紗良は薄く目を開いたが、目の前がぼんやり滲んでいて、よく見えない。
「あれ……私……」
自分がそれまでなにをしていたのか、よく思い出せなかった。
何度か瞬きをするにつれ、次第に視界が明瞭になっていく。改めて目を開くと、夜刀の銀色の瞳が心配そうに覗き込んでいた。
「紗良……目が覚めたのか」
夜刀にそう言われ、綾子の鼻血を見て倒れてしまったのだと記憶が蘇った。
紗良は三年前の事件以来、血が苦手だった。気分が悪くなるのはしょっちゅうだったが、倒れてしまったのは肉体的にも精神的にも疲労していたからかもしれない。
「す、すみません。ご迷惑をおかけしてしまって……」
「気にするな。顔色も少しよくなったみたいだな」
夜刀は微笑み、紗良の頬に触れた。
「あの、ここは?」
紗良は上体を起こし、周囲を見回した。見覚えのない和室は織井家ではないことだけは確かだ。
「ここは俺の家だ」
「夜刀様の……」
「ああ。もう織井家に戻らなくていい。これからはここが紗良の居場所だから」
(私の居場所……)
胸の奥で、ぎゅうぎゅうに押し込められていた感情がゆっくりとほどけていく。
三年前に、紗良はなにもかもを失ってしまった。両親、家、そして記憶と表情すらも。
織井家には気が休まる場所は機織り小屋の他になかった。夏は汗が噴き出すほど暑くなり、冬は手足が凍えたあの機織り小屋で、紗良はいつもひとりだった。
いや、織井家では周囲に人がいた時でもずっと孤独だった。やることが山積みで、誰にも感情を理解してもらえなくて、すべてを諦めていた。
そんな日々に疲れ果て、それでも他に行く場所なんてなかった。
(そうだ。私……居場所が欲しかったんだ)
ここにいていいんだと、誰かに言ってほしかった。
紗良は、自分に向かって柔らかく細められた銀色の瞳を見上げる。
ここを居場所にさせてもらえたなら、きっと幸せになれるだろう。
しかし、すぐに俯いて、ろくに動かない自分の頬に触れる。
夜刀は毎日記憶がリセットされてしまうせいで、これまで紗良が一度も泣いたり笑ったりしないと気づかなかったのだろう。
けれど、いつまでも黙っていられるものでもない。正直に話さなければ。
伯父に話してもまともに受け取られず呆れられてしまったように、信じてもらえるとは限らない。仮に信じてもらえたとしても、結婚したくないと言われてしまうかもしれない。
紗良は夜刀がくれた櫛を取り出し、ギュッと握り込む。
この櫛を返す結果になるのかも、というためらいはあったが、意を決して口を開いた。
「……私、ずっと言わなければいけないのに、黙っていました」
紗良がこうして夜刀の銀色の瞳を見るのも最後になってしまうかもしれない。惜しむように目に焼きつけながら切り出した。
「私は……笑えないんです」
今も、話すために口を動かす以外、紗良の表情筋はピクリともしない。
能面みたいな紗良は氷の織姫と呼ばれている。自分でも鏡を見るたび、水面に姿が映るたびに、そう思っていた。薄気味悪いと蔑まれるのも仕方がないと諦めていた。
「でも、なにも感じないわけではありません」
ずっとずっと、つらかったし、苦しかった。
「さっきも、訳もわからず責められて、怖くて泣きたかった。でも、涙は出ないし、表情を動かせなかった。綾子さんみたいに、心のままに泣くことも怒ることもできないんです。三年前からずっと……」
夜刀の銀色の瞳が大きく見開かれた。
「三年前……?」
「私は三年前に妖魔に襲われたのだそうです。家は村外れの結界の近くにあって、一緒にいた両親は助からず、私ひとりが生き残って……。でも、私は両親の死について覚えていません。妖魔に襲われてなにがあったかも覚えていなくて、どこか他人事みたいなんです。襲ってきた妖魔の姿も、あの日なにが起きたのかも。それどころか、両親の顔や思い出まで朧げになってしまって……」
三年前について言及したせいだろうか、紗良のこめかみにズキッと痛みが走る。それでも、眉をひそめすらできない能面のままだ。
「こんな私では夜刀様にふさわしくないのはわかっています。ですから、覚えていないかもしれませんが、顔合わせの日に夜刀様からいただいたこの櫛を、お返ししなければ、と……」
痛みで血の気が引き、また意識を失ってしまいそうだ。
ぐらっと傾いだ紗良の肩を、夜刀が受け止めた。
「ずっとひとりで耐えていたのか。つらかったな」
しっかりと紗良を支える夜刀の腕と優しさの滲む声に、紗良は息を呑んだ。
どうして、夜刀は紗良の欲しい言葉がわかるのだろう。
ずっと、誰かに『つらかったね』と声をかけてもらいたかった。
諦めの日々を過ごすうちに顔だけでなく少しずつ凍りつきかけていた心が、じわじわと溶けていく気がした。
「安心してほしい。俺はなにがあっても君を手放すつもりはない」
けれど夜刀は、加護持ちの家柄の中でも別格だというのは紗良も察していた。織井家の当主である伯父があそこまで腰を低くするほどの家柄なのだ。
「でも、笑えない私では、夜刀様にご迷惑をかけてしまいます……」
これまでだって散々迷惑をかけてしまったのに、これからも迷惑をかけ続けてしまう。そう訴えた紗良の頬を夜刀は包み込む。
「紗良のことで迷惑なんて思ったことはない。それに、好きな子にかけられる迷惑なら、喜んで受け入れる」
「え……」
好きな子、と言ったのだろうか。紗良の心臓がひときわ大きく高鳴った。
「俺はどんな紗良でも愛している」
夜刀の顔が近づき、銀色の瞳がまっすぐに紗良を射抜くと、不思議なことにあんなにも痛んでいたこめかみからすうっと痛みが引いた。
「紗良は俺の記憶が一日しか保たない体質なのは嫌だろうか。こうして話した内容も明日には忘れてしまう。そんな俺が嫌か?」
「そんなはずありません!」
だって、夜刀はずっと優しかった。あの雪の日も、顔合わせの日も、そして今も。
紗良を見つめる目の煌めきも微笑み方も同じで、記憶がなくなっても夜刀が夜刀であることには変わらない。
許されるなら夜刀のそばにいたい。
この気持ちは未成熟で、なんと呼べばいいのか、今はまだわからない。それでも、心臓がドキドキと音を立て、頬が熱くなるのは確かだった。
「俺も同じだ。紗良が笑わなくても、泣けなくても……つらい記憶を忘れてしまっていても、紗良は紗良。俺はそのままの君を愛している」
微笑む夜刀の姿に、紗良の体中に温かい熱が広がっていく。
「紗良が織女神の加護を持つから結婚したいんじゃない。俺が君という存在を望んでいる。だから、結婚してほしい」
夜刀は紗良が握っていた手を開かせ、つげ櫛を手に取ると、もう一度紗良に差し出した。
「もちろん今すぐにではない。君の記憶に関しても、治療をすればよくなるかもしれないし、結婚もゆっくり準備をする形で構わない。俺を受け入れてくれるなら、もう一度、この櫛を受け取ってほしい」
紗良はおずおずと手を伸ばし、櫛を受け取る。
「……ありがとう、紗良」
夜刀は紗良をそっと引き寄せ、抱きしめた。
「夜刀様……」
「様はやめてくれないかな」
「ええと……では、夜刀さん……」
「ああ。嬉しいよ」
そう呼ぶのは恥ずかしいが、心の距離も近くなった気がして嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
夜刀は紗良が意識を失っていた間に、すべての段取りを整えてくれたらしい。
気絶してしまった紗良は念のため医師の立花から診察を受け、問題なしと結果が出てから、改めて綾子たちがどうなったかの説明を聞くことになった。
綾子は、紗良の守布を搾取していたことや、これまでひどい扱いをしていたとすべて認めたそうだ。
「織井の当主殿には、これまで紗良が奪われてきた守布の対価を支払い、娘の再教育をすると約束させている。だが、紗良が望むなら、加護を持つ家に与えられる特権をすべて剥奪してもいい」
なんでも、織女神の加護持ちで守布を供出していた織井家には、国からさまざまな特権が与えられていたのだという。つまり、特権の剥奪は実質上の取り潰しなのだろう。
しかし、紗良は首を横に振った。
「いえ、そこまでは望みません」
「なぜだ。あんなにもつらい目にあったのに」
目を伏せた紗良はこの三年間を思い返す。
「つらいと感じたことはもちろんありましたが……それでも、両親を失ってどこにも行く場所がなかった私を引き取ってくれました。それも使用人としてではなく、きちんと籍を入れた養子として」
「だが、君は彼らが贅沢をする傍ら、使用人同然……いやそれ以下の扱いだった」
けれど、養子であっても織井家の一員だったからこそ、こうして夜刀と出会うきっかけが与えられたのだ。紗良にはそれだけでじゅうぶんに思えた。
伯母や綾子、紗良に冷たかった使用人たちには、まだ胸の中にしこりのように残っていたが、これからは夜刀のそばにいられるという幸せの方がずっと大きかった。
「それに、伯父様が厳しかったのは、守布のために心を砕いていたせいでもあります。全部が私利私欲のためだったわけではありません」
織女神の加護持ちの家系はいくつかあったが、中でも織井家は国内でトップレベルだった。村ぐるみで良質な桑畑を用意し、特別な蚕の育成や紡糸、さらに染色や仕立てなども含めれば、村だけでなく、周辺でもなくてはならない産業になっている。織井家がなくなれば、近隣住民も生活が成り立たなくなってしまうだろう。
「私の表情が出ない話や記憶の欠落を理解してもらえなかったのも、医療の知識がなければ仕方ありません」
立花の診察を受けた際に説明を受けたのだが、紗良のようにつらい目にあった後、同様の症状になることは少なくないらしい。
「……わかった。紗良がそれで構わないのなら。だが、どうしても許せない仕打ちを思い出したら、いつでも伝えてくれ」
「私は、夜刀さんがそう言ってくれるだけで、満足です」
こうして紗良は正式に夜刀の婚約者として、黒須家に住むことになったのだった。
「あれ……私……」
自分がそれまでなにをしていたのか、よく思い出せなかった。
何度か瞬きをするにつれ、次第に視界が明瞭になっていく。改めて目を開くと、夜刀の銀色の瞳が心配そうに覗き込んでいた。
「紗良……目が覚めたのか」
夜刀にそう言われ、綾子の鼻血を見て倒れてしまったのだと記憶が蘇った。
紗良は三年前の事件以来、血が苦手だった。気分が悪くなるのはしょっちゅうだったが、倒れてしまったのは肉体的にも精神的にも疲労していたからかもしれない。
「す、すみません。ご迷惑をおかけしてしまって……」
「気にするな。顔色も少しよくなったみたいだな」
夜刀は微笑み、紗良の頬に触れた。
「あの、ここは?」
紗良は上体を起こし、周囲を見回した。見覚えのない和室は織井家ではないことだけは確かだ。
「ここは俺の家だ」
「夜刀様の……」
「ああ。もう織井家に戻らなくていい。これからはここが紗良の居場所だから」
(私の居場所……)
胸の奥で、ぎゅうぎゅうに押し込められていた感情がゆっくりとほどけていく。
三年前に、紗良はなにもかもを失ってしまった。両親、家、そして記憶と表情すらも。
織井家には気が休まる場所は機織り小屋の他になかった。夏は汗が噴き出すほど暑くなり、冬は手足が凍えたあの機織り小屋で、紗良はいつもひとりだった。
いや、織井家では周囲に人がいた時でもずっと孤独だった。やることが山積みで、誰にも感情を理解してもらえなくて、すべてを諦めていた。
そんな日々に疲れ果て、それでも他に行く場所なんてなかった。
(そうだ。私……居場所が欲しかったんだ)
ここにいていいんだと、誰かに言ってほしかった。
紗良は、自分に向かって柔らかく細められた銀色の瞳を見上げる。
ここを居場所にさせてもらえたなら、きっと幸せになれるだろう。
しかし、すぐに俯いて、ろくに動かない自分の頬に触れる。
夜刀は毎日記憶がリセットされてしまうせいで、これまで紗良が一度も泣いたり笑ったりしないと気づかなかったのだろう。
けれど、いつまでも黙っていられるものでもない。正直に話さなければ。
伯父に話してもまともに受け取られず呆れられてしまったように、信じてもらえるとは限らない。仮に信じてもらえたとしても、結婚したくないと言われてしまうかもしれない。
紗良は夜刀がくれた櫛を取り出し、ギュッと握り込む。
この櫛を返す結果になるのかも、というためらいはあったが、意を決して口を開いた。
「……私、ずっと言わなければいけないのに、黙っていました」
紗良がこうして夜刀の銀色の瞳を見るのも最後になってしまうかもしれない。惜しむように目に焼きつけながら切り出した。
「私は……笑えないんです」
今も、話すために口を動かす以外、紗良の表情筋はピクリともしない。
能面みたいな紗良は氷の織姫と呼ばれている。自分でも鏡を見るたび、水面に姿が映るたびに、そう思っていた。薄気味悪いと蔑まれるのも仕方がないと諦めていた。
「でも、なにも感じないわけではありません」
ずっとずっと、つらかったし、苦しかった。
「さっきも、訳もわからず責められて、怖くて泣きたかった。でも、涙は出ないし、表情を動かせなかった。綾子さんみたいに、心のままに泣くことも怒ることもできないんです。三年前からずっと……」
夜刀の銀色の瞳が大きく見開かれた。
「三年前……?」
「私は三年前に妖魔に襲われたのだそうです。家は村外れの結界の近くにあって、一緒にいた両親は助からず、私ひとりが生き残って……。でも、私は両親の死について覚えていません。妖魔に襲われてなにがあったかも覚えていなくて、どこか他人事みたいなんです。襲ってきた妖魔の姿も、あの日なにが起きたのかも。それどころか、両親の顔や思い出まで朧げになってしまって……」
三年前について言及したせいだろうか、紗良のこめかみにズキッと痛みが走る。それでも、眉をひそめすらできない能面のままだ。
「こんな私では夜刀様にふさわしくないのはわかっています。ですから、覚えていないかもしれませんが、顔合わせの日に夜刀様からいただいたこの櫛を、お返ししなければ、と……」
痛みで血の気が引き、また意識を失ってしまいそうだ。
ぐらっと傾いだ紗良の肩を、夜刀が受け止めた。
「ずっとひとりで耐えていたのか。つらかったな」
しっかりと紗良を支える夜刀の腕と優しさの滲む声に、紗良は息を呑んだ。
どうして、夜刀は紗良の欲しい言葉がわかるのだろう。
ずっと、誰かに『つらかったね』と声をかけてもらいたかった。
諦めの日々を過ごすうちに顔だけでなく少しずつ凍りつきかけていた心が、じわじわと溶けていく気がした。
「安心してほしい。俺はなにがあっても君を手放すつもりはない」
けれど夜刀は、加護持ちの家柄の中でも別格だというのは紗良も察していた。織井家の当主である伯父があそこまで腰を低くするほどの家柄なのだ。
「でも、笑えない私では、夜刀様にご迷惑をかけてしまいます……」
これまでだって散々迷惑をかけてしまったのに、これからも迷惑をかけ続けてしまう。そう訴えた紗良の頬を夜刀は包み込む。
「紗良のことで迷惑なんて思ったことはない。それに、好きな子にかけられる迷惑なら、喜んで受け入れる」
「え……」
好きな子、と言ったのだろうか。紗良の心臓がひときわ大きく高鳴った。
「俺はどんな紗良でも愛している」
夜刀の顔が近づき、銀色の瞳がまっすぐに紗良を射抜くと、不思議なことにあんなにも痛んでいたこめかみからすうっと痛みが引いた。
「紗良は俺の記憶が一日しか保たない体質なのは嫌だろうか。こうして話した内容も明日には忘れてしまう。そんな俺が嫌か?」
「そんなはずありません!」
だって、夜刀はずっと優しかった。あの雪の日も、顔合わせの日も、そして今も。
紗良を見つめる目の煌めきも微笑み方も同じで、記憶がなくなっても夜刀が夜刀であることには変わらない。
許されるなら夜刀のそばにいたい。
この気持ちは未成熟で、なんと呼べばいいのか、今はまだわからない。それでも、心臓がドキドキと音を立て、頬が熱くなるのは確かだった。
「俺も同じだ。紗良が笑わなくても、泣けなくても……つらい記憶を忘れてしまっていても、紗良は紗良。俺はそのままの君を愛している」
微笑む夜刀の姿に、紗良の体中に温かい熱が広がっていく。
「紗良が織女神の加護を持つから結婚したいんじゃない。俺が君という存在を望んでいる。だから、結婚してほしい」
夜刀は紗良が握っていた手を開かせ、つげ櫛を手に取ると、もう一度紗良に差し出した。
「もちろん今すぐにではない。君の記憶に関しても、治療をすればよくなるかもしれないし、結婚もゆっくり準備をする形で構わない。俺を受け入れてくれるなら、もう一度、この櫛を受け取ってほしい」
紗良はおずおずと手を伸ばし、櫛を受け取る。
「……ありがとう、紗良」
夜刀は紗良をそっと引き寄せ、抱きしめた。
「夜刀様……」
「様はやめてくれないかな」
「ええと……では、夜刀さん……」
「ああ。嬉しいよ」
そう呼ぶのは恥ずかしいが、心の距離も近くなった気がして嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
夜刀は紗良が意識を失っていた間に、すべての段取りを整えてくれたらしい。
気絶してしまった紗良は念のため医師の立花から診察を受け、問題なしと結果が出てから、改めて綾子たちがどうなったかの説明を聞くことになった。
綾子は、紗良の守布を搾取していたことや、これまでひどい扱いをしていたとすべて認めたそうだ。
「織井の当主殿には、これまで紗良が奪われてきた守布の対価を支払い、娘の再教育をすると約束させている。だが、紗良が望むなら、加護を持つ家に与えられる特権をすべて剥奪してもいい」
なんでも、織女神の加護持ちで守布を供出していた織井家には、国からさまざまな特権が与えられていたのだという。つまり、特権の剥奪は実質上の取り潰しなのだろう。
しかし、紗良は首を横に振った。
「いえ、そこまでは望みません」
「なぜだ。あんなにもつらい目にあったのに」
目を伏せた紗良はこの三年間を思い返す。
「つらいと感じたことはもちろんありましたが……それでも、両親を失ってどこにも行く場所がなかった私を引き取ってくれました。それも使用人としてではなく、きちんと籍を入れた養子として」
「だが、君は彼らが贅沢をする傍ら、使用人同然……いやそれ以下の扱いだった」
けれど、養子であっても織井家の一員だったからこそ、こうして夜刀と出会うきっかけが与えられたのだ。紗良にはそれだけでじゅうぶんに思えた。
伯母や綾子、紗良に冷たかった使用人たちには、まだ胸の中にしこりのように残っていたが、これからは夜刀のそばにいられるという幸せの方がずっと大きかった。
「それに、伯父様が厳しかったのは、守布のために心を砕いていたせいでもあります。全部が私利私欲のためだったわけではありません」
織女神の加護持ちの家系はいくつかあったが、中でも織井家は国内でトップレベルだった。村ぐるみで良質な桑畑を用意し、特別な蚕の育成や紡糸、さらに染色や仕立てなども含めれば、村だけでなく、周辺でもなくてはならない産業になっている。織井家がなくなれば、近隣住民も生活が成り立たなくなってしまうだろう。
「私の表情が出ない話や記憶の欠落を理解してもらえなかったのも、医療の知識がなければ仕方ありません」
立花の診察を受けた際に説明を受けたのだが、紗良のようにつらい目にあった後、同様の症状になることは少なくないらしい。
「……わかった。紗良がそれで構わないのなら。だが、どうしても許せない仕打ちを思い出したら、いつでも伝えてくれ」
「私は、夜刀さんがそう言ってくれるだけで、満足です」
こうして紗良は正式に夜刀の婚約者として、黒須家に住むことになったのだった。
