『ブーツに恋して』~女性用ブーツに魅せられた青年の変身ラヴストーリー~


「明日は雪になるかも知れないわよ」

 お母さんの声が聞こえた。心配そうな口ぶりだった。

「バスも電車も混むから、いつもより早く家を出た方がいいんじゃない」

 早起きを促しているようだった。

「そうね、そうするわ」

 ご主人の声が聞こえたと思ったら、靴箱が開いた。どうしたのかな? と思っていると、いきなり手が伸びてきて、左右別々に取り出され、柔らかい布で綺麗に拭かれたあと、玄関の床に置かれた。今から外に出ていくわけはないので首を傾げていると、ご主人が優しく声をかけてきた。

「明日の朝早く家を出たいから、いつもより寒いかも知れないけど、今晩は玄関で我慢してね」

 言い終わるや否や、いきなり厚手の大きな紙袋が被せられて、目の前が真っ暗になった。

 えっ? ちょっと待って、

 でも、待ってはくれなかった。「おやすみなさい」という声が聞こえたと思ったら、すぐに2階へ上がっていく音がして、そのあとは静寂に包まれた。
 一気に不安になった。それに、寒かった。

 ハックション!

 いきなりくしゃみが出て、震えが来た。ご主人が被せてくれた紙袋が幾分和らげてくれていたが、床からの寒気が半端なかった。凍えるほど寒いのだ。玄関の床がこんなに冷たいなんて思ってもみなかった。〈底冷え〉という言葉が頭に浮かぶと、寒さが増したように感じた。ブルブル震えて、それが止まらなかった。

 毛布を頂戴! 

 叫んでみても、誰も聞いていなかった。

 ご主人も家族も温かいお布団の中で寝ているのに、なんでわたしだけ? 

 靴という立場の自分が惨めになった。

 人間に戻りたい、

 またそう思った。

        *

 眠るどころではなかった。寒くて、本当に寒くて、震え続けた。だから完全に風邪を引いたと思った。でも、熱はなかった。喉は腫れていないし、頭も痛くなかった。

 ブーツは風邪を引かないのだろうか?

 そんなことを考えていたら、いきなり紙袋が持ち上げられた。視界が開けると、ご主人の腕時計が見えた。いつもより20分ほど早かった。

 ちゃんと早起きしたんだ、

 と思っていたら、足がわたしの中に入ってきた。

 あ~、あ・た・た・か・い……、

 靴温がどんどん上昇してきて気持ちよくなってきた。すると、震えが止まった。寝不足だけど少し元気が出てきた。

「行ってきます」

「気をつけて」

 お母さんに見送られて、ご主人が家を出た。

 ザクザクザク、

 地面には霜が降りていた。

 コツコツコツ、

 小気味よい靴音が住宅地にこだました。 気持ち良くアスファルトを踏みしめていると、路地から紐に繋がれた犬が出てきた。

 あっ、あの犬、エリザベスだ。

 見つめていると、前と同じように近づいてきた。飼い主がご主人に挨拶をして立ち話になると、わたしに鼻を寄せてニオイを嗅いだ。それだけでなく、何かを言おうとした。
 そうはさせない。機先を制するのだ。

「わたしの名前は、ヴィヴィよ」

 こっちから名乗ってやった。

「わたしはオシッコなんかしないんだから!」

 そう言って、澄ましてやった。すると、今度こそ絶対にオシッコをかけてやろうというように女座りを始めたエリザベスだったが、わたしの毅然とした声に驚いたのか、オシッコが止まってしまったようだった。彼女はクゥ~ンと鼻を鳴らして、悲しそうな顔になった。それから少しの間わたしを見つめていたが、飼い主に急かされて遠ざかっていった。

 フンだ!

 勝ち誇ったようにつま先を上げると、それを待っていたかのようにご主人が歩き始めた。
 バス停近くの交差点に差し掛かかると、信号が青に変わった。

「ラッキー♪」

 明るい声を発したご主人が踊るように横断歩道を渡り、バス停の列に並んだ。すると、すぐにバスが来た。

「ラッキー♪」

 ご主人は軽やかに乗り口を上がった。いつもより早いせいか、バスはそれほど混んでいなかった。

「早起きは三文の徳って言うけど、本当ね。明日からも早起きしようっと」

 ご主人はルンルン調子で独り言ちた。

 駅に着いたご主人は軽やかにエスカレーターを上っていった。寝不足のわたしはきつかったが、必死になってついていった。
 改札を抜けていつもと同じホームに駆けおりると、意外にも人が少なかった。たった20分早いだけなのにいつもとまったく違っていた。ご主人は誰も並んでいない列を避けて、待っている人が最も少ない列を探しているようだった。すると、一人しか並んでない所が目に入ったのか、「ラッキー♪」と声を出して、一目散にそこを目指した。「一番前は事件に巻き込まれる可能性があるから二番目がいいのよね」と独り言を言いながら。
 その通りだと思った。わたしが人間だった時、テレビで見たことがある。ホームの一番前に立っていた女性がいきなり後ろから男性に突き飛ばされ、線路に転落し、電車に轢かれてしまったという悲しいニュースだった。
 そのことを思い出して、わたしはつま先と踵に力を入れた。誰かに押されても踏ん張れるように、ぐっと力を入れた。眠いからといってボーっとしていてはいけないのだ。緊張感を持たなくてはならないのだ。わたしは全身の神経に気合を入れた。その時だった。真後ろから声が聞こえた。

「ヴィヴィ」

 えっ?

 突然のことに驚いて固まってしまったが、声は続いた。

「ヴィヴィ」

 えっ⁉ まさか、その声はもしかして……、

 ドキドキしながらわたしは目を真後ろに動かした。

「ジェン♡」

 彼だった。間違いなく彼だった。

 あ~なんてこと。こんなことってあるのかしら。

 わたしは喜びに震えた。

「会えるって言っただろ」

 彼は得意そうにつま先をツンと上に向けた。

「ああ、ジェン。会えたのね。あなたに会えたのね」

 わたしは思い切り甘えた声を出して、身も心も焦がれる乙女になった。その時、電車がホームに入ってきた。それほど混んでいないようだったので、おしくらまんじゅう(・・・・・・・・・)をせずに乗り込めた。
 わたしのご主人とジェンの主人は隣同士になって吊革につかまっていた。だから、わたしとジェンも隣同士だった。

「いつもこの電車?」

「そうだよ。いつもこの電車、そして、いつもこの車両」

「じゃあ、この時間に来れば、毎朝あなたに会えるのね♡」

 今までより20分早く家を出れば毎朝ジェンとデートできることを知って、わたしは夢見心地になった。

 少しして、電車が揺れた。わたしのご主人とジェンの主人の距離が縮まったと思ったら、また電車が揺れた。今度は揺れが大きかったせいか、わたしのご主人がジェンの主人の体に軽くぶつかった。

「ごめんなさい」

 わたしのご主人が謝ると、いいえ、というようにジェンの主人が首を横に振った。
 わたしは……ジェンと密着していた。

 チャンス! 

 チュッ、とジェンに口づけた。すると、一瞬驚いたような表情になったが、でも、すぐににっこり笑って、口づけを返してくれた。
 天にも昇る気持ちになった。至福より上の気持ちだった。特上至福。わたしはジェンに甘えるように寄り添った。

「これから毎朝、いつも一緒ね♡」

 飛び切りハニーな声で囁いた。でも、ジェンはうつむいていた。

 えっ? どうしたの? 嬉しくないの?

 わたしはジェンの顔を覗き込んだ。

「引っ越しするんだ……」

 暗い声でジェンが言った。

 引っ越し? 
 なんで? 
 何処へ? 
 いつ?

「明日……」

 ジェンの主人の結婚が決まって、新しいマンションに引っ越すのだと言った。引っ越し先はこの路線とは違う場所らしい。だから会えるのは今日が最後だと言った。

 うそっ! やっと会えたのに。やっとキスできたのに。それなのに明日から会えないなんて……、

 わたしは特上至福から最悪地獄へ落ち込んだ。涙が止まらなくなった。ジェンは唇を噛んで必死になって堪えているようだった。

 電車が止まった。ジェンの主人が降りる駅だった。

「行かなきゃ……」

 ジェンが辛そうに声を絞り出した。そして、「愛しのヴィヴィ、さようなら」と言い残して、離れていった。わたしは茫然とジェンを見送ることしかできなかった。

 そんな……、
 そんな………、
 そんな…………、