◇◇
「紗良!」
夜刀は腕の中でぐったりとしている紗良に何度も呼びかける。
医師の立花伶によれば、迷走神経反射による失神である可能性が高いようだった。
「少なくとも危険な状態ではなさそうです。ただ……」
立花は言葉を濁し、柔和な顔を曇らせた。
「紗良さんは疲労状態にあるように見えます。体だけでなく、心も……」
「ああ」
夜刀は腕に抱えた紗良を見下ろす。
顔色は真っ白だし、手首も痛々しいほど細く、体重も軽すぎる。もしかすると、あまり食べていないのかもしれない。
「あの……実は俺、綾子さんの部屋だけでなく、紗良さんの部屋も見せてもらったんですが……」
三枝藤吾が太い眉を困惑させるように寄せながら言った。
一歳年上の三枝は夜刀の部下だが、元々幼馴染で、私生活では親友だ。夜刀にとって、立花と三枝は信頼できる数少ない人間で、証言も信用に値する。
「なにがあった」
「あったというより、なにもなさすぎたんです。たった三畳しかない部屋で、布団と着替えくらいしかなく、私物も全然……若い女の子の部屋とは思えません……」
三枝には妹がいて、若い女の子の部屋というものを理解している。そんな三枝がそこまで言うほどの部屋だったのだろう。
夜刀はそれ以上聞く気にならなかった。
「当主殿、紗良への扱いはどういうことなんだ」
織井家の当主を見下ろすと、彼は視線をさまよわせた。
「さ、紗良の扱いは家内に任せていて……」
夜刀が当主の妻に視線を移せば、彼女はヒッと声をあげガタガタ震える。
聞くまでもなく、使用人同然の扱いをしていたのだろう。当主の妻や綾子と違い、紗良の手はひどく荒れている。いや、実際に使用人の方がよほど健康的に見えるくらいだ。
「家族ぐるみでひどい扱いをしてきたのか」
「ち、違うんです! あの子が自主的に家事をやって……」
「……お前たちは身寄りのない少女が養家で三畳の部屋に住み、なにも与えられず、こんなにぼろぼろになるまで自主的に働くと思えるのか。それならば、俺が黒須家の当主として織井家の特権を失くすよう取り計らったとしても、お前たちは国のために身を粉にしてでもこれまで通りに働くということだな?」
そう一気に捲し立て、睨みつけた。
神々の加護を持つ家には、国からさまざまな特権が与えられる。織井家もその特権を使い、裕福に暮らしてきたのだろう。広く立派な屋敷に住み、高価な着物からも察せられる。
しかし、さらに上位の加護を持つ黒須家の当主は、やろうと思えば彼らの特権を剥奪することもできるのだ。
夜刀の言葉に、当主たちの顔色がみるみる悪くなる。
「そ、それだけは……どうかお許しを!」
口々に言い訳をしているが、紗良に心から詫びようという態度はまったくない。
夜刀の体の内側から焼けるような怒りが湧き上がった。
「こんなところに紗良は置いておけない。このまま連れ帰る」
紗良を抱えたまま立ち去ろうとしたところで、足元に綾子がサッと飛び出し跪いた。
叩かれた頬は痛々しく腫れていたが、もう鼻血は止まったようだ。目に涙を浮かべ、夜刀を見上げる。
「夜刀様、ごめんなさい! 心から反省しましたから、どうかお許しください!」
「どけ」
夜刀が冷たくあしらっても綾子は夜刀の前を塞いで離れようとしない。あろうことか襟の合わせを広げ、浅ましい顔で夜刀の足に縋りついた。
「反省の証に、なんでもしますから! 愛人になっても構いません。ねえ、あたし、顔も体も悪くないと思うんです。紗良にはできないことだって――」
「お前になど興味はない。失せろ」
必死に夜刀を引き止めようとする綾子の言葉を遮る。
本気で目の前の娘などどうでもよかった。記憶のリセット前だったが、もう彼女の名前など頭にない。それより腕の中の紗良を一刻も早く安全な場所に寝かせてやりたい。
「おい、娘をどうにかしろ」
「は、はい! 綾子、いい加減にしないか!」
腰を低くした当主は綾子を引き剥がし、夜刀が通れるように道を開ける。
みっともなく着物の裾が捲れ上がった娘が足をジタバタさせて喚いていたが、もう夜刀にはただの雑音にしか聞こえなかった。
「夜刀様、黒須家の方には一報入れておきました。到着する頃には受け入れの準備が調っているはずです」
「ああ、助かる」
気を回してくれた三枝に夜刀は頷き、固く目を閉じる紗良を宝物のようにそっと抱え直した。
(……もうすぐ君を安全な場所に連れていける)
「黒須様、なんとお詫びしたらいいか……」
「もういい。俺にはこれ以上の詫びは不要だ」
夜刀のそっけない言葉に当主は許してもらえると勘違いをしたらしく、ホッとしたような笑みを浮かべている。
「寛大な措置、まことに――」
「俺には、と言っただけだ。お前たちがこれまで紗良にしてきた仕打ちを許したわけではない」
当主の顔から笑みが消え、サアッと青ざめた。
「今後のことは紗良が目覚めてから判断する」
夜刀はそう残し、振り返らずに織井家から出たのだった。
「紗良!」
夜刀は腕の中でぐったりとしている紗良に何度も呼びかける。
医師の立花伶によれば、迷走神経反射による失神である可能性が高いようだった。
「少なくとも危険な状態ではなさそうです。ただ……」
立花は言葉を濁し、柔和な顔を曇らせた。
「紗良さんは疲労状態にあるように見えます。体だけでなく、心も……」
「ああ」
夜刀は腕に抱えた紗良を見下ろす。
顔色は真っ白だし、手首も痛々しいほど細く、体重も軽すぎる。もしかすると、あまり食べていないのかもしれない。
「あの……実は俺、綾子さんの部屋だけでなく、紗良さんの部屋も見せてもらったんですが……」
三枝藤吾が太い眉を困惑させるように寄せながら言った。
一歳年上の三枝は夜刀の部下だが、元々幼馴染で、私生活では親友だ。夜刀にとって、立花と三枝は信頼できる数少ない人間で、証言も信用に値する。
「なにがあった」
「あったというより、なにもなさすぎたんです。たった三畳しかない部屋で、布団と着替えくらいしかなく、私物も全然……若い女の子の部屋とは思えません……」
三枝には妹がいて、若い女の子の部屋というものを理解している。そんな三枝がそこまで言うほどの部屋だったのだろう。
夜刀はそれ以上聞く気にならなかった。
「当主殿、紗良への扱いはどういうことなんだ」
織井家の当主を見下ろすと、彼は視線をさまよわせた。
「さ、紗良の扱いは家内に任せていて……」
夜刀が当主の妻に視線を移せば、彼女はヒッと声をあげガタガタ震える。
聞くまでもなく、使用人同然の扱いをしていたのだろう。当主の妻や綾子と違い、紗良の手はひどく荒れている。いや、実際に使用人の方がよほど健康的に見えるくらいだ。
「家族ぐるみでひどい扱いをしてきたのか」
「ち、違うんです! あの子が自主的に家事をやって……」
「……お前たちは身寄りのない少女が養家で三畳の部屋に住み、なにも与えられず、こんなにぼろぼろになるまで自主的に働くと思えるのか。それならば、俺が黒須家の当主として織井家の特権を失くすよう取り計らったとしても、お前たちは国のために身を粉にしてでもこれまで通りに働くということだな?」
そう一気に捲し立て、睨みつけた。
神々の加護を持つ家には、国からさまざまな特権が与えられる。織井家もその特権を使い、裕福に暮らしてきたのだろう。広く立派な屋敷に住み、高価な着物からも察せられる。
しかし、さらに上位の加護を持つ黒須家の当主は、やろうと思えば彼らの特権を剥奪することもできるのだ。
夜刀の言葉に、当主たちの顔色がみるみる悪くなる。
「そ、それだけは……どうかお許しを!」
口々に言い訳をしているが、紗良に心から詫びようという態度はまったくない。
夜刀の体の内側から焼けるような怒りが湧き上がった。
「こんなところに紗良は置いておけない。このまま連れ帰る」
紗良を抱えたまま立ち去ろうとしたところで、足元に綾子がサッと飛び出し跪いた。
叩かれた頬は痛々しく腫れていたが、もう鼻血は止まったようだ。目に涙を浮かべ、夜刀を見上げる。
「夜刀様、ごめんなさい! 心から反省しましたから、どうかお許しください!」
「どけ」
夜刀が冷たくあしらっても綾子は夜刀の前を塞いで離れようとしない。あろうことか襟の合わせを広げ、浅ましい顔で夜刀の足に縋りついた。
「反省の証に、なんでもしますから! 愛人になっても構いません。ねえ、あたし、顔も体も悪くないと思うんです。紗良にはできないことだって――」
「お前になど興味はない。失せろ」
必死に夜刀を引き止めようとする綾子の言葉を遮る。
本気で目の前の娘などどうでもよかった。記憶のリセット前だったが、もう彼女の名前など頭にない。それより腕の中の紗良を一刻も早く安全な場所に寝かせてやりたい。
「おい、娘をどうにかしろ」
「は、はい! 綾子、いい加減にしないか!」
腰を低くした当主は綾子を引き剥がし、夜刀が通れるように道を開ける。
みっともなく着物の裾が捲れ上がった娘が足をジタバタさせて喚いていたが、もう夜刀にはただの雑音にしか聞こえなかった。
「夜刀様、黒須家の方には一報入れておきました。到着する頃には受け入れの準備が調っているはずです」
「ああ、助かる」
気を回してくれた三枝に夜刀は頷き、固く目を閉じる紗良を宝物のようにそっと抱え直した。
(……もうすぐ君を安全な場所に連れていける)
「黒須様、なんとお詫びしたらいいか……」
「もういい。俺にはこれ以上の詫びは不要だ」
夜刀のそっけない言葉に当主は許してもらえると勘違いをしたらしく、ホッとしたような笑みを浮かべている。
「寛大な措置、まことに――」
「俺には、と言っただけだ。お前たちがこれまで紗良にしてきた仕打ちを許したわけではない」
当主の顔から笑みが消え、サアッと青ざめた。
「今後のことは紗良が目覚めてから判断する」
夜刀はそう残し、振り返らずに織井家から出たのだった。
