パーティーは格式のあるホテルでの開催だった。
ホテルの建物は荘厳な洋館で、紗良ひとりだったらとても入れないような雰囲気がある。会場となるバンケットホールまで続くプロムナードには分厚い絨毯が敷かれていた。道すがら絵画や調度品が飾られ、優雅な雰囲気を醸し出している。
本来なら、プロムナードを通るだけでパーティーへの期待が高まるのだろうが、どれだけ美しいものを見ても、今の紗良には重い気持ちがますます重くなるような気がしてしまう。
夜刀の腕に掴まり、バンケットホールに入場した。
天井の中央に大きなシャンデリアが輝いているのが目に入る。その周囲を取り囲む小さな照明はまるで星のように煌めいていた。
床は総大理石、豪奢な飾りも過多で、とにかく情報量が多い。だがホールが広く天井も高いため、閉塞感はいっさいない。
会場にはすでにたくさんの参加者が来ていた。夜刀と同じく純白の軍服を着た隊員や着飾った女性たちが楽しげに語らい、明るい雰囲気に拍車をかけるような賑やかな演奏も聞こえる。祝勝会というだけあって、参加者は皆、楽しそうに過ごしていた。
「す、すごいパーティーですね」
「基本的に身内ばかりだから、あまり気負うことはない。あくまで大規模討伐の成功を祝い、隊員やその家族を労うための会だ」
会場内に踏み出せば、誰も彼もが夜刀に視線を向けてくる。当然、その隣にいる紗良にも視線が降り注ぐが、その中にどこか冷ややかなものが混じっている気がした。
「ねえ、あの女の子……黒須隊長の……」
「噂じゃ、男遊びが激しいとかって」
そんな声がヒソヒソと聞こえて紗良はビクッと身をすくめた。
綾子に流された嘘の噂がまだ残っていたのだ。冷たい視線もそのせいだろう。
紗良は俯く。本当に緊張を感じて、心臓がドキドキしてしまう。
夜刀はそんな紗良の肩を抱き、声のする方に顔を向けた。特に睨んだわけではないが、それだけで声の主は口をつぐんだようだ。
「紗良、気にするな」
夜刀は甘く微笑み、周囲の女性たちはさっきとは打って変わって頬を赤らめていた。
「夜刀! それから紗良さんも、こんばんは」
聞き覚えのある声にふと顔を上げると、夜刀の部下の三枝藤吾だった。
夜刀と同じく白い軍服姿の三枝は、背後に女学校の制服を着た快活そうな少女を連れていた。長いまっすぐな髪をポニーテールにしている。
(この子、どこかで……?)
わずかに考え込み、すぐに思い出した。
かつて綾子に騙されてカフェーに忘れ物を取りに行った帰り、バスで隣に座った女学生だ。煙草臭くなってしまった紗良は隣に座る彼女に迷惑そうにされ、申し訳ない気持ちになったのを覚えている。
「黒須さん、お久しぶりです。三枝琴葉です!」
少女は夜刀に向かってはにかむように微笑む。
「ああ、琴葉ちゃんか。大きくなったな。すっかりお姉さんだ」
夜刀の言葉に三枝は苦笑した。
「夜刀、その言い方、親戚のおじさんみたいだぞ」
「仕方ないだろう。小さい頃の印象のままなんだから」
「まあ、背はでかくなったが、中身はガキのまま変わってないんだ」
ふたりのかけ合いは幼馴染らしく遠慮がない。夜刀も珍しく年相応になっているように感じた。
「もう、兄さんってば! それより紹介してよ!」
少女は三枝の背中をせっつくように突いた。
「悪い悪い。紗良さん、俺の妹の琴葉だ。紗良さんの一歳下だな」
「三枝琴葉です! 兄がいつもお世話になっています!」
琴葉は元気よく紗良に挨拶をしてくれた。
凛々しい太眉と垂れ目が三枝に少し似ているが、ニコッと笑うと愛嬌が出て可愛らしい。その態度から、かつてバスで会ったことを覚えている様子はなさそうだ。
「琴葉ちゃん、俺の婚約者の紗良だ」
紗良は琴葉に頭を下げた。
「織井紗良と申します。こちらこそ三枝さんにはお世話になっております」
「よければ琴葉と呼んでくださいね」
琴葉はハキハキと挨拶をした。礼儀正しく溌剌としていて、三枝の妹らしい感じのいいお嬢さんだ。
さっき見知らぬ女性たちにヒソヒソされたのもあって、余計にホッとする。
「あの、織井さんってことは、もしかして妹さんがいますか? 同級生に織井綾子さんっていう子がいるんですけど」
綾子の名前を出された紗良は、ドクンと心臓が飛び跳ねる。
「い、従姉妹です……」
やっとのことでそう答えるも、綾子の話を思い出し息が苦しくなった。
「紗良、疲れたか?」
「す、少しだけ。でも大丈夫です」
紗良は夜刀の腕に縋りながらそう言った。
「紗良さん、大丈夫ですか?」
「冷たい飲み物をもらってきましょうか?」
夜刀だけでなく三枝や琴葉も声をかけてくれるが、紗良は首を横に振る。
「人が多くて疲れたのかもしれないな」
そんな話をしていると、ホールの出入り口側がにわかに騒がしくなる。
さりげなく三枝が見に行き、すぐに戻ってきた。
「夜刀、例の人もいらっしゃったみたいだ。……もう飲んでるって」
「ああ、あの人か」
三枝に囁かれ、夜刀は眉をひそめた。夜刀にしては珍しい、うんざりした顔だ。
「さすがに挨拶しないわけにはいかないよな」
三枝の態度からも、あまり会いたくない相手のようだ。
紗良が首を傾げていると、三枝が困り顔で教えてくれた。
「酒癖に問題がある人なんですが、ちょっと無下にできない相手で……」
「挨拶は俺たちだけで行ってくる。ふたりは少し待っていてくれるか?」
「わかりました」
「じゃあ紗良さんと隅っこの方で待ってますね!」
琴葉もニッコリ笑う。
夜刀と三枝は連れ立って行き、紗良も琴葉に促され隅の人気のない場所まで来た。
「紗良さん、この辺で待っていましょう」
「え、ええ」
「やっぱり、体調が悪いんじゃ……」
「そ、そんなことないです」
紗良は無理してそう答えたが、元々の睡眠不足に慣れないヒールのついた靴や人混みもあって、少し前から背中に嫌な汗が伝うのを感じていた。
「紗良さん、お水をどうぞ。気分が悪かったら言ってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
本当はグラスを持っているのもしんどいが、紗良は琴葉に渡された水をなんとかひと口飲む。
「紗良さんのドレス、素敵ですね。羨ましいなぁ。私なんて学生服ですよ? 学生ならドレスコードは学生服って、兄から言われてしまって。綺麗なドレスを着たかったからがっかりですよ。でも連れてきてもらえただけありがたいし……」
琴葉はたわいない話をあれこれと振ってくれたが、じわじわと気分が悪くなっていく紗良にはうまく答えられなかった。
生返事の紗良に、懸命に話しかけてくれていた琴葉の顔も徐々に曇っていく。
「……あの。私の話、そんなにつまらないですか? それとも私とは話したくないですか?」
琴葉の言葉に心臓がドキッとした。
「そ、そんな……」
「さっきからニコリともしないし、黒須さんも可哀想。今日がなんのパーティーなのか、わかってますか? 祝勝パーティーなんですよ。今回は亡くなった人も大怪我した人もいなくて、みんなが喜んでいるのに……今の紗良さんの態度じゃ、まるで黒須さんの無事を喜んでいないみたいに見えます」
琴葉にまっすぐな視線を向けてキッパリと断言され、紗良は息を呑んだ。
確かに今日の紗良の態度は、笑顔を出せないという点を置いておいても、あまり褒められたものではない。目の前の悩みで、まるで周囲が見えていなかった。
夜刀にもひどいことをしてしまったのではないだろうか。
「……ごめんなさい。はっきり言うと嫉妬です。私、昔から黒須さんが好きでした。ううん、今も好き。でも、私はいつまで経っても三枝藤吾の妹でしかない。だから諦めようって思っていたのに……!」
率直な琴葉の言葉は、紗良にグサリと突き刺さった。
琴葉の目には夜刀への想いと、ままならない悔しさが滲んでいる。さらに、紗良への複雑な気持ちを抱えているのが見て取れた。
本当は、彼女はバスの中で会ったことも覚えているのだろう。おそらく噂についても耳に入っていて、それでも紗良を傷つけないよう、知らないふりで明るく振る舞っていてくれただけなのだ。そう察した紗良には返す言葉がなかった。
「それに……黒須さんには好きな人がいるって聞いたことがあるんです。笑顔がとても可愛い人だって。ずっと昔からの知り合いみたいで、黒須さんはどんな美人から告白されても断ってたのに、婚約した相手が貴方みたいな人だなんて、どうしても納得できない!」
(好きな人……夜刀さんに?)
笑顔が可愛い人。つまり、笑うことができない自分とは正反対の相手だ。それも、ずっと昔から……。
(それは、私じゃない)
理由はわからないけれど、夜刀は紗良を愛してくれているのだと思っていた。けれど、本当は他に好きな人がいたのなら。
(私は……なんなの?)
突然の息苦しさに胸を押さえ、「はっ、はっ」と浅い呼吸を繰り返す。何度息をしても、ろくに空気が入っていかない気がした。
「さ、紗良さん……?」
視界がじわじわと暗くなっていく。手にしていたグラスが大理石の床に落ち、パリンと儚い音を立てて割れた。
「しっかりしてください! 誰か……!」
琴葉の叫ぶ声も遠く聞こえる。
ふらついた紗良を琴葉が支えようとしてくれたが、彼女の細腕では支えきれない。ふたりとも倒れてしまいそうになった、その時。
「――紗良!」
夜刀の声がして、駆け寄る音だけが聞こえた。
これまで何度も紗良を支えてくれた夜刀のしっかりとした腕が紗良を抱き留める。さっきまで、どれだけ呼吸をしても苦しかったのに、おかげで少し楽になった。
「紗良、大丈夫か⁉︎ ゆっくり息をするんだ」
少しまともになった視界で、琴葉が目に涙を浮かべているのが見えた。
「わ、私のせいです! 私、紗良さんにひどいこと言ってしまって……」
「ち……違います」
紗良は力を振り絞って否定した。
「琴葉さんのせいじゃありません……」
倒れそうになったのは自分の体調不良のせいであって、琴葉のせいだとは微塵も感じていない。
紗良は腰を抱えた夜刀の腕に手を添える。
「私は大丈夫ですから、放して……」
「放さない。紗良、つらかったらつらいと、ちゃんと伝えてほしい。悩みがあるなら、相談してほしいんだ」
夜刀は紗良に真剣な視線をまっすぐに向けた。紗良がずっと悩んでいるのに気づいていたのだ。もしかすると紗良から相談するのを待っていたのかもしれない。
けれど自分以外を愛している夜刀に見つめられるのがつらくて、紗良は目を逸らした。
「なぜ目を逸らす? 俺が嫌いなのか?」
(そんなわけない……)
紗良は夜刀を心から愛しているというのに、どうしても言葉にならなかった。
「すみません、黒須さん。私のせいなんです。紗良さんに、黒須さんには昔から好きな人がいるって話をしてしまったから……」
琴葉はオロオロしながら、今にも消え入りそうな声で告げた。
「琴葉! 言っていいことと悪いことの区別もつかないのか⁉︎」
普段は温厚な三枝が声を荒らげ、琴葉はビクッと震える。
「いいんだ」
琴葉を叱る三枝を、夜刀は目線だけで制した。
「確かに、ずっと前から好きな人が俺にはいる」
琴葉が話した通りだったのだと胸がズキッと痛み、紗良は深く俯く。
「その好きな人とは、君のことだ。……紗良」
「……え?」
紗良は弾かれたように顔を上げると、夜刀の銀色の瞳と視線がかち合った。
そんなはずはない。夜刀が紗良と出会ったのはほんの二ヶ月ほど前で、『ずっと前から』と言えるほどの期間ではない。
しかも、あの雪の日の出会いは今の夜刀の記憶には残っていないはずなのに、紗良をまっすぐに見つめる銀色の瞳は、どこか悲しげでありながら焦がれるような熱が込められていた。嘘偽りなど、どこにも見当たらない。
「君が覚えていないのは察していた。だから敢えて教えなかったけれど、子供だった俺は、織井村で幼い君と会ったことがある。俺はその時からずっと、君が好きだった」
(夜刀さんと私が……出会っていた?)
表情は変わらないが、紗良の心は驚きに満ちていた。
紗良には夜刀に会ったという記憶はない。けれど、夜刀と初めて会ったと思っていたあの雪の日、紗良を前にした夜刀の唇が『見つけた』と呟くように動いたのを覚えている。
いつのまにか会場中に鳴り響いていた演奏も止まり、誰もが会話をやめていた。広い会場が水を打ったようにシンと静まり返る。
「……いい機会だから宣言しておく」
夜刀は顔を上げ、周囲を見回しながら大きな声を張り上げた。
「紗良の悪い噂はすべてでたらめだ。今後、こういった噂が紗良の耳に届くようなことがあれば、俺は黒須家当主として、広めた人物を絶対に許さない。俺は、紗良を愛している。それだけじゃない。紗良は、消えてしまう俺の記憶を留めてくれる能力を持っている大切な人なんだ」
次の瞬間、紗良は夜刀に軽々と横向きに抱き上げられていた。
途端に、あんなに静まり返っていた周囲から、ざわざわと驚愕の声が広がる。
「今回の大規模討伐で大きな被害もなく作戦が成功したのも、俺の記憶が残っていたからだ。俺は戦神の刀による力と、記憶を保った経験の力の両方を手にした。紗良がいなければ、これほどの完全勝利は得られなかっただろう」
どよめく人々に夜刀は、そうはっきりと告げた。
「その通りッス!」
「黒須隊長の記憶があったおかげで俺たちは無事に帰れました!」
会場のあちこちからそんな声があがった。声に聞き覚えがあるので、おそらくは夜刀の部下たちだ。
「そして紗良さんは、かつて妖魔の襲撃によりご両親を亡くされ、紗良さん本人も心に深い傷を負ったというのに、黒須隊長の記憶のために恐怖に耐えて大規模討伐に参加してくれたんです!」
三枝も大きな声ではっきりと言った。
知らなかったらしい琴葉はことさら大きく目を見開き、口元を押さえて震えている。
「そ、そんなことがあったなんて……私、知らなくて……」
「琴葉、知らなかったからといって、人を傷つけたことに変わりはない」
三枝にもそう叱られ、琴葉は目に涙を浮かべている。
「……ごめんなさい、紗良さん」
紗良は首を横に振った。倒れそうになったのは、悩んでばかりの自分のせいだ。
「元々体調がよくないのを黙っていた私が悪いんです。琴葉さん……私の方こそ誤解させてごめんなさい……」
「三枝、琴葉ちゃん。すまないが紗良は体調が悪いようだ。このまま連れ帰る」
「ああ。後のことは任せてくれ」
夜刀は紗良を抱きかかえながら頼み、三枝は胸を叩いて請け負う。ふたりの信頼関係が垣間見えた。
紗良はそのまま、黒須家に戻ることになった。夜刀は紗良を抱き上げたまま運び、一度も降ろしてくれない。
夜刀の腕でゆらゆらと揺れているうちに、紗良はいつのまにか眠ってしまっていた。
ホテルの建物は荘厳な洋館で、紗良ひとりだったらとても入れないような雰囲気がある。会場となるバンケットホールまで続くプロムナードには分厚い絨毯が敷かれていた。道すがら絵画や調度品が飾られ、優雅な雰囲気を醸し出している。
本来なら、プロムナードを通るだけでパーティーへの期待が高まるのだろうが、どれだけ美しいものを見ても、今の紗良には重い気持ちがますます重くなるような気がしてしまう。
夜刀の腕に掴まり、バンケットホールに入場した。
天井の中央に大きなシャンデリアが輝いているのが目に入る。その周囲を取り囲む小さな照明はまるで星のように煌めいていた。
床は総大理石、豪奢な飾りも過多で、とにかく情報量が多い。だがホールが広く天井も高いため、閉塞感はいっさいない。
会場にはすでにたくさんの参加者が来ていた。夜刀と同じく純白の軍服を着た隊員や着飾った女性たちが楽しげに語らい、明るい雰囲気に拍車をかけるような賑やかな演奏も聞こえる。祝勝会というだけあって、参加者は皆、楽しそうに過ごしていた。
「す、すごいパーティーですね」
「基本的に身内ばかりだから、あまり気負うことはない。あくまで大規模討伐の成功を祝い、隊員やその家族を労うための会だ」
会場内に踏み出せば、誰も彼もが夜刀に視線を向けてくる。当然、その隣にいる紗良にも視線が降り注ぐが、その中にどこか冷ややかなものが混じっている気がした。
「ねえ、あの女の子……黒須隊長の……」
「噂じゃ、男遊びが激しいとかって」
そんな声がヒソヒソと聞こえて紗良はビクッと身をすくめた。
綾子に流された嘘の噂がまだ残っていたのだ。冷たい視線もそのせいだろう。
紗良は俯く。本当に緊張を感じて、心臓がドキドキしてしまう。
夜刀はそんな紗良の肩を抱き、声のする方に顔を向けた。特に睨んだわけではないが、それだけで声の主は口をつぐんだようだ。
「紗良、気にするな」
夜刀は甘く微笑み、周囲の女性たちはさっきとは打って変わって頬を赤らめていた。
「夜刀! それから紗良さんも、こんばんは」
聞き覚えのある声にふと顔を上げると、夜刀の部下の三枝藤吾だった。
夜刀と同じく白い軍服姿の三枝は、背後に女学校の制服を着た快活そうな少女を連れていた。長いまっすぐな髪をポニーテールにしている。
(この子、どこかで……?)
わずかに考え込み、すぐに思い出した。
かつて綾子に騙されてカフェーに忘れ物を取りに行った帰り、バスで隣に座った女学生だ。煙草臭くなってしまった紗良は隣に座る彼女に迷惑そうにされ、申し訳ない気持ちになったのを覚えている。
「黒須さん、お久しぶりです。三枝琴葉です!」
少女は夜刀に向かってはにかむように微笑む。
「ああ、琴葉ちゃんか。大きくなったな。すっかりお姉さんだ」
夜刀の言葉に三枝は苦笑した。
「夜刀、その言い方、親戚のおじさんみたいだぞ」
「仕方ないだろう。小さい頃の印象のままなんだから」
「まあ、背はでかくなったが、中身はガキのまま変わってないんだ」
ふたりのかけ合いは幼馴染らしく遠慮がない。夜刀も珍しく年相応になっているように感じた。
「もう、兄さんってば! それより紹介してよ!」
少女は三枝の背中をせっつくように突いた。
「悪い悪い。紗良さん、俺の妹の琴葉だ。紗良さんの一歳下だな」
「三枝琴葉です! 兄がいつもお世話になっています!」
琴葉は元気よく紗良に挨拶をしてくれた。
凛々しい太眉と垂れ目が三枝に少し似ているが、ニコッと笑うと愛嬌が出て可愛らしい。その態度から、かつてバスで会ったことを覚えている様子はなさそうだ。
「琴葉ちゃん、俺の婚約者の紗良だ」
紗良は琴葉に頭を下げた。
「織井紗良と申します。こちらこそ三枝さんにはお世話になっております」
「よければ琴葉と呼んでくださいね」
琴葉はハキハキと挨拶をした。礼儀正しく溌剌としていて、三枝の妹らしい感じのいいお嬢さんだ。
さっき見知らぬ女性たちにヒソヒソされたのもあって、余計にホッとする。
「あの、織井さんってことは、もしかして妹さんがいますか? 同級生に織井綾子さんっていう子がいるんですけど」
綾子の名前を出された紗良は、ドクンと心臓が飛び跳ねる。
「い、従姉妹です……」
やっとのことでそう答えるも、綾子の話を思い出し息が苦しくなった。
「紗良、疲れたか?」
「す、少しだけ。でも大丈夫です」
紗良は夜刀の腕に縋りながらそう言った。
「紗良さん、大丈夫ですか?」
「冷たい飲み物をもらってきましょうか?」
夜刀だけでなく三枝や琴葉も声をかけてくれるが、紗良は首を横に振る。
「人が多くて疲れたのかもしれないな」
そんな話をしていると、ホールの出入り口側がにわかに騒がしくなる。
さりげなく三枝が見に行き、すぐに戻ってきた。
「夜刀、例の人もいらっしゃったみたいだ。……もう飲んでるって」
「ああ、あの人か」
三枝に囁かれ、夜刀は眉をひそめた。夜刀にしては珍しい、うんざりした顔だ。
「さすがに挨拶しないわけにはいかないよな」
三枝の態度からも、あまり会いたくない相手のようだ。
紗良が首を傾げていると、三枝が困り顔で教えてくれた。
「酒癖に問題がある人なんですが、ちょっと無下にできない相手で……」
「挨拶は俺たちだけで行ってくる。ふたりは少し待っていてくれるか?」
「わかりました」
「じゃあ紗良さんと隅っこの方で待ってますね!」
琴葉もニッコリ笑う。
夜刀と三枝は連れ立って行き、紗良も琴葉に促され隅の人気のない場所まで来た。
「紗良さん、この辺で待っていましょう」
「え、ええ」
「やっぱり、体調が悪いんじゃ……」
「そ、そんなことないです」
紗良は無理してそう答えたが、元々の睡眠不足に慣れないヒールのついた靴や人混みもあって、少し前から背中に嫌な汗が伝うのを感じていた。
「紗良さん、お水をどうぞ。気分が悪かったら言ってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
本当はグラスを持っているのもしんどいが、紗良は琴葉に渡された水をなんとかひと口飲む。
「紗良さんのドレス、素敵ですね。羨ましいなぁ。私なんて学生服ですよ? 学生ならドレスコードは学生服って、兄から言われてしまって。綺麗なドレスを着たかったからがっかりですよ。でも連れてきてもらえただけありがたいし……」
琴葉はたわいない話をあれこれと振ってくれたが、じわじわと気分が悪くなっていく紗良にはうまく答えられなかった。
生返事の紗良に、懸命に話しかけてくれていた琴葉の顔も徐々に曇っていく。
「……あの。私の話、そんなにつまらないですか? それとも私とは話したくないですか?」
琴葉の言葉に心臓がドキッとした。
「そ、そんな……」
「さっきからニコリともしないし、黒須さんも可哀想。今日がなんのパーティーなのか、わかってますか? 祝勝パーティーなんですよ。今回は亡くなった人も大怪我した人もいなくて、みんなが喜んでいるのに……今の紗良さんの態度じゃ、まるで黒須さんの無事を喜んでいないみたいに見えます」
琴葉にまっすぐな視線を向けてキッパリと断言され、紗良は息を呑んだ。
確かに今日の紗良の態度は、笑顔を出せないという点を置いておいても、あまり褒められたものではない。目の前の悩みで、まるで周囲が見えていなかった。
夜刀にもひどいことをしてしまったのではないだろうか。
「……ごめんなさい。はっきり言うと嫉妬です。私、昔から黒須さんが好きでした。ううん、今も好き。でも、私はいつまで経っても三枝藤吾の妹でしかない。だから諦めようって思っていたのに……!」
率直な琴葉の言葉は、紗良にグサリと突き刺さった。
琴葉の目には夜刀への想いと、ままならない悔しさが滲んでいる。さらに、紗良への複雑な気持ちを抱えているのが見て取れた。
本当は、彼女はバスの中で会ったことも覚えているのだろう。おそらく噂についても耳に入っていて、それでも紗良を傷つけないよう、知らないふりで明るく振る舞っていてくれただけなのだ。そう察した紗良には返す言葉がなかった。
「それに……黒須さんには好きな人がいるって聞いたことがあるんです。笑顔がとても可愛い人だって。ずっと昔からの知り合いみたいで、黒須さんはどんな美人から告白されても断ってたのに、婚約した相手が貴方みたいな人だなんて、どうしても納得できない!」
(好きな人……夜刀さんに?)
笑顔が可愛い人。つまり、笑うことができない自分とは正反対の相手だ。それも、ずっと昔から……。
(それは、私じゃない)
理由はわからないけれど、夜刀は紗良を愛してくれているのだと思っていた。けれど、本当は他に好きな人がいたのなら。
(私は……なんなの?)
突然の息苦しさに胸を押さえ、「はっ、はっ」と浅い呼吸を繰り返す。何度息をしても、ろくに空気が入っていかない気がした。
「さ、紗良さん……?」
視界がじわじわと暗くなっていく。手にしていたグラスが大理石の床に落ち、パリンと儚い音を立てて割れた。
「しっかりしてください! 誰か……!」
琴葉の叫ぶ声も遠く聞こえる。
ふらついた紗良を琴葉が支えようとしてくれたが、彼女の細腕では支えきれない。ふたりとも倒れてしまいそうになった、その時。
「――紗良!」
夜刀の声がして、駆け寄る音だけが聞こえた。
これまで何度も紗良を支えてくれた夜刀のしっかりとした腕が紗良を抱き留める。さっきまで、どれだけ呼吸をしても苦しかったのに、おかげで少し楽になった。
「紗良、大丈夫か⁉︎ ゆっくり息をするんだ」
少しまともになった視界で、琴葉が目に涙を浮かべているのが見えた。
「わ、私のせいです! 私、紗良さんにひどいこと言ってしまって……」
「ち……違います」
紗良は力を振り絞って否定した。
「琴葉さんのせいじゃありません……」
倒れそうになったのは自分の体調不良のせいであって、琴葉のせいだとは微塵も感じていない。
紗良は腰を抱えた夜刀の腕に手を添える。
「私は大丈夫ですから、放して……」
「放さない。紗良、つらかったらつらいと、ちゃんと伝えてほしい。悩みがあるなら、相談してほしいんだ」
夜刀は紗良に真剣な視線をまっすぐに向けた。紗良がずっと悩んでいるのに気づいていたのだ。もしかすると紗良から相談するのを待っていたのかもしれない。
けれど自分以外を愛している夜刀に見つめられるのがつらくて、紗良は目を逸らした。
「なぜ目を逸らす? 俺が嫌いなのか?」
(そんなわけない……)
紗良は夜刀を心から愛しているというのに、どうしても言葉にならなかった。
「すみません、黒須さん。私のせいなんです。紗良さんに、黒須さんには昔から好きな人がいるって話をしてしまったから……」
琴葉はオロオロしながら、今にも消え入りそうな声で告げた。
「琴葉! 言っていいことと悪いことの区別もつかないのか⁉︎」
普段は温厚な三枝が声を荒らげ、琴葉はビクッと震える。
「いいんだ」
琴葉を叱る三枝を、夜刀は目線だけで制した。
「確かに、ずっと前から好きな人が俺にはいる」
琴葉が話した通りだったのだと胸がズキッと痛み、紗良は深く俯く。
「その好きな人とは、君のことだ。……紗良」
「……え?」
紗良は弾かれたように顔を上げると、夜刀の銀色の瞳と視線がかち合った。
そんなはずはない。夜刀が紗良と出会ったのはほんの二ヶ月ほど前で、『ずっと前から』と言えるほどの期間ではない。
しかも、あの雪の日の出会いは今の夜刀の記憶には残っていないはずなのに、紗良をまっすぐに見つめる銀色の瞳は、どこか悲しげでありながら焦がれるような熱が込められていた。嘘偽りなど、どこにも見当たらない。
「君が覚えていないのは察していた。だから敢えて教えなかったけれど、子供だった俺は、織井村で幼い君と会ったことがある。俺はその時からずっと、君が好きだった」
(夜刀さんと私が……出会っていた?)
表情は変わらないが、紗良の心は驚きに満ちていた。
紗良には夜刀に会ったという記憶はない。けれど、夜刀と初めて会ったと思っていたあの雪の日、紗良を前にした夜刀の唇が『見つけた』と呟くように動いたのを覚えている。
いつのまにか会場中に鳴り響いていた演奏も止まり、誰もが会話をやめていた。広い会場が水を打ったようにシンと静まり返る。
「……いい機会だから宣言しておく」
夜刀は顔を上げ、周囲を見回しながら大きな声を張り上げた。
「紗良の悪い噂はすべてでたらめだ。今後、こういった噂が紗良の耳に届くようなことがあれば、俺は黒須家当主として、広めた人物を絶対に許さない。俺は、紗良を愛している。それだけじゃない。紗良は、消えてしまう俺の記憶を留めてくれる能力を持っている大切な人なんだ」
次の瞬間、紗良は夜刀に軽々と横向きに抱き上げられていた。
途端に、あんなに静まり返っていた周囲から、ざわざわと驚愕の声が広がる。
「今回の大規模討伐で大きな被害もなく作戦が成功したのも、俺の記憶が残っていたからだ。俺は戦神の刀による力と、記憶を保った経験の力の両方を手にした。紗良がいなければ、これほどの完全勝利は得られなかっただろう」
どよめく人々に夜刀は、そうはっきりと告げた。
「その通りッス!」
「黒須隊長の記憶があったおかげで俺たちは無事に帰れました!」
会場のあちこちからそんな声があがった。声に聞き覚えがあるので、おそらくは夜刀の部下たちだ。
「そして紗良さんは、かつて妖魔の襲撃によりご両親を亡くされ、紗良さん本人も心に深い傷を負ったというのに、黒須隊長の記憶のために恐怖に耐えて大規模討伐に参加してくれたんです!」
三枝も大きな声ではっきりと言った。
知らなかったらしい琴葉はことさら大きく目を見開き、口元を押さえて震えている。
「そ、そんなことがあったなんて……私、知らなくて……」
「琴葉、知らなかったからといって、人を傷つけたことに変わりはない」
三枝にもそう叱られ、琴葉は目に涙を浮かべている。
「……ごめんなさい、紗良さん」
紗良は首を横に振った。倒れそうになったのは、悩んでばかりの自分のせいだ。
「元々体調がよくないのを黙っていた私が悪いんです。琴葉さん……私の方こそ誤解させてごめんなさい……」
「三枝、琴葉ちゃん。すまないが紗良は体調が悪いようだ。このまま連れ帰る」
「ああ。後のことは任せてくれ」
夜刀は紗良を抱きかかえながら頼み、三枝は胸を叩いて請け負う。ふたりの信頼関係が垣間見えた。
紗良はそのまま、黒須家に戻ることになった。夜刀は紗良を抱き上げたまま運び、一度も降ろしてくれない。
夜刀の腕でゆらゆらと揺れているうちに、紗良はいつのまにか眠ってしまっていた。
