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 黒須夜刀は、戦神の刀を受け継ぐ黒須家に生まれた。

 代々、黒須家の当主は戦神の刀を継承し、中央妖魔討伐隊の隊長を務める。

 戦神の刀は非常に強力で、継承者の剣技、体力や腕力を高め、身の丈が倍あるような強大な妖魔でさえ、あっさりと倒すことができる。神代から伝わるというのに刃こぼれひとつない。

 まさに神の武器であり、黒須家以外の者には扱えないものだ。

 しかし、戦神の刀の継承者は記憶が一日分しか保たなくなる。眠ると、その時点でそれまでの記憶がリセットされてしまうのだ。

 継承までの記憶は残っているため、生活に支障はないとされている。けれど、感情はそう簡単に割りきれるものではない。子供の頃の夜刀は、それを父親の表情から感じ取っていた。

 「父上、おはようございます」

 朝、夜刀が声をかけると、父は銀色の目を見開いて固まる。

 「ああ、夜刀か。随分大きくなったな……」

 しばらくしてからそう言い、おずおずと夜刀の頭を撫でるのだ。まるで初めて撫でるような、ぎこちない手つきで。

 それが毎朝繰り返されていた。

 父は夜刀が幼い頃に戦神の刀を継承したそうだ。継承までの記憶しか残っていない父の中では、夜刀はまだ幼子のままなのだろう。だから毎朝、成長した夜刀を見て驚くのだ。

 夜刀にはそれが寂しかった。父が次の日に記憶を持ち越せないせいで、普段は明るい母がたまに父を悲しそうに見つめていることにも気づいていた。

 (早く強くなって、父上をお助けするんだ!)

 夜刀がうんと強くなって妖魔を全滅させてしまえば、父は戦神の刀を使う必要もなく、もう記憶を失わずに済む。明日の話ができて、母も喜ぶはずだ。

 子供心にそう考えた夜刀は幼いうちから熱心に剣の修行に取り組んだ。

 気持ちに元々の才能も釣り合い、十歳を過ぎた頃には大人の師範代とも互角に渡り合えるようになっていた。そして、十一歳になった時、剣の達人である師範から一本を取ることができた。

 「この実力なら、今すぐにでも妖魔討伐隊のエースになれるかもしれないな!」

 師範は夜刀を()(だい)の天才だと褒めちぎった。

 後で思い返せば大げさなくらいに褒めて自信をつけさせるつもりだったのだろうが、子供だった夜刀はそれを鵜呑(うの)みにし、腕試しに飛び出してしまった。

 妖魔は国の中央にある禍山のどこからか湧いてくるとされる。

 禍山の周囲には結界が張ってあり、妖魔だけでなく人間も出入りできない。しかし、結界の破損などにより空いた穴から、妖魔が出てきてしまうのを夜刀は知っていた。

 中でも結界に近く、妖魔の目撃情報もたびたび報告されているという織井村に向かった。

 村外れに来ると人家は少なくなり、守布の産地として知られるだけあって延々と桑畑が広がっている。

 しばらく探したが妖魔は見つからない。諦めて戻ろうとした時、悲鳴が聞こえた。

 慌てて声の方に向かうと、少女が走って逃げている。その背後に、『神喰(かみぐい)』と呼ばれる(おおかみ)に似た妖魔がいた。小型だったが、それでも大型犬くらいはある。

 追われて必死に走る少女が足元の石に(つまず)いたのを見て、咄嗟に体が動いていた。夜刀は妖魔に駆け寄ると、家から持ち出した刀で妖魔を叩き切った。

 戦神の刀を元に作られた、実際に妖魔討伐隊で使われている刀である。

 斬り捨てた妖魔はドロリと黒い泥のように溶けた。妖魔は普通の生き物とはまったく異なり、死体すら残らないのだ。

 夜刀は初めての実戦を終え、興奮冷めやらぬまま、しばらくハアハアと肩で息をしていたが、ハッと我に返った。

 襲われていた少女を振り返る。少女は地面に膝をつき、夜刀を見上げて呆けたように口を開いていた。

 柔らかな灰茶色の髪の愛らしい少女。七歳か八歳くらいだろうか。くりっとした大きな目をしていて、左目の下にほくろがふたつ並んでいる。

 「大丈夫か?」

 そう声をかけると、ホッとしたのか少女の目にみるみるうちに涙が()まり、あっという間に決壊した。

 「う……うぅ、わあああああんっ!」

 愛らしい曲線を描く頬を、大粒の涙が滴り落ちる。

 「怖かったよな。もう大丈夫だからな」

 夜刀は少女に駆け寄り、慌てて慰めた。

 転んだ時に擦りむいたのか、少女の膝が真っ赤に染まっていた。痛々しい膝に、夜刀の眉もひそめられる。

 「家まで送るよ。ほら、おいで」

 夜刀は少女をおんぶしてあげた。泣いてろくにしゃべれない様子の少女だったが、少し落ち着いたのか、鼻をすんすん鳴らしながらも家の方向を教えてくれた。

 「お家、あそこ」

 しばらく歩いて少女が指差したのは、木造の小さな民家だった。

 「あれ? 納屋じゃなくて?」

 大きな屋敷に住む夜刀の目には、一般の民家の中でも特に小さい家が納屋に見えてしまったのだ。

 「違うもん。私のお家だもん。お父さんとお母さんと一緒に住んでるの!」

 怒った少女が手足をジタバタさせる。

 「あ、危ないから背中で暴れないでくれ」

 慌てて夜刀が背中から下ろすと、少女はまだ目に涙を溜めながら、ぷうっと頬を膨らませていた。可愛らしい眉を逆立て、小さな両手をギュッと拳にしている。

 「ご、ごめん」

 夜刀が謝ると、少女はバツが悪そうに手の指をもじもじと動かした。

 「……私も怒っちゃってごめんなさい」

 少女は夜刀の手を取り、ニッコリと笑う。

 「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう」

 まるでその場に花が咲いたような笑みに夜刀は見惚れていた。

 胸がむず痒いような、どこかソワソワするような、不思議な気持ち。目の前の少女をぎゅうっと抱きしめたくなってしまう。

 「ねえ、お家に来て。お母さんにお兄ちゃんが助けてくれたって言うから!」

 少女は小さな手で夜刀の手を引く。

 しかし夜刀は、こっそり家を出てきたのを思い出した。

 妖魔討伐の目的は完遂したが、刀を持ち出したのがバレたら大変だ。慌てて少女の肩に手を置いた。

 「ごめん。俺、もう帰らなきゃいけないんだ」

 「そうなの……?」

 少女は不安そうに顔を曇らせる。

 「でも……また妖魔が来たらどうしよう……」

 夜刀の服の端をきゅっと掴む可愛らしい仕草に、可哀想な気持ちと不思議な胸のドキドキで頭の中が混乱してしまう。

 夜刀は思わず少女を抱き寄せていた。

 「大丈夫。襲われても、何度でも俺が助けに行くから」

 「本当……?」

 「ああ。約束する」

 「うん、約束ね!」

 夜刀はその輝くような微笑みに胸を掴まれていた。

 (……俺、この子のことが好きだ)

 ドキドキする胸を押さえ、夜刀は初恋を自覚した。

 「お兄ちゃん、ありがとう!」

 「……また、会いに来てもいいか?」

 「うん、絶対だよ!」

 小指を差し出され、夜刀は自分の小指を絡める。その温かさに夜刀も微笑んだ。

 夜刀は修行も兼ねて、今後も少女の家の周囲を警護しに行くつもりだった。しかし、帰った頃には屋敷から抜け出したことがバレていた。

 おそらく少女の親が、妖魔が出たと中央妖魔討伐隊に知らせたのだろう。

 夜刀は少女に名乗っていなかったが、小型とはいえ妖魔を倒せるような実力を持った子供が夜刀の他にいるはずがない。刀を持ち出したのもバレて、夜刀は両親や師範からこっぴどく叱られた。

 今回は無事だったが、もし大型の妖魔だったら夜刀ひとりでは倒せなかったかもしれない。軽率な行動をすれば、助けられる人をかえって危険に巻き込んでしまうと、こんこんと諭され、夜刀も反省した。

 そして、妖魔討伐隊に入るまで真剣を扱うのも禁じられた。

 あの少女に会いに行けなくなってしまったのは残念だったが、あの辺りの警戒を強めてくれると聞いてホッとした。

 これであの少女も安心できるだろう。いつか、立派になったら会いに行こう。

 そう決心した夜刀だったが、忘れていたことがあった。

 「……しまった。あの子の名前を聞きそびれた」

 しかし、家の場所は知っている。

 可愛らしい初恋の少女のころころ変わる表情を思い返すと、夜刀はつい唇が緩んでしまいそうになる。あの子がどんな名前なのだろうかと想像するだけで楽しかった。

 「笑った顔が花みたいに可愛かったから、花の名前かな。桜とか……百合(ゆり)、すみれなんかも似合うな。早くもっと強くなって、会いに行くんだ」

 夜刀は少女の笑顔を胸に刻み、さらに修行に励んだ。

 そして、気がつけば七年が経過し、夜刀は十八歳になっていた。

 夜刀は中央妖魔討伐隊に入隊すると、あっという間に頭角を現した。討伐隊の次期隊長と褒めそやされ、自分の実力を過信していた。

 そんな夜刀に転機が訪れたのは、珍しく積もりそうなほど雪が降った夜遅くだった。中央妖魔討伐隊に、結界が大きく損傷したという知らせが入ったのだ。

 地図に記されていたのはあの少女の家から近いポイントで、夜刀の心臓が冷たい手で掴まれたような心地がした。

 「……この規模ですと、おそらく単独の妖魔ではないでしょう。雪もありますし、群れであれば入念な準備をしてからの方が――」

 そんな悠長なことはしていられないと、夜刀は三枝の言葉を最後まで聞かず、刀を引っ掴んで討伐隊本拠地から飛び出した。

 おかげで誰よりも早く現場に到着した。

 あの少女と出会った付近に到着した頃には、大小の神喰が群れをなしていた。

 狼に似た神喰は鋭い牙と爪を持ち、単体でも強い妖魔だったが、さらに厄介なことに群れる性質がある。特に強い個体がボスになり、徒党を組んで結界を破るのだ。

 夜刀はゾワッと鳥肌が立った。

 神喰の群れは人間を襲うことを好み、甚大な被害をもたらすとされている。

 はらはらと雪が舞う中、夜刀は妖魔を片っ端から斬り捨てていった。

 しかし、妖魔は死ぬと泥のようになり、刀にこびりついてしまうため普通の刀ではだんだん切れ味が悪くなっていくのだ。

 その隙を狙われ、なんとか回避したものの、雪で滑り足をひねってしまった。

 幸い、父が率いる妖魔討伐隊がすぐに追いついた。しかし……。

 「夜刀。その足では足手まといだ。後方での待機を命じる」

 復帰を望む夜刀に、父は冷たい銀色の瞳で見据えた。

 「待ってください! 俺の大事な人がこの近くに住んでいるんです。助けに行くって、約束しているんです!」

 「ダメだ」

 「そんな……」

 ガクッと膝をついた夜刀の肩に、父は手を置いた。

 「代わりに、私が行こう」

 悔しさをぐっと呑み込み、夜刀は父に頭を下げた。

 「……よろしくお願いします」

 「ああ。任せておきなさい。……絶対に助ける」

 肩に置かれた父の手は温かく、まだ経験の浅い夜刀よりずっと立派で力強かった。

 父に任せれば大丈夫。夜刀はそう信じていたのだが……。

 「大変です! 黒須隊長が……っ!」

 後方の医療部隊に深い傷を負った父が担ぎ込まれた。

 父は体中に深い傷を多数負いながらも、神喰の群れを殲滅(せんめつ)したようだった。結界も修復され、危機は去った。犠牲者も出てしまったそうだが、父のおかげで被害は最小限に済んだ。

 きっとあの子も無事だと、夜刀も思っていた。

 しかし朝になり夜刀が見たのは、無残に破壊し尽くされたあの少女の家だった。

 どれだけの数の妖魔が襲ったのだろうか。建物は半壊し、戸はおろか壁がなくなった箇所すらある。外からでも荒らされた室内が見えているような惨状だった。

 さらには、妖魔に襲われた人の(おびただ)しい血痕が生々しく残され、降り続く雪が白く覆い隠していく。夜刀は体から力が抜け、その場に膝をついた。世界から色が消えてしまった気がした。

 あの少女は生きている可能性もあったが、夜刀はどうしても犠牲者リストを直視できなかった。

 不幸はそれだけに留まらない。父の怪我は周囲が思っていたよりずっとひどかったのだ。

 この怪我ではもう長くはないと宣告され、夜刀は心が深く傷ついたまま戦神の刀を継承することになってしまった。

 鏡に映る夜刀の瞳は、かつての父と同じ銀色に変わっていた。

 夜刀の記憶はそこまでで、それ以降は眠ると消えてしまうようになった。

 もっと強ければ、あの時怪我をしなければ、あの少女を救えたかもしれない。父も亡くさずに済んだのかもしれないと、いつもそんな悔いばかりが夜刀の心を占めていた。

 しかし、夜刀は見つけたのだ。