『ブーツに恋して』~女性用ブーツに魅せられた青年の変身ラヴストーリー~


 ご主人の後姿を見つめていると、痛みに加えて寂しさと不安が襲ってきた。しかし、そんなことは関係ないというように男に再び掴まれて、棚に移された。
 右隣には赤いハイヒールがいた。
 挨拶したが、シカトされた。
 左隣を見た。
 紳士用のブーツがいた。
 このブーツはどこを修理するのだろう、と思っていたら声をかけられた。

「かなり重傷のようだな」

 心配そうにわたしを見たので、思わず今朝の顛末(てんまつ)を詳しく話した。すると、心から同情するような声で「大変だったな」と慰めてくれたが、それはすぐに憤慨の声に変わった。

「男の風上にも置けない最低野郎だ!」

 顔が真っ赤になったが、それでも、心を落ち着かせるためか、大きな息を一つ吐いて、「それにしても可哀そうだったな、イタリア生まれの紳士靴君は」と今度は憐れむような声になった。

「でも、立派な最後でした。わたしのご主人を守るために自らを犠牲にしてくれたのです。誰にでもできることではありません」

 わたしはイタリア生まれの紳士靴君に手を合わせた。すると、紳士用ブーツも一緒に手を合わせてくれた。その姿を見て、痛みが少し和らいだように感じた。

        *

 店の灯りが消えた。閉店の時間になったようだ。棚に並んだほとんどの靴は眠りにつき、起きているのはわたしと紳士用ブーツだけになった。

「俺は、」

 ちょっと躊躇(ためら)ったようだったが、すぐに身の上話を始めた。

「俺はフランスで生まれた。有名な靴工房の優れた靴職人が丹精を込めて作ってくれたんだ。でも、生まれてすぐ日本に運ばれた。そして新宿にある有名な百貨店の靴売り場に並べられた。そう、その百貨店のバイヤーが注文した靴が俺なんだ」

 そして、フランスはどっちの方角かな、というように暗闇の中で視線を送った。

「俺は不安だった。親元を離れて誰も知る人のいない異国に来て一人ぼっちだったから、心が病みそうになった。それに、日本語が話せないから他の靴とは会話ができなくて辛かった。だから、いつもフランスに帰ることばかり考えていた」

「毎日ホームシックにかかっていたのですね」

 すると恥ずかしそうに笑ったが、「でも、それよりも、俺を買ってくれる人がいないことの方が辛かった」と当時を思い出すような目になった。

「俺を気に入ってくれた人は結構いたんだ。俺の品質とデザインは最高だからね。でも、俺の靴型に合う日本人は現れなかった。足幅が広くて甲が高い日本人には合わなかったんだ。俺は落ち込んだ。結構落ち込んだ。周りの靴がどんどん売れていくのに俺だけ取り残されて、棚の肥やしになっている自分が惨めだった。きついぜ、売れ残ると」

 顔を歪めたので何か言ってあげたかったが、適当な言葉が見つからなかった。黙って聞いていることにした。

「そんな中で棚替えの時期がやって来た。冬物を春物に替える作業が始まったんだ。ブーツは全部倉庫に運ばれた。もちろん俺も。箱に入れられて窒息しそうだった。真っ暗で何も見えないし、シューフィッターの声も客の声も聞こえない。気がおかしくなりそうだった」

 それは想像したくないものだった。わたしだったらとても耐えられない。

「そんなある日、返品という声が聞こえた。売れ残りの在庫整理が始まったんだ。俺の近くにあった靴の箱が運び出されるような音が聞こえた。メーカーに返品されていたんだと思う。いつ俺の順番が来るのかと思うと恐怖で体が固まった」

 その状況が目に浮かぶと、体がブルブル震えてきた。

「1日が経ち、2日が経ち、3日が経ち、そして……」

 そして、何?

「俺が返品されることはなかった」

 えっ⁉ 

 良かったと思った途端、力が抜けてへなへなとなった。

「俺は買い取りの靴だったようなんだ。返品なしの条件で買い取られた靴ということだ」

 そうだったんだ……。でも、そうだよね。じゃなきゃ、ここにいるはずないもんね。ブルブル震えて心配して損しちゃったな。

 自分が馬鹿みたいに思えて嫌になったが、そんなことに気づくはずもなく、彼の話は続いた。

「返品はされなかったけど、次の年も俺は売れ残った。何十人もの日本人が俺を気に入って試し履きしたけど、やっぱり誰の足にも合わなかったんだ」

「でも、ここにいるってことは、誰かに買われたんじゃないの?」

「そうなんだ。遂に俺を棚から解放してくれる日本人が現れたんだ。誰だと思う?」

 急にそんなこと言われてもわかるわけがないので黙っていると、「バイヤーだよ。フランスに発注したバイヤー」と答えを告げられた。

「えっ、バイヤー?」

 素っ頓狂な声が出てしまった。

「そうなんだ。まったく売れないんで、発注した責任を取って自分で買い取るしかないと思ったんだろう。突然、彼が俺の中に足を入れたんだ。すると、」

 もしかして、

「なんと、彼の足は俺の靴型にぴったりだったんだ。(あつら)えたようにピッタリ」

「えっ、嘘みたい」

「嘘みたいだろう? でも本当なんだ」

 その時のことを思い出したのか、ほんの少し頬を緩めた。

「それから彼は俺のことが気に入って、冬場になると毎日のように履いてくれた。そして、休日にはよく手入れをしてくれた。だからいつもピカピカの状態で、とても気持ちが良かった。でも、履きすぎて靴底がすり減ってしまった。だからこの店に持ってこられたんだ」

 なるほど、それでここに居るのね。……ん? ちょっと待ってよ、あなたの主人は有名百貨店の靴売場のバイヤーだよね。だったら売場に修理する人がいるんじゃないの? 自分の所で修理できるんじゃないの?

 そう思った時、まるで疑問を見透かすように彼が口を開いた。

「もちろん俺の主人が働く売場でも踵の修理はやっている。一般的なリフト交換だと3,500円くらいでできる。でも、俺は特注品なのでフランスから専用のリフトを取り寄せた方がいいと言われたんだ」

 確かに、そうするのが一番かも。

「それで、取り寄せたらいくらになるか問い合わせたら、びっくりするような返事が返ってきたんだ。1万円って言われたんだぜ。信じられるか?」

 1万円? リフトが1万円?

「あり得ないよね。だから、勤務先ではなく、通勤の最寄り駅にあるこの店に持ってきたようなんだ。職人の腕がいいみたいだし、それに安いみたいだからね」

 なるほど……、ん? 今、通勤の最寄り駅って言ったよね。

「もしかして、この近くに住んでいるの?」

「そうだよ。1丁目2番地3号」

 と言われても詳しいことはわからないけど、もしかしたらご近所さんかもしれないと思うと、ぐっと親近感が湧いてきた。なので、まじまじと紳士用ブーツを見つめていると、ビルの窓から柔らかい光が差し込んできた。
 夜が明けたようだ。見つめていると光は次第に強くなり、スポットライトのようにわたしを映し出した。すると、「綺麗だな~」と紳士用ブーツがわたしを見て呟いた。

 綺麗って……、

「お前の色、俺好きだよ。なんていう色なんだ?」

「オレンジ系のヴィヴィッド・トーン」

「オレンジ系のヴィヴィッドか……。なあ、お前のこと『ヴィヴィ』って呼んでもいいか?」

 えっ? 
 ヴィヴィ? 
 えっ? 
 なんかドキンとした。
 もしかして、これって、トキメキ? 
 えっ? 女になっちゃったの? 確かに今は女性用ブーツだけど、その前は成人男子だったのに……、

「いいわよ。ヴィヴィって呼んで」

 あれっ? 甘えた声が出ている。どうしちゃったの? 
 それに、痛みがなくなっている。どうなっているの?

 訳がわからなくなって、動揺の海を泳いでいるような感じになった。自分が自分で無くなったようで、どうしていいかわからなくなった。それでも、確実に変化しているのを止めることはできなかった。女になることを止めることはできないのだ。わたしは動揺しながらも変化を受け入れることにした。それでいいんだ、と自らに言い聞かせた。すると、またもや甘えた声が口から飛び出した。

「ねえ、あなたのことジェンと呼んでもいい?」

「ジェン?」

「そう、ジェントルマンのジェンよ」

 彼は嬉しそうに頷いたあと、甘い声で囁いた。

「ヴィヴィ」

「なあに、ジェン」

 わたしはジェンに体を寄せた。ピッタリと体を寄せた。彼のぬくもりを感じながら瞼を閉じると、夢の世界に入るのに時間はかからなかった。