(どうして黒須様は私を選んでくれたのだろう)
顔合わせで夜刀の隣に座った紗良はそんなことを考えていた。
あの雪の日に初めて会ったはずだし、好かれるような理由はない。だから、夜刀が愛しげに見つめてきて不思議だった。
(黒須様と……結婚……?)
考えるだけでドキドキしてしまうが、そう簡単に喜べずにいた。
紗良は記憶に欠落がある上、喜怒哀楽を表に出せない。それを伝えずに結婚しようとするのは騙しているのも同然だ。
(やっぱり、正直に言った方がいいよね……)
「すまない。そろそろ時間だ」
ふと、夜刀は懐中時計を取り出して時間を確認した。中央妖魔討伐隊の隊長なため、多忙なのだろう。
「もうお帰りですか。紗良、外までお見送りをしなさい」
伯父は紗良にそう命じた。
「は、はい」
客間から出て、ふたりきりで玄関まで案内をする。
客間では伯父は紗良がおかしなことを言わないようにと目を光らせていたから、打ち明けるチャンスはもう今しかない。
「あの……黒須様」
外に出てから引き留めたが、表情が変わらないせいで自分でもそっけない言い方に聞こえた。きっと可愛げがないと思われただろう。
しかし、夜刀は嫌な顔どころか、ふわりと優しい微笑みを浮かべてくれた。
「君が嫌でなければ、名字ではなく夜刀と呼んでくれないだろうか」
「や、夜刀様……」
言われた通りに名前で呼ぶと、夜刀は不意に紗良の手を取った。ギュッと握られ、夜刀の手が熱いくらいに感じてしまう。
「君の手は冷たいな」
「す、すみません……」
「謝らなくていい。それより紗良に渡したいものがあるんだ」
紗良の手に載せられたのは、桜の浮き彫りが愛らしいつげ櫛だった。
木のぬくもりが手に優しく、手に馴染むような感触がする。手にしただけで、職人が丹精込めて作った高価な品だとわかった。
「こ、こんなにいいものを……いただけません」
紗良は慌てて首を横に振ったが、手の上から夜刀の手で包み込まれる。
「本当は簪を送りたかったんだが、どういうのが君に似合うかわからなかった。実用品ならどんなデザインでも使ってもらえるのではないかと思って」
夜刀の手は、紗良の手だけでなく心まで温めてくれる気がした。
正直に記憶の欠落や表情が出ないことを話したら、このぬくもりが失われてしまうかもしれない。そう思うと胸がチリッとする。
「織女神は夫である戦神に簪を贈った逸話があるだろう」
夫婦神である戦神と織女神の伝説は、紗良も知っていた。
戦神が出陣をする際、織女神は無事を祈願し、己の身につけていた簪をお守りとして渡したという話だ。戦神は織女神の簪を刀の笄穴に挿し、片時も離さなかったのだとか。
「俺は子供の頃からその話が好きで、髪に関係するものを君に贈りたいと考えていた。どうか、受け取ってくれ」
「わかりました。あの、ありがとうございます」
無理して笑おうとしたが、頬はピクリとも動かない。
「……結婚は一年後を目安に織井家の当主殿と話を詰めていく予定だから、少しずつ俺に慣れてくれればいい」
夜刀は、紗良が笑わない理由を、この結婚話に乗り気ではないせいだと勘違いしているようだ。
違うと否定したかったけれど、頭の中が混乱し、なにから話していいのかわからない。
「次に会った時も、夜刀と名前で呼ぶことを覚えていてくれ。俺は、それだけで構わないから」
夜刀はそう言ってくれたが、紗良は頷くしかできなかった。
彼が車に乗り込み去っていくのを見送ってから屋敷に戻る。
(結局、伝えられなかった……)
夜刀の手のぬくもりを思い出すと、それだけで不思議と胸が温かくなる。あんなにも優しい夜刀と結婚できたなら、きっと幸せになれるだろう。
けれど、その前に正直に話すべきだ。次に会った時には、必ず伝えよう。
(それまでこの櫛は使わずに取っておかなきゃね)
真実を知れば、紗良との結婚を撤回するかもしれない。たとえそうなったとしても、ちゃんと返せるように。
「ねえ、夜刀様からなにをもらったの?」
そんな声にハッと顔を上げると、綾子が腕を組み、薄暗い廊下に立ち塞がっていた。どうやら夜刀との話を立ち聞きしていたようだ。
「見せて」
「でも、これは……」
夜刀に返すかもしれないものだ。そう思って紗良は首を横に振ったが、綾子は無理やり紗良の手から櫛をもぎ取る。
「ふぅん。いい櫛じゃない。あたしならもっと華やかな方が好みだけど」
綾子は紗良の櫛をくるくると手の中で回している。
「か、返してください」
「痛いっ! あたしは怪我してるのに、なにするのっ!」
綾子に大声を出され、紗良は取り返そうと伸ばした手を止める。
さっき夜刀に掴まれていた手首に、痛々しく包帯が巻いてあった。
「……お願いします。返してください」
無理に取り返すことはできず、紗良がその場に膝をつき深々と頭を下げると、ふふっと含み笑いをするのが聞こえた。満足してくれたのだろうか。
「そうねえ。守布を十反くれたら櫛を返してもいいけど。とりあえず、守布を明日までに一反用意して。そうしたら残りの九反は一ヶ月くらいなら猶予をあげる」
「そんな……無理です」
出された条件に血の気が引いた。月に四、五反の守布を織れたら早い方なのに、その倍など不可能だ。
「あらそう。なら、櫛は竈に放り込もうかしら」
「ま、待ってください! やりますから……」
「じゃ、よろしく」
ポンと紗良の肩を軽快に叩いて去る綾子とは対照的に、紗良は暗い廊下で呆然と立ち尽くすしかなかった。
顔合わせで夜刀の隣に座った紗良はそんなことを考えていた。
あの雪の日に初めて会ったはずだし、好かれるような理由はない。だから、夜刀が愛しげに見つめてきて不思議だった。
(黒須様と……結婚……?)
考えるだけでドキドキしてしまうが、そう簡単に喜べずにいた。
紗良は記憶に欠落がある上、喜怒哀楽を表に出せない。それを伝えずに結婚しようとするのは騙しているのも同然だ。
(やっぱり、正直に言った方がいいよね……)
「すまない。そろそろ時間だ」
ふと、夜刀は懐中時計を取り出して時間を確認した。中央妖魔討伐隊の隊長なため、多忙なのだろう。
「もうお帰りですか。紗良、外までお見送りをしなさい」
伯父は紗良にそう命じた。
「は、はい」
客間から出て、ふたりきりで玄関まで案内をする。
客間では伯父は紗良がおかしなことを言わないようにと目を光らせていたから、打ち明けるチャンスはもう今しかない。
「あの……黒須様」
外に出てから引き留めたが、表情が変わらないせいで自分でもそっけない言い方に聞こえた。きっと可愛げがないと思われただろう。
しかし、夜刀は嫌な顔どころか、ふわりと優しい微笑みを浮かべてくれた。
「君が嫌でなければ、名字ではなく夜刀と呼んでくれないだろうか」
「や、夜刀様……」
言われた通りに名前で呼ぶと、夜刀は不意に紗良の手を取った。ギュッと握られ、夜刀の手が熱いくらいに感じてしまう。
「君の手は冷たいな」
「す、すみません……」
「謝らなくていい。それより紗良に渡したいものがあるんだ」
紗良の手に載せられたのは、桜の浮き彫りが愛らしいつげ櫛だった。
木のぬくもりが手に優しく、手に馴染むような感触がする。手にしただけで、職人が丹精込めて作った高価な品だとわかった。
「こ、こんなにいいものを……いただけません」
紗良は慌てて首を横に振ったが、手の上から夜刀の手で包み込まれる。
「本当は簪を送りたかったんだが、どういうのが君に似合うかわからなかった。実用品ならどんなデザインでも使ってもらえるのではないかと思って」
夜刀の手は、紗良の手だけでなく心まで温めてくれる気がした。
正直に記憶の欠落や表情が出ないことを話したら、このぬくもりが失われてしまうかもしれない。そう思うと胸がチリッとする。
「織女神は夫である戦神に簪を贈った逸話があるだろう」
夫婦神である戦神と織女神の伝説は、紗良も知っていた。
戦神が出陣をする際、織女神は無事を祈願し、己の身につけていた簪をお守りとして渡したという話だ。戦神は織女神の簪を刀の笄穴に挿し、片時も離さなかったのだとか。
「俺は子供の頃からその話が好きで、髪に関係するものを君に贈りたいと考えていた。どうか、受け取ってくれ」
「わかりました。あの、ありがとうございます」
無理して笑おうとしたが、頬はピクリとも動かない。
「……結婚は一年後を目安に織井家の当主殿と話を詰めていく予定だから、少しずつ俺に慣れてくれればいい」
夜刀は、紗良が笑わない理由を、この結婚話に乗り気ではないせいだと勘違いしているようだ。
違うと否定したかったけれど、頭の中が混乱し、なにから話していいのかわからない。
「次に会った時も、夜刀と名前で呼ぶことを覚えていてくれ。俺は、それだけで構わないから」
夜刀はそう言ってくれたが、紗良は頷くしかできなかった。
彼が車に乗り込み去っていくのを見送ってから屋敷に戻る。
(結局、伝えられなかった……)
夜刀の手のぬくもりを思い出すと、それだけで不思議と胸が温かくなる。あんなにも優しい夜刀と結婚できたなら、きっと幸せになれるだろう。
けれど、その前に正直に話すべきだ。次に会った時には、必ず伝えよう。
(それまでこの櫛は使わずに取っておかなきゃね)
真実を知れば、紗良との結婚を撤回するかもしれない。たとえそうなったとしても、ちゃんと返せるように。
「ねえ、夜刀様からなにをもらったの?」
そんな声にハッと顔を上げると、綾子が腕を組み、薄暗い廊下に立ち塞がっていた。どうやら夜刀との話を立ち聞きしていたようだ。
「見せて」
「でも、これは……」
夜刀に返すかもしれないものだ。そう思って紗良は首を横に振ったが、綾子は無理やり紗良の手から櫛をもぎ取る。
「ふぅん。いい櫛じゃない。あたしならもっと華やかな方が好みだけど」
綾子は紗良の櫛をくるくると手の中で回している。
「か、返してください」
「痛いっ! あたしは怪我してるのに、なにするのっ!」
綾子に大声を出され、紗良は取り返そうと伸ばした手を止める。
さっき夜刀に掴まれていた手首に、痛々しく包帯が巻いてあった。
「……お願いします。返してください」
無理に取り返すことはできず、紗良がその場に膝をつき深々と頭を下げると、ふふっと含み笑いをするのが聞こえた。満足してくれたのだろうか。
「そうねえ。守布を十反くれたら櫛を返してもいいけど。とりあえず、守布を明日までに一反用意して。そうしたら残りの九反は一ヶ月くらいなら猶予をあげる」
「そんな……無理です」
出された条件に血の気が引いた。月に四、五反の守布を織れたら早い方なのに、その倍など不可能だ。
「あらそう。なら、櫛は竈に放り込もうかしら」
「ま、待ってください! やりますから……」
「じゃ、よろしく」
ポンと紗良の肩を軽快に叩いて去る綾子とは対照的に、紗良は暗い廊下で呆然と立ち尽くすしかなかった。
