黒須邸はとんでもない豪邸だった。
まず、紗良が寝かされていた場所は母屋ではなく離れで、夜刀は子供の頃からこの離れを丸ごと与えられ自分の部屋として過ごしていたらしい。しかも離れとはいえ、織井家の母屋と同じくらいの広さがある。織井家も相当な豪邸だと思っていたが、敷地の広さは比べものにならない。
さらに母屋はといえば、和洋折衷のあまりにも豪華な造りで、紗良の貧弱な語彙では『お城みたいな』としか表現しようがなかった。
敷地内には蔵が複数、庭も種類別にいくつかあり、お客様が泊まるための別邸もひとつやふたつではなく、使用人たちの住む大きな寮まであった。
あまりのすごさに、軽く説明をされただけで紗良は頭がくらくらしてしまう。
好きな場所を自分の部屋にしていいと言われたが、選べるはずがない。
「どこも気に入らなければ、新しく建てても構わない。洋館はどうだ?」
「い、いえ、とんでもないです!」
予想を超える夜刀の提案に、紗良は慌てて首を横に振った。
夜刀の隣の部屋にすると決めれば、数人の使用人が集まって作業を始めた。
「本当によかったのか? 紗良から見たら面白味はないだろう」
「そんなことありません。いいお部屋だと思いますよ」
離れの中はきちんと清掃されていて、どこにいても畳の青々とした匂いが心地いい。
夜刀の部屋は家具が少なく、日記を書くための文机と立派な刀掛けがある。飾り気はないが夜刀らしいと感じる部屋だ。
掃き出し窓からは広々とした庭が見え、直接庭に降りられるようになっていた。庭の片隅に木刀や巻藁もあるので、鍛錬場も兼ねているのだろう。
「紗良様、お部屋のご用意が調いました」
「あ、ありがとうございます」
あっという間に、夜刀の部屋の隣に紗良の部屋が用意された。
「見てみよう」
「はい」
部屋の大きさなどは夜刀の部屋とほぼ同じだった。箪笥や鏡台などの家具が置かれているだけで雰囲気が変わる。箪笥には手に取るのもためらうような綺麗な着物がたくさん収納され、他にも生活に必要そうなものは一通り揃っていた。
それらを主に用意してくれたのは、黒須家の家事取締である葵だった。
スラリとした長身にボブカットで、黒いシックなロングワンピースに純白のエプロンを纏い、いかにも仕事ができそうな雰囲気を醸し出している。
皺や白髪がいっさいないからせいぜい二十代半ばから後半くらいに見えるのに、大勢の使用人に指示を出す立場であり、またどこか達観した雰囲気からすると、ずっと年上にも感じる不思議な女性だ。
今もつかず離れずの距離で、ピシッと背筋が伸びた美しい立ち姿を保っていた。
「紗良様、ご入用のものはございますか?」
「あ、あの、掃除用具はどこにありますか……?」
どこもかしこも綺麗すぎて汚してしまうのが怖くなり、おそるおそる尋ねた。
「どこか汚れが気になりましたか?」
「ち、違います。こんなに素敵な部屋ですから、汚さないよう毎日お掃除をしないとって思いまして……」
紗良はやっとのことでそう告げる。
しかし、おかしなことを言ってしまったのだろうか、葵は首を傾げている。
「紗良、掃除は担当の使用人が毎日行う。もし汚してしまった場合も頼めばすぐに掃除してくれるから、自分でやる必要はない」
「あ……そ、そうですよね」
夜刀の指摘に紗良は話が噛み合っていなかったことに気づき、頬が熱くなるのを感じた。織井家で家事をするのが当たり前になっており、これからは自分がお世話される立場になるのをうっかり失念していたのだ。
「す、すみません。変なことを言ってしまって」
「構いません。もし触れられたくないものがありましたらお申しつけください。他にも掃除の仕方でもなんでもお望みがあれば、そのようにいたします。紗良様に満足していただくのがわたくしの仕事でございますから。本日は急でしたので紗良様の好みを伺えませんでした。ご迷惑をおかけいたしますが、なにかありましたらお聞かせください」
「そうだ。遠慮しないでいい。なにか欲しいものはないのか?」
夜刀も優しく聞いてくれたけれど、紗良はこれまで欲しいものなど考えたことがなかった。
「えーと、えーと……」
頭が混乱する紗良だったが、ようやくひとつ考えついた。
「む、無理かもしれませんが、ひとつだけ。織機を用意していただけたら……」
「紗良、もう無理して守布を織る必要はないんだ」
「いいえ、私がやりたいだけです。機織り自体は好きですし、私が織った守布で、夜刀さんを守ってあげられたらと……」
織機は場所を取るし、織っている時は音も出る。難しいだろうかと思ったが、夜刀は快諾してくれた。
「紗良がやりたいのなら構わないよ。織機や糸の調達は、織井の当主殿に頼んでおこう」
「ありがとうございます。あ、そうだ織女神様の神棚を忘れていました。それから、裁縫道具と裁縫机もあると……。ひとつって言ったのに、後からいくつも出してしまってすみません」
混乱しわたわたと慌てる紗良を見て、葵はクスッと笑った。
表情が変化しないのにおかしなそぶりをして、滑稽だと思われたのだろうか。
そう不安になった紗良だったが、葵は長身の体を少し屈ませ、紗良と視線を合わせてくれた。
「慌てなくても大丈夫ですよ。いつでも思いついた際にお伺いします。それだけでなく、紗良様の好きな食べ物、好きな色など、なんでもいいですから好みも教えてくださいませ」
「あ、ありがとうございます……!」
紗良はホッと胸を押さえた。
「可愛らしい方ですね。さすが夜刀様が選ばれた方です」
「そうだろう」
夜刀と葵に微笑みながら見つめられ、紗良はドギマギして胸の前で両手を握りしめた。
「か、可愛くはないです。私、表情も変わりませんし……」
ずっと能面のようで薄気味悪いと言われ続けていたし、笑顔になれない紗良は可愛さとは対極にあるのではないだろうか。
そう考えた紗良に、夜刀だけでなく葵も首を横に振った。
「とんでもない! 紗良様は外見も中身も、とても可愛らしいですよ! しかも外見は磨けば磨くほど、宝石のように輝くのは間違いありません!」
力いっぱいそう主張され、紗良はますます恥ずかしい。
「宝石か……俺は花のようだと思う」
「花もお似合いになりますね。窓から季節の花々を眺められるよう、庭師に植えてもらいましょう。花と紗良様の組み合わせは素晴らしいでしょうから」
「いい案だ」
ふたりは楽しげに紗良の話で盛り上がっている。
「や、やめてください。柄でもないし恥ずかしいです……」
「まあ、紗良様。言っておきますが、奥様はもっとすごいですよ」
「ああ。覚悟していてくれ」
どういうことなのだろうと紗良は緊張に胸を押さえた。
その後、紗良は夜刀の母、万智に挨拶をした。
万智は夜刀とよく似た烏の濡れ羽色をした黒髪が美しく、母というより姉でも通じそうなほど若々しい美人だった。
紗良の顔はいつも通り無表情のままだが、心臓は緊張で激しく音を立てている。
「ようこそ、紗良さん。夜刀の母の黒須万智です」
「は、はじめまして。織井紗良と申します」
紗良は手をつき、深々と頭を下げた。
「紗良さん、これまで大変だったと伺っています。今日からここが貴方の家ですからね。気兼ねせず、ゆっくり過ごしてちょうだいね」
万智は安心させるように微笑んだ。笑うと目尻に皺が浮かび、親しみやすい雰囲気になる。
歓迎されているのが伝わり、紗良はホッと息を吐いた。
夜刀の方から紗良に関してあらかじめ説明をしてくれたそうだが、どうしても自分の口から言いたい。紗良は意を決して口を開いた。
「あの……愛想がなくて申し訳ありません。この通り、私は表情が出ないものですから、ご迷惑もおかけすると思うのですが……」
「ねえ、ちょっと顔を見せてくれるかしら」
「えっ?」
突然、万智が紗良に近寄り、顔を上げさせた。顔を両手で挟まれ、逃げることもできないまま、じっと目を見つめられる。
銀色の瞳の夜刀と違い、黒い瞳ではあるが、まっすぐに向けてくる視線はよく似ている気がする。
「うん、綺麗な目をしているわね。大丈夫!」
そのままギュッと抱きしめられ、なんなら頬擦りまでされている。万智からはいい香りがして、ベタベタされるのが嫌というわけではない。ただ、どう反応すればいいのかわからない。夜刀も距離感が近いが、万智はそれ以上だ。
戸惑いに固まった紗良から、夜刀は慌てて万智を引き剥がした。
「母がすまない。悪い人ではないんだが」
夜刀は困ったように口ごもる。
「いきなりごめんなさい。でも、紗良さんがいい子だっていうのはひと目でわかったわ。夜刀が選んだ子だからあまり心配はしてなかったけどね」
「母上、紗良が困惑していますよ。あまり変なことはしないでください」
夜刀は呆れているような言い方だったが、それだけではない。声の中に家族のぬくもりや情がこもっているのを紗良は感じた。
「いえ、歓迎されているのが伝わって嬉しいです。それに、夜刀さんに似ているなって、ちょっと思いました」
「まあ、嬉しい。こんな可愛い子を見つけるなんて、さすが夜刀ね。紗良ちゃんって呼んでいいかしら。私のことは……お義母さんって呼ぶにはまだ早いわよね、万智さんでどうかしら。ねえ疲れたでしょう、お茶にしない? 紅茶にコーヒーもあるのよ。紗良ちゃんはどんなお茶菓子が好みかしら。洋風? 和風? それとも果物の方がいい? 私ね、紗良ちゃんとお話ししたい内容がたくさんあって――」
目まぐるしい勢いでしゃべり出す万智に圧倒されてしまう。
夜刀と葵がすごいと話していた理由がわかった気がした。
目を回す寸前の紗良を庇うように、万智との間に夜刀が割って入る。
「母上、俺の紗良ですからね」
「まあ、嫉妬深いんだから。取ったりなんてしませんよ。……でも私、紗良ちゃんを気に入ったわ。また後でたくさんお話ししましょうね」
万智はぱちんと片目を閉じ、紗良に目配せをしたのだった。
それから、広すぎる敷地内を見て回ったり、万智に質問責めにされながら食事をしたりと、慌ただしくも幸せな時間が過ぎていく。
黒須家は風呂場も広かった。檜の浴槽に至っては、紗良が織井家で過ごしていた部屋くらいの大きさがあり、落ち着かない。
紗良は浴槽の隅っこでお湯を掬い取りながら、今日の出来事に思いを馳せていた。
本当に目まぐるしい一日だった。
(こんなに幸せでいいのかしら……)
ちゃぷ、とお湯が揺れる。水面に映る自分の顔はやっぱり能面のようだ。
今だって幸せに感じているのに、まったく顔が変わらず、作り笑いすらできない。
こんな紗良を夜刀がなぜ大切にしてくれるのか、どうしてもわからないのだった。
まず、紗良が寝かされていた場所は母屋ではなく離れで、夜刀は子供の頃からこの離れを丸ごと与えられ自分の部屋として過ごしていたらしい。しかも離れとはいえ、織井家の母屋と同じくらいの広さがある。織井家も相当な豪邸だと思っていたが、敷地の広さは比べものにならない。
さらに母屋はといえば、和洋折衷のあまりにも豪華な造りで、紗良の貧弱な語彙では『お城みたいな』としか表現しようがなかった。
敷地内には蔵が複数、庭も種類別にいくつかあり、お客様が泊まるための別邸もひとつやふたつではなく、使用人たちの住む大きな寮まであった。
あまりのすごさに、軽く説明をされただけで紗良は頭がくらくらしてしまう。
好きな場所を自分の部屋にしていいと言われたが、選べるはずがない。
「どこも気に入らなければ、新しく建てても構わない。洋館はどうだ?」
「い、いえ、とんでもないです!」
予想を超える夜刀の提案に、紗良は慌てて首を横に振った。
夜刀の隣の部屋にすると決めれば、数人の使用人が集まって作業を始めた。
「本当によかったのか? 紗良から見たら面白味はないだろう」
「そんなことありません。いいお部屋だと思いますよ」
離れの中はきちんと清掃されていて、どこにいても畳の青々とした匂いが心地いい。
夜刀の部屋は家具が少なく、日記を書くための文机と立派な刀掛けがある。飾り気はないが夜刀らしいと感じる部屋だ。
掃き出し窓からは広々とした庭が見え、直接庭に降りられるようになっていた。庭の片隅に木刀や巻藁もあるので、鍛錬場も兼ねているのだろう。
「紗良様、お部屋のご用意が調いました」
「あ、ありがとうございます」
あっという間に、夜刀の部屋の隣に紗良の部屋が用意された。
「見てみよう」
「はい」
部屋の大きさなどは夜刀の部屋とほぼ同じだった。箪笥や鏡台などの家具が置かれているだけで雰囲気が変わる。箪笥には手に取るのもためらうような綺麗な着物がたくさん収納され、他にも生活に必要そうなものは一通り揃っていた。
それらを主に用意してくれたのは、黒須家の家事取締である葵だった。
スラリとした長身にボブカットで、黒いシックなロングワンピースに純白のエプロンを纏い、いかにも仕事ができそうな雰囲気を醸し出している。
皺や白髪がいっさいないからせいぜい二十代半ばから後半くらいに見えるのに、大勢の使用人に指示を出す立場であり、またどこか達観した雰囲気からすると、ずっと年上にも感じる不思議な女性だ。
今もつかず離れずの距離で、ピシッと背筋が伸びた美しい立ち姿を保っていた。
「紗良様、ご入用のものはございますか?」
「あ、あの、掃除用具はどこにありますか……?」
どこもかしこも綺麗すぎて汚してしまうのが怖くなり、おそるおそる尋ねた。
「どこか汚れが気になりましたか?」
「ち、違います。こんなに素敵な部屋ですから、汚さないよう毎日お掃除をしないとって思いまして……」
紗良はやっとのことでそう告げる。
しかし、おかしなことを言ってしまったのだろうか、葵は首を傾げている。
「紗良、掃除は担当の使用人が毎日行う。もし汚してしまった場合も頼めばすぐに掃除してくれるから、自分でやる必要はない」
「あ……そ、そうですよね」
夜刀の指摘に紗良は話が噛み合っていなかったことに気づき、頬が熱くなるのを感じた。織井家で家事をするのが当たり前になっており、これからは自分がお世話される立場になるのをうっかり失念していたのだ。
「す、すみません。変なことを言ってしまって」
「構いません。もし触れられたくないものがありましたらお申しつけください。他にも掃除の仕方でもなんでもお望みがあれば、そのようにいたします。紗良様に満足していただくのがわたくしの仕事でございますから。本日は急でしたので紗良様の好みを伺えませんでした。ご迷惑をおかけいたしますが、なにかありましたらお聞かせください」
「そうだ。遠慮しないでいい。なにか欲しいものはないのか?」
夜刀も優しく聞いてくれたけれど、紗良はこれまで欲しいものなど考えたことがなかった。
「えーと、えーと……」
頭が混乱する紗良だったが、ようやくひとつ考えついた。
「む、無理かもしれませんが、ひとつだけ。織機を用意していただけたら……」
「紗良、もう無理して守布を織る必要はないんだ」
「いいえ、私がやりたいだけです。機織り自体は好きですし、私が織った守布で、夜刀さんを守ってあげられたらと……」
織機は場所を取るし、織っている時は音も出る。難しいだろうかと思ったが、夜刀は快諾してくれた。
「紗良がやりたいのなら構わないよ。織機や糸の調達は、織井の当主殿に頼んでおこう」
「ありがとうございます。あ、そうだ織女神様の神棚を忘れていました。それから、裁縫道具と裁縫机もあると……。ひとつって言ったのに、後からいくつも出してしまってすみません」
混乱しわたわたと慌てる紗良を見て、葵はクスッと笑った。
表情が変化しないのにおかしなそぶりをして、滑稽だと思われたのだろうか。
そう不安になった紗良だったが、葵は長身の体を少し屈ませ、紗良と視線を合わせてくれた。
「慌てなくても大丈夫ですよ。いつでも思いついた際にお伺いします。それだけでなく、紗良様の好きな食べ物、好きな色など、なんでもいいですから好みも教えてくださいませ」
「あ、ありがとうございます……!」
紗良はホッと胸を押さえた。
「可愛らしい方ですね。さすが夜刀様が選ばれた方です」
「そうだろう」
夜刀と葵に微笑みながら見つめられ、紗良はドギマギして胸の前で両手を握りしめた。
「か、可愛くはないです。私、表情も変わりませんし……」
ずっと能面のようで薄気味悪いと言われ続けていたし、笑顔になれない紗良は可愛さとは対極にあるのではないだろうか。
そう考えた紗良に、夜刀だけでなく葵も首を横に振った。
「とんでもない! 紗良様は外見も中身も、とても可愛らしいですよ! しかも外見は磨けば磨くほど、宝石のように輝くのは間違いありません!」
力いっぱいそう主張され、紗良はますます恥ずかしい。
「宝石か……俺は花のようだと思う」
「花もお似合いになりますね。窓から季節の花々を眺められるよう、庭師に植えてもらいましょう。花と紗良様の組み合わせは素晴らしいでしょうから」
「いい案だ」
ふたりは楽しげに紗良の話で盛り上がっている。
「や、やめてください。柄でもないし恥ずかしいです……」
「まあ、紗良様。言っておきますが、奥様はもっとすごいですよ」
「ああ。覚悟していてくれ」
どういうことなのだろうと紗良は緊張に胸を押さえた。
その後、紗良は夜刀の母、万智に挨拶をした。
万智は夜刀とよく似た烏の濡れ羽色をした黒髪が美しく、母というより姉でも通じそうなほど若々しい美人だった。
紗良の顔はいつも通り無表情のままだが、心臓は緊張で激しく音を立てている。
「ようこそ、紗良さん。夜刀の母の黒須万智です」
「は、はじめまして。織井紗良と申します」
紗良は手をつき、深々と頭を下げた。
「紗良さん、これまで大変だったと伺っています。今日からここが貴方の家ですからね。気兼ねせず、ゆっくり過ごしてちょうだいね」
万智は安心させるように微笑んだ。笑うと目尻に皺が浮かび、親しみやすい雰囲気になる。
歓迎されているのが伝わり、紗良はホッと息を吐いた。
夜刀の方から紗良に関してあらかじめ説明をしてくれたそうだが、どうしても自分の口から言いたい。紗良は意を決して口を開いた。
「あの……愛想がなくて申し訳ありません。この通り、私は表情が出ないものですから、ご迷惑もおかけすると思うのですが……」
「ねえ、ちょっと顔を見せてくれるかしら」
「えっ?」
突然、万智が紗良に近寄り、顔を上げさせた。顔を両手で挟まれ、逃げることもできないまま、じっと目を見つめられる。
銀色の瞳の夜刀と違い、黒い瞳ではあるが、まっすぐに向けてくる視線はよく似ている気がする。
「うん、綺麗な目をしているわね。大丈夫!」
そのままギュッと抱きしめられ、なんなら頬擦りまでされている。万智からはいい香りがして、ベタベタされるのが嫌というわけではない。ただ、どう反応すればいいのかわからない。夜刀も距離感が近いが、万智はそれ以上だ。
戸惑いに固まった紗良から、夜刀は慌てて万智を引き剥がした。
「母がすまない。悪い人ではないんだが」
夜刀は困ったように口ごもる。
「いきなりごめんなさい。でも、紗良さんがいい子だっていうのはひと目でわかったわ。夜刀が選んだ子だからあまり心配はしてなかったけどね」
「母上、紗良が困惑していますよ。あまり変なことはしないでください」
夜刀は呆れているような言い方だったが、それだけではない。声の中に家族のぬくもりや情がこもっているのを紗良は感じた。
「いえ、歓迎されているのが伝わって嬉しいです。それに、夜刀さんに似ているなって、ちょっと思いました」
「まあ、嬉しい。こんな可愛い子を見つけるなんて、さすが夜刀ね。紗良ちゃんって呼んでいいかしら。私のことは……お義母さんって呼ぶにはまだ早いわよね、万智さんでどうかしら。ねえ疲れたでしょう、お茶にしない? 紅茶にコーヒーもあるのよ。紗良ちゃんはどんなお茶菓子が好みかしら。洋風? 和風? それとも果物の方がいい? 私ね、紗良ちゃんとお話ししたい内容がたくさんあって――」
目まぐるしい勢いでしゃべり出す万智に圧倒されてしまう。
夜刀と葵がすごいと話していた理由がわかった気がした。
目を回す寸前の紗良を庇うように、万智との間に夜刀が割って入る。
「母上、俺の紗良ですからね」
「まあ、嫉妬深いんだから。取ったりなんてしませんよ。……でも私、紗良ちゃんを気に入ったわ。また後でたくさんお話ししましょうね」
万智はぱちんと片目を閉じ、紗良に目配せをしたのだった。
それから、広すぎる敷地内を見て回ったり、万智に質問責めにされながら食事をしたりと、慌ただしくも幸せな時間が過ぎていく。
黒須家は風呂場も広かった。檜の浴槽に至っては、紗良が織井家で過ごしていた部屋くらいの大きさがあり、落ち着かない。
紗良は浴槽の隅っこでお湯を掬い取りながら、今日の出来事に思いを馳せていた。
本当に目まぐるしい一日だった。
(こんなに幸せでいいのかしら……)
ちゃぷ、とお湯が揺れる。水面に映る自分の顔はやっぱり能面のようだ。
今だって幸せに感じているのに、まったく顔が変わらず、作り笑いすらできない。
こんな紗良を夜刀がなぜ大切にしてくれるのか、どうしてもわからないのだった。
