたが、紅茶の水面に亡き父の激昂した顔が映り、血の気が引いた。
震える指先がティーカップに当たってカチッと音が立ち、父の幻は揺らめきながら消える。背中を冷や汗が伝っていた。
「紗良の母親が妊娠した際、相手の話をしなかったそうだが、癒神の一族だったから言えなかったのかもしれない。あの一族は特殊で、現在でも婚姻の自由が許されていないんだ。だが紗良が癒神の加護を持つ一族の血を引いているのなら、捜せば実の父親がわかるかもしれない。紗良が望むなら捜しても……」
夜刀の言葉に、紗良は両手をギュッと握る。
「いえ、いいです。知るのが怖いというか……」
なぜ、母は結婚せず、ひとりで紗良を産んだのか。紗良が父だと認識していた人は、事情をどこまで知っていたのか。そして、紗良をどう思っていたのか。
父だけでなく母からもどう扱われていたのか記憶にない。家庭に問題はなかったと思い込んでいたが、ふたりとも紗良を疎んでいたのかもしれない。
(……だから思い出せないんじゃないの?)
心臓がずっと嫌な音を立てている。ニヤニヤしながら、本当は折り合いが悪かったんじゃないかと言っていた綾子の姿が浮かんだ。
寄る辺ないような感覚に引っ張られたせいか、紗良は完全にネガティブな気持ちになっていた。両親を亡くした時に血の繋がった父親が名乗り出てこなかったことからも、捜し当てたところで拒否されるとしか思えず、どんな人か知りたいどころか否定される恐怖しか感じない。
「そうか。紗良が知るのが怖いなら捜さないが……」
「そ、それに、私にそんな力があるなんて実感もないですし」
夜刀と立花は紗良に治癒の力があることを前提に話を進めているが、紗良はそんなつもりはなく、信じられるはずがない。
「では、ちょっと切って試してみましょう」
立花は、洋酒の蝋キャップを開けるのに使っていたナイフを自分の腕にあてがう。
紗良は血の気が引き、慌てて止めた。
「や、やめてくださいっ!」
「待てっ!」
夜刀も引きつった顔で立花の腕を掴んでいる。
しかし当の立花は残念そうな顔をした。
「自分の目で傷が治るのを確かめたいですし、こうするのが手っ取り早いのですが……」
「頼むから、自分で実験するのはやめてくれ」
「仕方ないですね」
渋々ながらもナイフを引っ込めたため、紗良たちはホッと胸を撫で下ろした。
紗良の能力を調べるためとはいえ、まさか自分の腕を切ろうとするなんて肝が冷えてしまった。
「立花先生は判断が早くて、俺としては助かることも多いんだが、思いきりが良すぎるのは難点だな」
夜刀は珍しく深々とため息をついている。
「ええ。心臓に悪いです……」
紗良は胸元を押さえ、こくこくと首を縦に動かした。
「では、代わりに隊員に聞き取り調査を行いますか。紗良さんが軍服の補修をしてくれたおかげで隊員の怪我が軽かったのだと仮定します。補修してもらった隊員と、してもらっていない隊員の怪我の予後を比較しましょう」
「それでもし俺たちが推測しているような結果が出れば、紗良も自分の力を信じてくれ」
夜刀にそう言われ、紗良はおずおずと頷いた。
