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 夜刀は記憶が保持できるタイムリミットの十二時間が過ぎないよう、たまに戻ってきて、紗良のそばで休憩をしていく。

 夜も、夜刀は紗良の隣で寝ることもあれば、ほんの少しの休憩だけで前線に戻ることもあった。

 なにも言わないけれど怪我はしているようで、時折薬の匂いをさせていた。

 夜刀はこの国で最も危険な場所に行っているのだから当然だ。

 紗良は心配のあまり、つい考え込んでしまい、よく眠れずにいた。日中も、後方で夜刀を待つだけなのに耐えられない。

 せめて少しは役に立てないかと炊き出しの手伝いを願い出たが、村から女手を借りていて不要だという。おそらく紗良が織井家の人と顔を合わせて気まずい思いをしないように配慮してくれているのだろう。

 それでもなにか、と思った紗良は、前線に出た隊員が戻るたびに軍服のそこかしこが破れているのに気がついた。

 丈夫な守布でも、妖魔と戦えば簡単に破れてしまうのだとか。討伐を終えたら専門業者が回収して直すそうだが、討伐中は替えの軍服に交換する以外なく、小さな穴であれば放ったらかしにしてしまうそうだ。

 そこで紗良は、軍服の穴や破れのかけつぎを請け負うことにした。軍服に空いた大きな穴を確かめ、ゾッと震えた。夜刀を含め、前線に出ている人たちは、それだけ恐ろしい妖魔と戦っているのだ。

 (夜刀さんも、皆さんも、どうか無事でいてくれますように……)

 紗良はそう祈りを込め、一針一針を丁寧に縫った。

 縫い終えた軍服を渡すと、若い隊員が確かめて目を輝かせた。

 「紗良さん、すごいッス! どこに穴があったか、全然わからないッスよ!」

 「いえ、裏からなら修理跡がすぐわかりますよ。その部分が固くなってしまうので、動かしにくいなら調整しますから、遠慮なく言ってくださいね」

 紗良が手伝ったからといって、夜刀が早く帰ってこれるわけではない。けれど、どうしてもなにかしていないと怖い想像ばかりしてしまう。

 紗良は夜刀がいない時は不眠不休で繕いものをしていたせいか、かえって立花を心配させてしまったようだ。

 「紗良さん、あまり根を詰めすぎると体調を崩してしまいますよ」

 「でも……待っているだけなのは落ち着かなくて」

 「夜刀さんの記憶も無事なおかげで周囲の士気も高く、討伐は順調に進んでいますから安心してください。そろそろ天幕内の清掃の時間ですし、気分転換に少し散歩をしてはどうでしょう。天幕付近なら、危険はありませんよ」

 「そうですね……そうします」

 周囲も辛気臭い顔の紗良がずっといては気を遣ってしまうだろうと考え、立花に勧められたように天幕から離れて散歩をする。

 結界のすぐ近くなのもあって、村の中心地にある織井の本家より、紗良の生家があった辺りに近い。どことなく景色にも見覚えがあり、両親の記憶は思い出せないままだが、胸がざわつくのを感じていた。

 「あっ、紗良、見ーつけた!」

 突然、聞き覚えのある声で呼びかけられ、紗良はビクッと震える。

 綾子が紗良に向かって、笑顔で駆け寄ってくるのが見えた。どうやら討伐に紗良が参加しているのを知っていたらしい。

 「綾子さん……」

 「ちょっと、そんなに怯えないでよ。いいものを見つけたから、わざわざあんたのために持ってきてあげたのに」

 綾子はピラピラと書類らしき紙を掲げる。

 「それは……?」

 「紗良の戸籍の写しよ。三年前、うちの養子になる時に取ったものみたい。ちゃんと見ていないんじゃない?」

 なんでそんなものを、と戸惑いながら紗良は頷く。

 「紗良って両親のことを忘れちゃったんでしょう。こういうのが思い出すきっかけになるかもしれないわよ。はい、これ」

 以前のように渡す条件などもなく、ごく普通に渡された。なにか企んでいるわけではないのだろうか。

 紙を広げると、確かに戸籍の写しだ。もう存在しない生家の住所、紗良の名前や生年月日が載っており、特に目新しい情報があるように見えない。

 そう考えていた紗良だったが、あることに気づく。

 戸籍の写しには両親の名前が記載されているはずだが、母の名前しかなく、父の欄は空白になっていた。

 「え……どうして……?」

 顔や声など両親の記憶が曖昧になっていても、その存在は覚えている。確か薬売りをしていて、仕入れで留守にする日も多かったが、間違いなく父はいたはずなのにどうしてここに載っていないのだろう。

 「あら、三年前に亡くなったのは、あんたの本当の父親じゃないってことも覚えてなかったんだ」

 綾子はクスクスと笑い声をあげた。

 「ど、どういうことですか……?」

 「お母様から昔の話を聞いてきたんだけど、紗良の母親って未婚で妊娠したんだって。相手の話はいっさいしないし、当時は大騒ぎで一度は織井家からも勘当されたんだけど、守布を納品するって約束で村外れに家を建ててもらったとか。織井の血筋、それも当主の妹なのに、あんな不便な場所の粗末なボロ家に住んでたのをおかしいって思わなかったの?」

 確かに、今考えるとおかしな点がいくつも出てくる。

 生家を粗末だと思ったことはないが、村外れで周囲に他の家はなく、当然近所付き合いもなかったし、伯父の家とも守布関係以外では関わりは少なかった気がする。それに当時は気にしてなかったが、養子になる前から苗字は織井だ。決まっているわけではないにしろ、一般的に結婚後は夫の苗字になる方が多いのではないだろうか。

 「でも……じゃあ、あのお父さんは……」

 「あんたが小さい頃にあんたの母親と結婚した人だそうよ。でも、あんたを認知もしてないし、実の父親じゃないのは間違いないみたいね」

 途端に、ズキッと刺されるような痛みがこめかみに走った。

 「……くっ、う……」

 咄嗟にこめかみを押さえたが、痛みはますます激しくなる一方だ。目の前がだんだん暗くなり、紗良はその場にしゃがみ込んだ。綾子がなにか呼びかけているようだが、よく聞こえない。

 突然、雷が目の前に落ちたと錯覚するほど目の前が激しく光った。

 ただの光ではなく、その中に紗良の知る、父の顔がバッと浮かんだ。

 これまでどうしても思い出せなかったのに、顔を見た瞬間、父だとわかった。まるで失ってしまった部分の欠片(かけら)が戻ってきたような感覚だった。

 しかし、その父はひどく険しい顔をしていた。声は聞こえないが、紗良を責め立てているとしか思えない形相で紗良の胸元を強く押したのだ。

 『――やめて、お父さん……っ!』

 頭の中に響いたのは、紗良自身の声だった。

 (この記憶は……いったいなに……?)

 「ちょっと、紗良!」

 肩を激しく揺さぶられ、紗良は我に返った。

 「あ……」

 紗良の体に音や視覚が戻ってきて、ふらつきながらも立ち上がる。

 「なんか思い出したわけ? あ、もしかして、実は父親と折り合いが悪かったんでしょう。実の娘じゃないっていびられたりしたとか?」

 紗良はビクッと震えた。

 はっきり思い出したわけではない。父の記憶がなかったから、ごく普通の親子関係だと信じていたけれど、今の記憶からすると、ひどく叱られたことでもあったのだろうか。悩む紗良に、綾子はニマニマと嫌な笑みを向ける。

 「妖魔に襲われた事件も紗良は覚えていないんでしょう。じゃあ、夜刀様のお父様が、あんたを助けるために死んだのも知らないんだぁ」

 「や、夜刀さんのお父様が……?」

 綾子の言葉に、紗良はヒュッと息を呑んだ。

 「そうよ。妖魔の大群に襲われて家だって壊れるほどの被害だったのに、どうして自分が無事だったか考えたことなかったわけ? 朝になるまで待った方がいいって意見もあったのに、夜刀様のお父様がひとりで飛び込んでいって、あんたを助け出したのよ。でも大怪我をして、その数日後に亡くなられたとか。だから夜刀様だって、急に戦神の刀を継承して大変だったそうじゃない。あんた、疫病神ねぇ」

 耳がわぁんとおかしな音を立て、綾子の声が遠く聞こえる。紗良は足元がふらふらとし、立っていられなくなってしまった。

 (私を助けるために……夜刀さんのお父様が……)

 「大丈夫? 真っ青じゃないの!」

 綾子はわざとらしい声をあげながら、ふらついた紗良を支えた。そして甘えるように腕を絡め、紗良の耳元で甘く囁く。

 「そんなに迷惑をかけたくせに、このまま結婚してしまっていいの? ずっと夜刀様や、夜刀様のお母様につらい思いをさせてしまうなんて可哀想」

 「……っ!」

 「この話を夜刀様が聞いたら、お父様を思い出して悲しくなってしまうかもしれないわ。だから、夜刀様には言っちゃダメよ。なにか適当な理由を作って離れた方が、きっとお互いのためじゃないかしら」

 綾子の言葉は、遅効性の毒のようにゆっくり紗良の心に染み渡っていく。

 (お父さん……)

 ずっと父親だと思っていたのは継父だった上、わずかに蘇った記憶で尋常ではない恐ろしい形相をしていた。紗良はなにか忘れてはいけないことを忘れてしまったのだろうか。

 そして、大切な人の父親は、自分のせいで死んでしまった。

 (私のせいで……!)

 ぐるぐると回転するような激しい眩暈(めまい)に、紗良は顔を覆い強く目を閉じた。