氷の花嫁~笑顔を失った能面の少女が幸せになるまで~

 乗ってきたボンネットバスが黒い煙を立てて走り去る。

 紗良は初めて来た賑やかな街並みを見回した。疲れているせいもあって、繁華街の騒々しさに頭がクラクラしてしまう。

 「ええと……この辺りだったかしら」

 綾子は忘れ物をしたという店の場所をメモするのも許してくれなかった。

 キョロキョロして周囲を探すと、綾子に指定されたカフェーを見つけた。

 「ここね」

 看板に造花が飾られ、ピンク色のライトで照らされている。【カフェー】と看板には書かれているが、どこか違和感のある雰囲気だ。

 濃い紫色のガラス扉は中をうかがうことはできない。ためらいながらも紗良は扉を開けた。

 途端、充満した煙草の煙が流れてきて思わず()き込む。

 店内はやけに薄暗く、若い男性店員の数が多かった。逆に客は女性ばかりで、男性店員が横に座ってお酌をしたり客の煙草に火をつけたりしている。

 (こんな店に綾子さんが……?)

 「あっれー? 今日は来ないんじゃなかったっけぇ?」

 突然、男性店員に馴れ馴れしく話しかけられ、紗良はビクッと肩を震わせた。

 軽薄そうな男性店員は紗良の顔を覗き込み、首を傾げた。

 「んー? いやぁ、人違いだったわ。ごめーん」

 店員とは思えない態度で、ヘラヘラと笑う。

 「それで、君はご新規のお客様ってことでいい?」

 「いえ、あの……家族の忘れ物を取りに来たのですが、本の忘れ物がありませんでしたか?」

 「あーはいはい。これでしょ」

 紗良が尋ねると、男性店員は袋に入った本を渡してくれた。

 紗良はお礼を言って店から出た。外の明るさにホッとしたが、髪や着物から煙草の匂いが漂ってくる。ほんの少しいただけなのに、匂いが移ってしまったようだ。

 顔をしかめたい気分だったが、紗良の表情は変わらない。すぐに帰ろうとバス乗り場に足を向けたところで、突然肩を掴まれた。

 「ひっ……!」

 息を呑んで振り返ると、学生服を着崩したふたり組の男が紗良を見下ろしていた。

 「ねえ、君。もしかして紗良ちゃん?」

 「え……? そ、そうですけど……」

 見知らぬ人から名前を呼ばれ、紗良は困惑した。

 (どうして私の名前を……?)

 男たちはニヤニヤと笑って顔を見合わせた。

 「あーやっぱり!」

 「あのさあ、紗良ちゃんって男好きなんだって? 相手したら小遣いくれるって聞いたんだけどさ」

 「わ、私、そんなんじゃ」

 慌てて離れようとしたが、ガシッと肩を掴まれ逃げ出せない。

 「水色の着物に左目の下に泣きぼくろがふたつ。君が噂の紗良ちゃんでしょうが」

 「蝶の庭から出てきたの見たし、散々男と遊んできた後なんだろ? なあ、俺らとも少し遊んでくれよぉ」

 下卑(げび)た笑いを浮かべた男は、紗良の頬に手を()わせる。

 「あんま愛想ないけど、結構美人じゃん」

 左目の下の泣きぼくろに触れられ、全身に鳥肌が立った。

 「や、やめてください……」

 「顔は全然やめてほしくなさそうだけど?」

 「なあ、あっち行こうぜ」

 (ひと)()のない方向に引きずられそうになり、紗良は血の気が引いた。

 「い、嫌っ!」

 紗良はこの数年で一番と言っていいほど大きな声を出して男の手を振り払い、必死に駆け出した。

 バス乗り場にたどり着き、出発直前のバスに転がるように乗り込む。

 乗車してから、帰るには遠回りのバスだと気づいたが、降りたら再び彼らに絡まれるかもしれない。紗良はそのままフラフラと空いた座席に座り込み、恐怖でバクバクと音を立てていた胸元をギュッと押さえた。

 (あの人たち、どうして私を知っていたの……?)

 紗良は繁華街に来たこと自体、初めてだった。普段、村からも滅多に出ないくらいなのだ。それなのに、彼らは紗良の着物の色や泣きぼくろまで知っていた。

 そんなことを考えていた紗良の耳に「くさっ」という呟きが聞こえた。

 視線を向けると、隣の座席に綾子の通っている女学校の制服を着た女生徒がいた。

 ポニーテールの快活そうな女生徒が不愉快そうに鼻を押さえている。おそらく、紗良の着物に染みついた煙草臭のせいだろう。
 紗良は恥ずかしさと申し訳なさに深く俯いた。