だっておまえがほしいっていうから

 ……頭が痛い。

 兄だと思ったことはない。

 その言葉が棘のように刺さって抜けない。
 珍しく静かなリビングで、俺はソファに寝転がり、見慣れた天井をぼんやり眺めていた。

 勉強をしていても、料理をしていても、ふとしたときに昨日の由良の姿が頭をよぎる。眠ろうと目を閉じれば、腕を掴むその力まで蘇ってくるようで、おかげで今日は寝不足だ。

 最初は心底驚いているようだった。それからは俺がなにか言うたび傷付いたような表情をして、そして最後にはとにかく置いて行かないでと縋るように腕を掴んでいた。

 思い出すだけで胸が締めつけられる。別に俺は、由良を傷付けたくてあんなふうに言ったわけじゃない。なのにまるで自分が悪いような気になってきて、無意識に漏れる溜息が止まらない。

 なんであんなふうに言ってしまったんだろう。もう少し言い方というものがあったのではないだろうか。

 思うけれど、口にしたことは本心で、そこには嘘も誤魔化しもない。
 だって、本当に想像したこともなかったのだ。由良が俺のことをそういう意味で好きだなんて。近い将来、俺と由良がそんな関係になるなんて……それこそ考えたこともなかった。

「ちぃにいちゃ」

 いつのまにか、優斗がそばに立っていた。今日は土曜日だから、保育園も休みだ。

「にいちゃ、あたまいたい?」

 額に腕をのせ、座面に仰向けに寝転がっていた俺は、「ちょっとだけな」とその頭に手を伸ばす。よしよしと撫でればわかりやすく嬉しそうに微笑んで、そのまま腹の上へとよじ登ってくる。
 落ちないように片手を添えながら、胸へと伏せるのを好きにさせる。

「とくんとくん聞こえる」

 優斗は俺の胸元へと耳をくっつけてくる。優斗が家族相手に、ときどきやっている癖のようなものだった。

「優斗はその音が好きだな」
「うん。だいすき。ちぃにいちゃんもだいすき」
「そーかよ」
「にいちゃは?」
「にいちゃんも好きだよ」
「ふふ」

 優斗の嬉しそうな笑顔に癒やされる。かわいい弟。かわいい家族。俺はその丸い頭を撫で続ける。

『俺、ちーちゃんのこと、一度だってお母さんみたいだと思ったことない』

 まぁ、そりゃ俺は男だし。母さんと一緒にされても困る。

『なんなら、お兄ちゃんだと思ったこともない』

 問題はそっちだ。

 正直、自分が思う以上にショックを受けていた。いままでずっと、あんなにも弟のように懐いておいて? ちーちゃんちーちゃんって、それこそ優斗みたいに俺のあとをついてまわって。

 そのお前が、そんなことを言うのか?

『……俺ね。ちーちゃんが好きなんだ』

 そのお前が、そんなことを言うのかよ。

『だから、せめてあと半年、ちーちゃんの環境が変わるまで……』

 なんだよ環境が変わるまでって。俺はまだ、お前に実家()を出ることは伝えてねぇぞ。家族にも受験が失敗したときのことを考えて、周りには言うなと口止めしている。

 ……というのは建前で、極力由良の耳にはいらないようにと考えてのことだけど。

「……」
「にいちゃ?」
「なんでもねーよ。眠いなら寝ろ」

 急に手の動きが止まったことで、うとうとしていたはずの優斗が顔を上げる。背中をとんとんと撫でて促すと、ふたたび同じ姿勢に戻り、目を閉じた。
 なんで俺は、由良の耳に入れないようにしようと思ったんだろう。単に面倒だからか?
 それとも、あいつが寂しがるのがわかっていたから?

「……違う」

 なにより俺が、由良との別れを実感するのが嫌だったからかもしれない。
 でも、それはなんで?

「知らねぇよ……」

 ――頭が痛い。

 午後からはじいちゃんの手伝いに行くつもりだったけど、今日は休みにさせてもらおうか。


 ***

 ちぃ兄ちゃんが休むなら、俺が手伝いに行く。私も行く。
 午前中は遊びに出ていた小五と小六の弟妹が、昼飯の後で言い出した。

「お小遣いもらえるし」

 それが目的かよ。俺は呆れ混じりにこぼしたが、別にそれでも構わないと思った。実際、この二人は俺と一緒に店の手伝いをしたことがある。
 料理は俺ほどではないにしろ、他のことなら新しい他人を雇うよりはよほど戦力になるだろう。

「じゃあ、頼むわ。一応俺からもひとこと言っとくし」

 頭痛がやまない昼下がり、俺はそう言って二人を送り出した。その下の二人は部屋で宿題、優斗は先に母親に連れられ出かけていった。

 自室は小六の弟との相部屋だから、いまなら一人になれる。けれども、いまならリビングでもそれは同じで、俺はふたたびソファに寝転がる。テレビをつけるでもなく、スマホを弄るでもなく、そのまま静かに目を閉じた。

 勉強しなければとは思ったけれど、今日はやっぱり頭が痛い。どのみち模試は全てA判定だし、一日くらいサボったって問題はないだろう。
 とにかくいまは休みたかった。寝て全てを忘れたかった。幸い、眠気はすぐにおりてきて、まもなく俺は意識を手放した。

 ***

 翌日はちゃんと店に行った。その翌日も、そのまた翌日も。

 毎日手伝いの合間に勉強しながら――むしろ逆かも――、例によって近所の人から挿し入れてもらった野菜でおかずを作る。
 店で出すものの一部と、じいちゃんと俺たちが自宅で食べる分。俺にとって、料理はある意味気晴らしだった。

「すげぇいっぱいある……」

 色とりどりの夏野菜の箱の中には、いつになくたくさんのオクラも入っていた。

「オクラか……」

 頭に浮かんだのは、気まずそうに眉を下げた由良の顔。昔はあんなに上手そうに食っていたのに、いつのまにか食い過ぎて苦手になったと言っていた。

 その由良とはあれから顔を合わせていない。

 俺が休む休まないにかかわらず、由良も店には来ていなかった。今日もこれから昼飯時だが、この時間に来ないと言うことは少なくとも飯は家で食うということだろう。

 俺は内心ほっとして、ほっとしながらもやっぱり気になっていた。本当にちゃんと飯は食っているのか、勉強はできているのか。……残りのレシピは決まったのか。

 気がつくと窓の外ばかり見ている自分に気付いて、自嘲する。俺は誤魔化すように息をついた。

「……全部ごま和えにするか。いいよな、じいちゃん?」

 じいちゃんはいつものように、カウンターの奥で新聞を読んでいた。俺を見るともなしに頷いて、かたわらに置いていたコーヒーに口をつけていた。

「こんにちは……」

 ちょうどオクラのごま和えを作り終えたころ、カランと聞き慣れたドアベルが鳴った。

 開かれたドアから顔を覗かせたのは、初めて見る女の人だった。

「まぁ、このごま和え、とってもおいしいわ」

 目標であるじいちゃんの味に、近いものができたとは思っていた。現に味見をしてくれたじいちゃんからも、一発で合格と言ってもらった。昔は由良も気に入っていた味だ。

 それをおまけですと言ってランチにも添えた。カウンターに座り、今日のランチを食べていたその人が、目を丸くしていた。

「本当においしい……」

 感動した、ともう一切れ口にして、ふたたび口元を押さえて目を見張る。少しぽっちゃりとした体型の、小柄な女性(ひと)だった。

「ありがとうございます。それは孫が作ったもので」

 俺はカウンターを離れて勉強を再開していた。相手をしていたのはじいちゃんだ。どこか得意気に微笑み返すその表情に、なんだかちょっとくすぐったくなった。

「あの……良かったらこれ、レシピを教えてもらっても……? あ、企業秘密かしら」

 つい、と言ったふうに問いかけてから、ごめんなさいと口元を隠す。そんな彼女に、構いませんよとじいちゃんは笑った。

「千尋」
「俺?」
「お前が作ったんだから、お前のレシピを教えてさしあげなさい」

 じいちゃんに言われると断れない。俺は「わかった」と頷き、手元にあったレポート用紙に、さらさらと手順を書いていく。それを丁寧に切り離し、女性の元へと持っていった。

「ありがとう。さっそく練習してみるわ」

 差し出したそれを受け取って、女性は柔らかく微笑んだ。どこの誰かは知らないけれど、優しそうな人だと思った。


 ***

「これ、ちょっと由良のところに持ってってやれ」
「兄ちゃんが行かないの?」
「兄ちゃんはこれから優斗を風呂に入れるから」

 そう口にしたとたん、今日は母親の迎えで先に帰っていた優斗がすぐさま俺の元へと駆け寄ってくる。俺と一緒に入れるのが嬉しいらしい。そんな優斗の着替えを揃えて、早速浴室に促していると、背後で小六の弟が「中身なに?」とテーブルの上の袋を覗き込んだ。

「オクラのごま和え」
「え、いいな」
「うちのは別にある」

 端的に答えると、弟は嬉しそうに「やった!」と笑った。

「このまま渡せばいいんだよね?」
「ああ、容器はまたでいい」
「わかった」

 弟は頷き、早速袋を手に取った。

「気をつけて行けよ」
「うん。行ってきまーす!」

 玄関に向かう背中に声をかけると、そんな元気な返事に続いて、ドアの開閉音がする。

 母さんは町内会の集まりだとかで出かけていて、父さんの帰りが遅いのはいつものことだった。

「んじゃ、入るか」

 優斗に声をかけながら、まもなく俺も浴室のドアを閉めた。

 なんで俺が自分で持ってこないと思うだろうか。別に他意などないけれど、なんとなくまだ顔を合わせない方がいい気がした。

 ***

 そこから更に数日が過ぎても、由良が店に来ることはなかった。

 発表会の日はもう二日後に迫っている。あれから一切連絡もないけれど、ちゃんと準備はできているんだろうか。実力テストのことだって、ファイル(過去問)はおいてきたけれど、それだけで本当に大丈夫なのか。

 ……いや、実際のところ、由良は俺なんていなくても一人でやっていけるのではないかと思い始めていた。
 由良には俺がいなければ、なんて思っているのは自分だけで、そもそもその認識自体、間違っていたのかもしれない。
 だとすれば、むしろこれで良かったのだ。あとはこのまま、つかず離れずの距離を保っていれば――。

「……あいつ」

 そうして迎えた発表会当日、予定時刻より少し早めに家を出た俺は、先の曲がり角に見覚えのある自転車が止まっているのに気がついた。

「……おはよう、ちー……千尋くん」

 由良の自転車だった。