二人はちょっと気まずそうな感じでバス停のベンチに座っていた。
「今日はありがとうございました」
自分が乗るバスが近づいてきたので、ご主人は前私に礼を言った。
「いえ、あの~、え~と、その~」
前私は次の糸口を見つけようと言葉を探しているみたいだったが、何も浮かんでこないのか、声はまったく出てこなかった。それでもなんとかしようとしているみたいだったが、それをあざ笑うかのようにバスが到着し、目の前で停まった。ご主人が立ち上がると、バスのドアが開き、ステップに右足をかけた。
ねえ、もう乗っちゃうわよ。このまま別れてもいいの? しっかりして! 幸運の女神に後ろ髪はないのよ! 前髪を掴んで!
わたしは前私を励まし続けた。
このまま別れたら後悔するわよ! それでいいの? 一生後悔するわよ!
声を限りに叫び続けたが、非情にもドアが閉まることを知らせる運転手のアナウンスが聞こえた。
ジ・エンド!
手の尽くしようがなくなったわたしが茫然と前私を見つめる中、ゆっくりとドアが閉まり始めた。
もうダメだ。万事休す!
わたしは目を瞑って、がっくりと肩を落とした。
しかし、次の瞬間、ご主人の「あっ」という声が聞こえた。
ん? 何?
目を開けると、前私が手と足でドアが閉まるのを止めていた。
「乗ります!」
運転手に声をかけて、前私が乗り込んできた。危険な行為をしないようにと運転手から厳しく注意された前私は神妙に頭を下げたが、その顔には決意のようのものが浮かんでいるように見えた。ドアが閉まると、前私がご主人に向き合った。
「心配なので、ご自宅まで送ります」
やるじゃん!
わたしは喝采を送った。
一番後ろの席に並んで座ると、すぐにバスが動き出した。前私は緊張しているようだった。ご主人も落ち着かないようだった。そのせいか、わたしまでガチガチになりそうだった。
ダメ、ダメ、
大きく深呼吸して、肩の力を抜いた。そして、前私に話しかけた。
リラックスして。
でも、通じなかった。唇を舐めるばかりで、硬い表情が緩む気配はなかった。その後も無言の時間が過ぎていった。なんとかしてあげたかったが、どうにもならなかった。バスは止まることなく、いくつもの停留所を通り過ぎた。
終点のアナウンスがあった。そろそろ降りる準備をしなければと思った時、「アッ!」という声を上げて運転手が急にハンドルを切った。何かを避けるような切り方で、バスが大きく揺れた。その瞬間、ご主人の体が前私の方へ傾き、その弾みでわたしは前私の靴に接触した。
えっ? 何? どうしたの?
わたしは……ご主人のブーツを抜け出していた。
えっ? 何? 何が起こったの? どうしちゃったの?
混乱して、何がなんだかわからなくなった。
どうなってるの?
狼狽えていると、目の前が急に暗くなった。トンネルだった。一瞬にしてバスの窓が鏡のようになり、そこに顔が映っていた。
えっ⁉ そんなことって……、
信じられないことが起こっていた。
ウソでしょ!
動揺したわたしは目を瞑って、心を落ち着かせるために数を数えた。
ワン、ツー、スリー、
ゆっくりと目を開けた。しかし、窓に映った顔に変化はなかった。見慣れた顔がわたしを見ていた。それはご主人の顔だった。わたしはブーツを抜け出して、ご主人の中に入っていた。呆然としていると、前私が心配そうな表情でわたしの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
その声が遠くの方で聞こえたような気がした時、トンネルを抜けた。



