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 夜が明け、夜刀はひとり、織井家に赴いていた。

 紗良であれば口先だけの謝罪でも綾子を許してしまいかねない。だから敢えて、今日はひとりで赴いたのだった。

 出迎えた織井家の当主は嫌な予感がしたのか、すでに冷や汗をかいていた。

 「く、黒須様、本日はいったいどういったご用件で……?」

 「織井綾子は、紗良に近づくなという約束を破ったばかりか、紗良に余計な話を吹き込んで傷つけた。もう見過ごすことはできない」

 詳しい事情を話すにつれて、当主はみるみる青ざめた。

 「も、申し訳ありません! すぐに綾子を呼びますので……!」

 連れてこられた綾子は悪びれた様子もなく、胸の前で手を組み、目をうるうるさせていた。

 「あたし、そんなつもりじゃなくて……紗良が両親の記憶がないのが可哀想で、力になりたかっただけなんです。もう二度と変な話はしませんから!」

 「ど、どうか、今一度ご容赦を! 綾子は真面目に機織りもするようになりました。紗良から奪ってきた守布は何年かかっても綾子に返させますので!」

 当主夫婦は深々と頭を下げる。

 夜刀からすれば、綾子は悪意で紗良に吹き込んだとしか思えないが、そもそも大規模討伐の際、紗良をこの村で待機させ、織井家から炊き出しの提案を受け入れるという判断をしたのは夜刀だ。物理的に近づきやすい隙を見せてしまったこちらのミスとも言える。

 「……わかった。今回だけは不問にする」

 「ありがとうございます!」

 当主は何度も頭を下げた。とりあえずは(くぎ)を刺しておくだけでいいだろう。夜刀の判断で過剰な罰を与えたことを知れば、優しい紗良は心を傷めてしまうかもしれない。

 要件が済んだところで、使用人がお茶を出しに来た。ふうと息を吐き、出された茶碗(ちゃわん)を手にすると、不意に綾子の目が光った気がした。

 (まだなにか企んでいるのか?)

 その意図に気づいたのは、茶碗に口をつけようとしてお茶の香りの奥に薬物の嫌な匂いを嗅ぎ取った時だった。夜刀は茶碗を乱暴に置く。

 「これはどういうことだ」

 「な、なにか問題でもございましたか?」

 当主夫婦はキョトンとした顔で首を傾げている。とぼけているのではなく、本気で意味がわかっていないようだ。

 次いで綾子に視線を向けると、素知らぬ様子で目を逸らした。

 「当主殿、この茶に薬物が仕込まれている」

 「や、薬物……? なぜそんなものが……」

 その驚きようからしても、当主夫婦は無関係だろう。

 「た、確かに我々に出されたお茶と匂いが違います……」

 当主は茶の匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。嗅ぎ比べなければわからないくらいの()(さい)な匂いだ。夜刀が戦神の刀を継承していて五感が敏感だったのでなければ、気づかず飲んでしまってもおかしくない。とはいえ、匂いだけではなんの薬物かまでは判別できない。毒ではないだろうが、ろくな薬ではなさそうだ。

 「お、おい、麦野っ! なにを入れたんだ!」

 お茶を出した使用人を呼び、当主は激しく責め立てた。

 「わ、私は知りません! 綾子お嬢さんに頼まれたんですっ!」

 当主に揺さぶられ、半泣きの使用人が綾子を指差す。

 「えー知らないわ。麦野がやったんじゃないのぉ?」

 「そ、そんな……」

 麦野と呼ばれた使用人は真っ青になり、ガクガクと震えている。

 「……もういい」

 綾子はしらばっくれているが、さすがに娘に甘い当主でももう庇うことはできないと諦めたように俯いた。

 「当主殿、どう落とし前をつける?」

 「許してくださいとお願いできる立場ではありません。……ですが、もし警察沙汰にしないと言っていただけたら、黒須様にも紗良にも二度と関われないよう綾子を遠方にやると約束します」

 「そうだな。警察沙汰になれば紗良が困る」

 綾子を警察に突き出せば、従姉妹である紗良にまたおかしな噂を立てられてしまうかもしれない。夜刀としても、これ以上紗良を傷つけることだけは避けたかった。

 「北部山地に遠縁がおります。綾子は女学校を辞めさせ、そちらで機織り修行をさせます」

 「な、なによそれ! あんな牢獄(ろうごく)みたいなところに行けっていうの⁉︎」

 それまで平気な顔をしていた綾子の顔色が急に変わる。

 当主の説明によると、冬には大雪で閉ざされる山奥で、娯楽施設どころか公共交通機関すらなく、隣の村に行くだけでも数時間かかる山道を越えなければならない場所だそうだ。

 織井村があるのは皇都の端とはいえ、繁華街までさほど遠くなく、お嬢様学校に通って裕福な暮らしをしていた綾子にはまさに牢獄に等しい場所だろう。

 「……それから、織井家もすべて紗良に譲ります」

 苦渋の決断だったのだろう。当主は目を閉じ、絞り出すようにそう言った。

 「そうか。なら、うちの方で実務を肩代わりする者を選んでおこう」

 紗良が当主になるのは構わないが、夜刀は紗良を手放す気はない。

 名目上は紗良を当主にし、信頼のおける人物に実務を担ってもらうつもりだ。いつか紗良との間に何人か子供を授かったなら、そのうちのひとりに継がせるのがいいだろう。

 「はい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」

 当主は重々しく頷き、当主の妻も目を伏せたままで異を唱えることはなかった。

 「は……? 紗良が……?」

 綾子はワナワナと震えているが、もう当主は綾子に目もくれない。彼女は愚かにもそれだけの行為をしてしまったのだ。

 「それから、麦野。綾子についていくかクビになるか選びなさい」

 突然の飛び火に、麦野の顔も歪む。

 「わ、私が? どうしてですか! 私は綾子お嬢さんに命令されただけで……」

 「いくら命令されたからといって、悪事に加担するような使用人など雇えるはずないだろう。それから、どちらを選んでも、予定していた縁談は白紙だ!」

 どうやら麦野には、縁談の話があったらしい。未婚の使用人には嫁ぎ先を探すのも当主の役割のうちだが、それはあくまで双方の信頼関係の上に成り立っているものだ。綾子の言いなりで簡単に悪事に加担する麦野に、当主も愛想が尽きたのだろう。

 「う、嘘よぉ……なんで……どうしてこんなことにぃ……」

 麦野は膝から崩れ落ちると、頭を抱えてシクシクと泣き始めた。

 綾子も呆然と座り込み、力なく呟く。

 「紗良が跡取りなんて……どうしてよ……」

 ようやく取り返しがつかないと悟ったのだろうが、もう遅すぎた。

 「どうしてだなんて……言いたいのは儂らの方だ……」

 当主は額を押さえ、首を力なく振る。

 わずかな間に、当主夫婦はげっそりと老け込んだような顔をしていた。