「ど、どうぞ」
俺は別に図書館でも良かったが、由良が「どうせならうちで」と提案してきたため、素直にそれに乗ることにした。
会話が多いことを考えると図書館では迷惑になるだろうし、レシピを考えるならキッチンがある方が助かるかもしれない。
由良以外誰もいない家に上がり込むのはどうかとは思ったが、そこはあとでおじさんに礼を言うことにして目を瞑った。
「久しぶりだな、お前んち」
由良の母親が在宅だったころには、幼稚園帰りに互いの家に遊びに行ったりすることも少なくなかった。
だがそれも由良の両親が離婚したころからなくなって、それこそここ数年は由良の部屋にまで上がり込むことはなくなっていた。
ちなみに由良が俺の家に遊びに来ることはたまにあるのだ。都合が合えば弟妹の誕生日会に来てくれたりだとか、そうでなくとも一緒に飯を食うこともなくはない。だからよけいに弟というか、なんなら家族みたいな認識になっているのかもしれない。
「リビングの方がいいかな。俺の部屋でいい?」
勉強道具が自室にある。由良は二階を指差した。二階にはおじさんの寝室と、由良の部屋、そしてもう一つ部屋があったはずだ。
「どっちでもいい。お前のいい方で」
ものを届けたりだとか、作りすぎたおかずの差し入れだとか、そういう用事で由良の家に来ることはままあった。でもそのときも入るのは玄関までで、リビングまで通されることはまれだったのだ。だけどちょうど数ヶ月前――由良の入学祝いと称して招かれたときに、久々に上げてもらったことがあった。
……なんか雰囲気が変わったな。
俺は瞬き、部屋の中を見渡した。飲み物を用意するからと促され、踏み入ったLDKはことのほか綺麗に片付けられていた。
他に目についたのはソファの色やラグの素材、そしてカーテンの模様とタッセルだった。
それまで由良の家のリビングは、おじさんと由良の二人で暮らしていることもあり、色は基本白か黒、シンプルで無地のものが多かった。そこにいまは柔らかな色合いやかわいらしいディティールのものが取り入れられている。
気のせいではないと思った。
「……」
「どうしたの? 上あがろ?」
声をかけられ、振り返る。
俺が肩から提げていたのは、由良が使っているカーキ色のトートバッグとよく似た、深い青色のものだった。それを軽くかけ直し、俺は先に歩き出した由良のあとを追う。
「なにか気になることでもあった?」
「いや、別に」
「そう?」
「ん」
俺は言葉を濁し、促されるまま由良の部屋へと踏み入った。
由良の部屋は八畳ほどで、シングルベッドとデスクの間に、正方形のローテーブルが置かれていた。冬はこたつになるタイプのその下には、夏用のラグが敷かれている。厚手ながらも、さらりとした肌触りが気持ちいいコットン素材。
俺が腰を下ろした場所は、対面ではなく由良の隣で、角を挟んだその位置の方が、レシピを考えるにも勉強を教えるに都合が良かった。
「……で、どっちからにすんだよ」
「え?」
「レシピか、実力テストの対策か」
「実力テスト……?」
由良はアイスコーヒーの入った一方のタンブラーを俺の前に、もう一方を自分の前に置いた。氷は浮いていたけれど、結露はしないタイプのものだった。
「実力テストって……夏休み明けの?」
「違うのかよ」
不思議そうに瞬く由良に、俺はかばんから取り出した一冊のファイルを示して見せた。表紙部分には〝実力テスト〟と手描きで書いたシールが貼ってある。
「あ、うそ……それも考えてくれてたの?」
「……いらん世話だったみてーだがな」
「いらん世話じゃないよ! ありがとう、助かる……っ」
由良は申し訳なさそうに、けれども嬉しそうに眉を下げる。予想は外していたみたいだけれど、この感触ならまぁ悪くない。
「でも、これじゃねぇなら、なんだったんだよ、もう一つの話って」
「あぁ、うん……」
差し出したファイルを素直に受け取って、由良は静かに頷いた。目の前に置いたその表紙をそっと撫でながら、ややしてゆっくり口を開く。
「ほんと、優しいよね。ちーちゃん」
「はぁ……?」
言われている意味がわからない。
俺はわずかに眉を寄せ、由良の顔を見返した。
「実はさ。……お父さんが、再婚を考えてるみたいで」
「え……」
……ああ、それでか。
この家に踏み込んだときの、そこはかとない違和感の正体がわかった気がした。これまで感じたことのない、第三者の気配だ。
すでに再婚話が出るほど親しくなっている間柄なら、この家にだってもう何度も顔を出しているのではないだろうか。それなら部屋の雰囲気が変わっていたことにも納得がいく。きっとおじさんにとって、その人はすでになくてはならない存在で、それでも由良のことを一番に考えてくれているのかもしれない。
「俺がいいっていえば……たぶんもう、すぐにでも籍を入れたいんだと思う」
そうでなければ、きっと俺も気付いたはずだ。おじさんがもっと堂々としてたなら、早々に近所でも噂になっていただろう。
悪いことをしているわけではないにしろ、そうなって周囲に心配されるのは確実に由良だ。隣人との距離が近い田舎町ではよくあることだった。
だからこそ由良も揺れているのだ。おじさんの気持ちがわかるから。そしてそんなおじさんにも幸せになってほしいと思いながら、一方でいまのままの生活を変えたくないという気持ちも嘘じゃないから。
「そうか……」
由良の視線はファイルに落ちたままだった。顔は笑っているけれど、その目はどこか寂しそうだった。
「いや、いいひとなんだよ。お母さんとタイプは違うけど、家庭的っていうのかな……ちょっとちーちゃんと似た感じの人で」
「俺と?」
俺はお前のかーちゃんじゃねぇけど。
あえて揶揄めかして返してやれば、由良はふふ、と呼気を揺らした。
けれども、そこではたと気がついた。
「……お前、もしかして俺のこと、かーちゃんの代わりだと思ってたのか?」
今度は真面目に問い返す。
すると由良は一瞬固まって、それから弾かれたように顔を上げた。
「そんなわけないじゃん!」
まるで信じられないとばかりに瞠目される。本当に意味がわからない、あまりに不可解、という目を向けられて、おかげで俺も神妙に、「だってお前……」と距離を詰めてしまう。
「だってお前、いま俺のこと、かーちゃんみたいって……」
「家庭的って言ったんだよ。誰もか……お母さんみたいだなんて言ってない」
由良も負けじと顔を寄せ、なかば呆れたみたいに言い募る。
「俺、ちーちゃんのこと、一度だってお母さんみたいだと思ったことないよ。……なんなら、お兄ちゃんだと思ったこともない」
「……え……」
衝撃だった。
嘘だろ。俺はずっとお前のこと、由良のこと弟のように思ってきたのに。弟みたいに大事にしてきたのに。
嘘だろ。――本当に?
「……いや、それはいいんだよ」
「よくねぇよ」
「いいんだって、ちーちゃん。だっていまはその話をしているわけじゃなくて」
思わず本音が口をついた。けれども由良はそれには構わず、話を本題に無理矢理戻す。
「だから……その、俺はもうお父さんにいいよって言おうと思ってて。でも、できれば一緒に暮らすのは春まで待って欲しいなって……」
「春まで?」
「うん。ちーちゃんが、学校を卒業するまで」
「……? なんでそこで俺?」
「だって……俺、こんなふうにちーちゃんと二人きりになりたいし」
「は?」
「……俺ね。ちーちゃんが好きなんだ。だけど、いまは俺もちーちゃんも高校生だし、二人きりで会える場所なんて限られてる。だから、せめてあと半年、ちーちゃんの環境が変わるまでは……」
「ちょっと待て。なんの話をしてる」
「え……?」
「なんで俺がお前と二人きりになるために、おじさんに再婚……同居? を待ってもらわなきゃなんねぇんだ」
「だって……他にそんな場所」
「――なにする気だ、お前」
「へ……?」
由良は瞬き、動きを止めた。気がつけばふたたび前髪が触れ合いそうな距離になっていて、俺は慌てて身を退いた。
「なにする気って……この前、ちーちゃん、俺とキス……」
「キス?!」
「……違った、の?」
信じられない。意味がわからない。あまりに不可解――。
もはやなにが違うかも判断できない。
それくらい混乱していた俺は、かたわらに下ろしていたかばんを掴んで立ち上がる――立ち上がろうとした。
だけどそれを由良が阻む。俺の腕に触れ、縋るように俺を見つめて、ゆるゆると首を振る。
「帰らないで。待ってよ、ちーちゃん。俺の話を聞いて」
「これ以上なにを聞けって……」
そんな顔をされてもこっちは困惑するだけだ。
すぐにでも由良の手を振り解き、立ち上がって、とっとと階段を駆け下りたい。振り返ることもなく家を出て、自転車をかっとばし、少しでも早くここを離れたい。
思うのに、指先から伝わる体温から、かち合った眼差しから逃れられない。
せめてもと息をつき、俺は努めて淡々と口を開いた。
「……突然家族が増えるだなんて、心細くなるのはわかる。だからそんなふうに思うんだよ」
「え?」
「でもな、由良。家族が増えるのは悪いことじゃねぇ。おじさんの選んだ相手なら、きっとお前のことも大事にしてくれる。下の部屋を見てもそれはなんとなくわかる」
「え……なに? どういうこと?」
俺の腕を掴む由良の指に力が入る。
「俺は……俺はちーちゃんに、正式にお付き合いしてくださいって……その話をしたいと思ってたんだよ」
そういうの全てすっ飛ばして、うっかりキスしそうになったことを申し訳なくなっていたから。だけどそれを拒絶されなかったことで、もしかしたらちーちゃんも同じ気持ちかもしれないと期待もしていたのだと――。
せつなげに言葉を重ねられても、俺には理解できないままだった。
そんなふうに勝手に期待されても困る。だってあれは、あのときは、自分でもなにが起こったかわかっていなくて……。
だいたい、お付き合いってなんだよ。俺もお前も男だし、物心ついた頃からのおさななじみで、言ってしまえば兄弟みたいなものなのに。
……いや、そう思っていたのは俺だけか。
「――俺はお前のこと、そんなふうに考えたことねぇよ」
静かに告げた視界の端で、高性能なタンブラーはいつかのように結露しない。浮かぶ氷は溶けにくく、あくまでもそこにあるだけだった。
「そんな……」
由良の声がかすかに震える。それに気付かないふりをして、瞬きに乗じて目を逸らす。由良の手の中からもするりと抜け出し、そのままゆっくり立ち上がる。
そうして踏み出す直前、口にする。
「――俺を逃げ場にすんな」
俺は別に図書館でも良かったが、由良が「どうせならうちで」と提案してきたため、素直にそれに乗ることにした。
会話が多いことを考えると図書館では迷惑になるだろうし、レシピを考えるならキッチンがある方が助かるかもしれない。
由良以外誰もいない家に上がり込むのはどうかとは思ったが、そこはあとでおじさんに礼を言うことにして目を瞑った。
「久しぶりだな、お前んち」
由良の母親が在宅だったころには、幼稚園帰りに互いの家に遊びに行ったりすることも少なくなかった。
だがそれも由良の両親が離婚したころからなくなって、それこそここ数年は由良の部屋にまで上がり込むことはなくなっていた。
ちなみに由良が俺の家に遊びに来ることはたまにあるのだ。都合が合えば弟妹の誕生日会に来てくれたりだとか、そうでなくとも一緒に飯を食うこともなくはない。だからよけいに弟というか、なんなら家族みたいな認識になっているのかもしれない。
「リビングの方がいいかな。俺の部屋でいい?」
勉強道具が自室にある。由良は二階を指差した。二階にはおじさんの寝室と、由良の部屋、そしてもう一つ部屋があったはずだ。
「どっちでもいい。お前のいい方で」
ものを届けたりだとか、作りすぎたおかずの差し入れだとか、そういう用事で由良の家に来ることはままあった。でもそのときも入るのは玄関までで、リビングまで通されることはまれだったのだ。だけどちょうど数ヶ月前――由良の入学祝いと称して招かれたときに、久々に上げてもらったことがあった。
……なんか雰囲気が変わったな。
俺は瞬き、部屋の中を見渡した。飲み物を用意するからと促され、踏み入ったLDKはことのほか綺麗に片付けられていた。
他に目についたのはソファの色やラグの素材、そしてカーテンの模様とタッセルだった。
それまで由良の家のリビングは、おじさんと由良の二人で暮らしていることもあり、色は基本白か黒、シンプルで無地のものが多かった。そこにいまは柔らかな色合いやかわいらしいディティールのものが取り入れられている。
気のせいではないと思った。
「……」
「どうしたの? 上あがろ?」
声をかけられ、振り返る。
俺が肩から提げていたのは、由良が使っているカーキ色のトートバッグとよく似た、深い青色のものだった。それを軽くかけ直し、俺は先に歩き出した由良のあとを追う。
「なにか気になることでもあった?」
「いや、別に」
「そう?」
「ん」
俺は言葉を濁し、促されるまま由良の部屋へと踏み入った。
由良の部屋は八畳ほどで、シングルベッドとデスクの間に、正方形のローテーブルが置かれていた。冬はこたつになるタイプのその下には、夏用のラグが敷かれている。厚手ながらも、さらりとした肌触りが気持ちいいコットン素材。
俺が腰を下ろした場所は、対面ではなく由良の隣で、角を挟んだその位置の方が、レシピを考えるにも勉強を教えるに都合が良かった。
「……で、どっちからにすんだよ」
「え?」
「レシピか、実力テストの対策か」
「実力テスト……?」
由良はアイスコーヒーの入った一方のタンブラーを俺の前に、もう一方を自分の前に置いた。氷は浮いていたけれど、結露はしないタイプのものだった。
「実力テストって……夏休み明けの?」
「違うのかよ」
不思議そうに瞬く由良に、俺はかばんから取り出した一冊のファイルを示して見せた。表紙部分には〝実力テスト〟と手描きで書いたシールが貼ってある。
「あ、うそ……それも考えてくれてたの?」
「……いらん世話だったみてーだがな」
「いらん世話じゃないよ! ありがとう、助かる……っ」
由良は申し訳なさそうに、けれども嬉しそうに眉を下げる。予想は外していたみたいだけれど、この感触ならまぁ悪くない。
「でも、これじゃねぇなら、なんだったんだよ、もう一つの話って」
「あぁ、うん……」
差し出したファイルを素直に受け取って、由良は静かに頷いた。目の前に置いたその表紙をそっと撫でながら、ややしてゆっくり口を開く。
「ほんと、優しいよね。ちーちゃん」
「はぁ……?」
言われている意味がわからない。
俺はわずかに眉を寄せ、由良の顔を見返した。
「実はさ。……お父さんが、再婚を考えてるみたいで」
「え……」
……ああ、それでか。
この家に踏み込んだときの、そこはかとない違和感の正体がわかった気がした。これまで感じたことのない、第三者の気配だ。
すでに再婚話が出るほど親しくなっている間柄なら、この家にだってもう何度も顔を出しているのではないだろうか。それなら部屋の雰囲気が変わっていたことにも納得がいく。きっとおじさんにとって、その人はすでになくてはならない存在で、それでも由良のことを一番に考えてくれているのかもしれない。
「俺がいいっていえば……たぶんもう、すぐにでも籍を入れたいんだと思う」
そうでなければ、きっと俺も気付いたはずだ。おじさんがもっと堂々としてたなら、早々に近所でも噂になっていただろう。
悪いことをしているわけではないにしろ、そうなって周囲に心配されるのは確実に由良だ。隣人との距離が近い田舎町ではよくあることだった。
だからこそ由良も揺れているのだ。おじさんの気持ちがわかるから。そしてそんなおじさんにも幸せになってほしいと思いながら、一方でいまのままの生活を変えたくないという気持ちも嘘じゃないから。
「そうか……」
由良の視線はファイルに落ちたままだった。顔は笑っているけれど、その目はどこか寂しそうだった。
「いや、いいひとなんだよ。お母さんとタイプは違うけど、家庭的っていうのかな……ちょっとちーちゃんと似た感じの人で」
「俺と?」
俺はお前のかーちゃんじゃねぇけど。
あえて揶揄めかして返してやれば、由良はふふ、と呼気を揺らした。
けれども、そこではたと気がついた。
「……お前、もしかして俺のこと、かーちゃんの代わりだと思ってたのか?」
今度は真面目に問い返す。
すると由良は一瞬固まって、それから弾かれたように顔を上げた。
「そんなわけないじゃん!」
まるで信じられないとばかりに瞠目される。本当に意味がわからない、あまりに不可解、という目を向けられて、おかげで俺も神妙に、「だってお前……」と距離を詰めてしまう。
「だってお前、いま俺のこと、かーちゃんみたいって……」
「家庭的って言ったんだよ。誰もか……お母さんみたいだなんて言ってない」
由良も負けじと顔を寄せ、なかば呆れたみたいに言い募る。
「俺、ちーちゃんのこと、一度だってお母さんみたいだと思ったことないよ。……なんなら、お兄ちゃんだと思ったこともない」
「……え……」
衝撃だった。
嘘だろ。俺はずっとお前のこと、由良のこと弟のように思ってきたのに。弟みたいに大事にしてきたのに。
嘘だろ。――本当に?
「……いや、それはいいんだよ」
「よくねぇよ」
「いいんだって、ちーちゃん。だっていまはその話をしているわけじゃなくて」
思わず本音が口をついた。けれども由良はそれには構わず、話を本題に無理矢理戻す。
「だから……その、俺はもうお父さんにいいよって言おうと思ってて。でも、できれば一緒に暮らすのは春まで待って欲しいなって……」
「春まで?」
「うん。ちーちゃんが、学校を卒業するまで」
「……? なんでそこで俺?」
「だって……俺、こんなふうにちーちゃんと二人きりになりたいし」
「は?」
「……俺ね。ちーちゃんが好きなんだ。だけど、いまは俺もちーちゃんも高校生だし、二人きりで会える場所なんて限られてる。だから、せめてあと半年、ちーちゃんの環境が変わるまでは……」
「ちょっと待て。なんの話をしてる」
「え……?」
「なんで俺がお前と二人きりになるために、おじさんに再婚……同居? を待ってもらわなきゃなんねぇんだ」
「だって……他にそんな場所」
「――なにする気だ、お前」
「へ……?」
由良は瞬き、動きを止めた。気がつけばふたたび前髪が触れ合いそうな距離になっていて、俺は慌てて身を退いた。
「なにする気って……この前、ちーちゃん、俺とキス……」
「キス?!」
「……違った、の?」
信じられない。意味がわからない。あまりに不可解――。
もはやなにが違うかも判断できない。
それくらい混乱していた俺は、かたわらに下ろしていたかばんを掴んで立ち上がる――立ち上がろうとした。
だけどそれを由良が阻む。俺の腕に触れ、縋るように俺を見つめて、ゆるゆると首を振る。
「帰らないで。待ってよ、ちーちゃん。俺の話を聞いて」
「これ以上なにを聞けって……」
そんな顔をされてもこっちは困惑するだけだ。
すぐにでも由良の手を振り解き、立ち上がって、とっとと階段を駆け下りたい。振り返ることもなく家を出て、自転車をかっとばし、少しでも早くここを離れたい。
思うのに、指先から伝わる体温から、かち合った眼差しから逃れられない。
せめてもと息をつき、俺は努めて淡々と口を開いた。
「……突然家族が増えるだなんて、心細くなるのはわかる。だからそんなふうに思うんだよ」
「え?」
「でもな、由良。家族が増えるのは悪いことじゃねぇ。おじさんの選んだ相手なら、きっとお前のことも大事にしてくれる。下の部屋を見てもそれはなんとなくわかる」
「え……なに? どういうこと?」
俺の腕を掴む由良の指に力が入る。
「俺は……俺はちーちゃんに、正式にお付き合いしてくださいって……その話をしたいと思ってたんだよ」
そういうの全てすっ飛ばして、うっかりキスしそうになったことを申し訳なくなっていたから。だけどそれを拒絶されなかったことで、もしかしたらちーちゃんも同じ気持ちかもしれないと期待もしていたのだと――。
せつなげに言葉を重ねられても、俺には理解できないままだった。
そんなふうに勝手に期待されても困る。だってあれは、あのときは、自分でもなにが起こったかわかっていなくて……。
だいたい、お付き合いってなんだよ。俺もお前も男だし、物心ついた頃からのおさななじみで、言ってしまえば兄弟みたいなものなのに。
……いや、そう思っていたのは俺だけか。
「――俺はお前のこと、そんなふうに考えたことねぇよ」
静かに告げた視界の端で、高性能なタンブラーはいつかのように結露しない。浮かぶ氷は溶けにくく、あくまでもそこにあるだけだった。
「そんな……」
由良の声がかすかに震える。それに気付かないふりをして、瞬きに乗じて目を逸らす。由良の手の中からもするりと抜け出し、そのままゆっくり立ち上がる。
そうして踏み出す直前、口にする。
「――俺を逃げ場にすんな」
