結局最後のレシピの話は詰められなかった。由良が失敗したというジュレも面白いと思ったが、それだと由良の方が納得いかないようで、またしても保留ということになった。
まぁ、気持ちはわからなくもない。だからと言って、俺がノートの端に書き留めていた他のレシピにもしっくりこないようだった。……珍しい。
普段から俺の言うことには基本逆らわない由良なだけに、そうやってたまに頑固な一面を見せられると少し戸惑うこともある。戸惑うと同時にうちの優斗とそっくりだな、なんて思っておかしくなったりもするのだけれど、最近ではあえてそれを口にはしていない。
なぜって、言うと由良が拗ねるから。本人は隠しているつもりかもしれないが、俺からすればバレバレなくらいには顔に出ていた。
……いや、俺だって別に他意があって言ってるわけじゃないんだけど。それはそれでしっかり意思表示ができるという意味では長所だと思っているし。
***
「ちぃにいちゃん! 由良くん!」
一九時前に、保育園に迎えに行った。その日はまた由良が一緒だった。
優斗はいつもの保育士のそばから、俺のもとへと走ってくる。すぐさま片手で俺の手を掴み、前回同様、他方を由良へと伸ばしていた。
「お世話になります」
遅れて近づいてきた保育士に頭を下げると、「ちょっと」というような視線を送られる。瞬いて頷くと、俺はそっと優斗の頭を撫でてから保育士の方へと歩いて行く。
優斗の手を離しても、いやだと駄々をこねたりはしなかった。大人しく由良とともに待っていてくれるらしい。こんなときは、由良がいてくれて助かったと思う。
「今日、ちょっとトイレを失敗してしまって……」
「ああ……」
なるほど。
先生は優斗に聞こえないような小声で事情を話してくれた。
要は、漏れそうと泣きそうになっていた友達に、順番を譲ってしまったばかりに自分の方が間に合わなかったということらしい。
それについてはもちろん叱ってもないし、むしろ相手を思いやれたことを褒めていますと教えてくれた。にもかかわらず、優斗は久々の失敗が悔しくて、悲しくて、そこそこの時間へこんで泣いていたとのことだった。
「わかりました。いつも丁寧にありがとうございます」
着替えたものは、規定通り優斗のリュックへ。連絡事項を聞き終え、俺はぺこりと頭を下げた。するとなぜか、そこに温かな手がのった。
「え……」
「えらいですね」
そのままよしよしと撫でられて、俺は思わず瞬いた。顔を上げると、すぐさま手は退かれたけれど、
「あ、すみません。いつもよくやってくれているなぁと思って」
言葉のわりに悪びれることなく、目の前に立っていた保育士はにこりと微笑むだけだった。
「べ……別に、俺は」
返す言葉に迷い、視線を揺らす俺に、背後から声がかかる。
「ちぃにいちゃん! 早く帰ろー!」
優斗だった。
振り返ると、優斗は由良と手を繋いだままだったけれど、いくぶん急かすように身体を左右に揺らしていた。
「あ、以上です。ゆうくんもお待たせ! 気をつけて帰るんだよ!」
保育士は俺越しに優斗にも声をかけ、俺の背中をそっと押した。言葉通りに労うような、優しい手つきだった。
俺は再度会釈を残し、由良と優斗の元へと戻った。
「なんの話だったの?」
「それは内緒」
「えー」
三人で並んで歩き出すと、ほどなくして優斗の足取りが重くなった。眠いのだと気付いておんぶしようとすると、俺がする、と先に背を差し出したのは由良の方だった。優斗は促されるまま身を委ね、いまではぐっすり夢の中だ。
「……まぁ、優斗がかっこ良かったって話」
「そうなんだ」
不服そうにしていたわりには、それだけ返せば素直にひいてくれる。なんとなく事情を察してくれたのかもしれない。
無意識に表情を緩めながら、俺は思い出すように自分の頭に触れた。
「……どうかした?」
「いや……なんか久々に撫でられたなと思って」
「……あれ、なんで撫でられてたの?」
由良の声が、少しだけ低くなる。寝た子は意外と重いだろ、なんて思いながら俺は答える。
「いつもご苦労様、みてぇな感じ?」
「ふーん……?」
「なんだよ」
「別に……。……たしかにちーちゃん、いつもみんなを撫でる方だもんね。俺も昔はよく撫でてもらったし」
視界の端で、由良は視線を前方に戻し、わずかに目を細めた。
俺は持っていた優斗のリュックを肩にかけ、そんな由良の横顔をちらりと見やる。唇の先が、こころなしか尖っている気がした。
「ちーちゃん……来週、空いてる日ある?」
ややして、由良は言い難そうに口を開いた。
「受験生に空いてる日なんてねぇけど」
「う……」
「……金曜なら空けられる。昼からでいいなら。じいちゃん午後は出かけるとかで、店閉めるって言ってたし」
「ほんと?」
俺は「ん」と頷いた。
低学年の弟妹は夏休みも基本学童に行っているし、そもそもその日はたしか母さんも家にいるようなことを言っていた。だから午前中だけじいちゃんの手伝いをして、午後からは久々に図書館にでも行こうかと思っていたところだった。
「図書館……行くつもりだったけど」
「あ、そっか、勉強……」
「まぁ、別にいい、一日くらい。俺模試の判定ずっとAだし」
「え、すごっ。さすがちーちゃん、天才だ」
時折優斗を背負い直しながら、由良が感嘆の声を上げる。
「おーげさ」
俺は思わず呼気を揺らす。
「最後のレシピ決めたのか? その話だろ」
夕暮れの名残が残る中、由良と影を並べてのんびり歩く。十中八九用件はそれだろう。思いながら問えば、由良ははっとしたように瞠目する。
「あ、うん。もちろんレシピのことも相談したかったんだけど」
「レシピのことも……? 他にもなにかあるのか?」
訝しげに目を眇める俺に、由良は取り繕うように言った。
「う、うん。その、それとは別に、もう一つ……」
「もう一つ……?」
レシピ以外――っとなると、例えば夏休み明けの実力テストのことだろうか。一年生の由良は初めてのことだし、それならそれで、俺のときの過去問でも見せてやるのが早いかもしれない。当時の自分の解答用紙も問題も、答え合わせのために配られた解説も全部とってある。順番にファイリングしたそれが、弟との相部屋のどこにあるかを思い出しながら、俺も前方に視線を戻す。
「わかった。まぁそれはそのときでいい」
「ほんと? よかった。ありがとう、ちーちゃん」
俺が頷くと、由良はほっとしたように息を吐く。
やがて分かれ道に差し掛かる。俺は思いだしたように優斗に目を向けた。
「ほら、優斗。兄ちゃんの方に来い」
「んん……、やぁ……」
「やじゃねぇんだよ。由良はここまで。こっからは兄ちゃんと――……」
「そんな遠くないし、家まで送るよ」
優斗は由良の背中に貼り付いて離れない。眠気のせいかぐずる優斗に、由良は小さく笑って言った。
「いや、んなわけには……」
言いかけた俺は、けれどもその由良の表情に結局断り切れなくなってしまう。
だってなんだよ、その表情。
そのまま俺の家の方角へと歩き出した由良は、さっきまでの様子が嘘みたいに嬉しそうな顔をしていた。
つうか、なにがそんなに嬉しいんだよ。この状況、ただ重くてしんどいだけだろ。俺は慣れてるからあれだけど、一つ下の弟だって途中で「兄ちゃん代わって」と言い出すやつだぞ。
「いいから、ほら。ちーちゃん遅いよ」
由良のからかうような声が耳に届く。
いつのまにか歩調が緩んで、由良の後ろ姿を無言で見ていた。
お前の背中、そんなに広かったっけ。
ぼんやりそんなことを思いながら、俺は由良の隣へとふたたび並んだ。
まぁ、気持ちはわからなくもない。だからと言って、俺がノートの端に書き留めていた他のレシピにもしっくりこないようだった。……珍しい。
普段から俺の言うことには基本逆らわない由良なだけに、そうやってたまに頑固な一面を見せられると少し戸惑うこともある。戸惑うと同時にうちの優斗とそっくりだな、なんて思っておかしくなったりもするのだけれど、最近ではあえてそれを口にはしていない。
なぜって、言うと由良が拗ねるから。本人は隠しているつもりかもしれないが、俺からすればバレバレなくらいには顔に出ていた。
……いや、俺だって別に他意があって言ってるわけじゃないんだけど。それはそれでしっかり意思表示ができるという意味では長所だと思っているし。
***
「ちぃにいちゃん! 由良くん!」
一九時前に、保育園に迎えに行った。その日はまた由良が一緒だった。
優斗はいつもの保育士のそばから、俺のもとへと走ってくる。すぐさま片手で俺の手を掴み、前回同様、他方を由良へと伸ばしていた。
「お世話になります」
遅れて近づいてきた保育士に頭を下げると、「ちょっと」というような視線を送られる。瞬いて頷くと、俺はそっと優斗の頭を撫でてから保育士の方へと歩いて行く。
優斗の手を離しても、いやだと駄々をこねたりはしなかった。大人しく由良とともに待っていてくれるらしい。こんなときは、由良がいてくれて助かったと思う。
「今日、ちょっとトイレを失敗してしまって……」
「ああ……」
なるほど。
先生は優斗に聞こえないような小声で事情を話してくれた。
要は、漏れそうと泣きそうになっていた友達に、順番を譲ってしまったばかりに自分の方が間に合わなかったということらしい。
それについてはもちろん叱ってもないし、むしろ相手を思いやれたことを褒めていますと教えてくれた。にもかかわらず、優斗は久々の失敗が悔しくて、悲しくて、そこそこの時間へこんで泣いていたとのことだった。
「わかりました。いつも丁寧にありがとうございます」
着替えたものは、規定通り優斗のリュックへ。連絡事項を聞き終え、俺はぺこりと頭を下げた。するとなぜか、そこに温かな手がのった。
「え……」
「えらいですね」
そのままよしよしと撫でられて、俺は思わず瞬いた。顔を上げると、すぐさま手は退かれたけれど、
「あ、すみません。いつもよくやってくれているなぁと思って」
言葉のわりに悪びれることなく、目の前に立っていた保育士はにこりと微笑むだけだった。
「べ……別に、俺は」
返す言葉に迷い、視線を揺らす俺に、背後から声がかかる。
「ちぃにいちゃん! 早く帰ろー!」
優斗だった。
振り返ると、優斗は由良と手を繋いだままだったけれど、いくぶん急かすように身体を左右に揺らしていた。
「あ、以上です。ゆうくんもお待たせ! 気をつけて帰るんだよ!」
保育士は俺越しに優斗にも声をかけ、俺の背中をそっと押した。言葉通りに労うような、優しい手つきだった。
俺は再度会釈を残し、由良と優斗の元へと戻った。
「なんの話だったの?」
「それは内緒」
「えー」
三人で並んで歩き出すと、ほどなくして優斗の足取りが重くなった。眠いのだと気付いておんぶしようとすると、俺がする、と先に背を差し出したのは由良の方だった。優斗は促されるまま身を委ね、いまではぐっすり夢の中だ。
「……まぁ、優斗がかっこ良かったって話」
「そうなんだ」
不服そうにしていたわりには、それだけ返せば素直にひいてくれる。なんとなく事情を察してくれたのかもしれない。
無意識に表情を緩めながら、俺は思い出すように自分の頭に触れた。
「……どうかした?」
「いや……なんか久々に撫でられたなと思って」
「……あれ、なんで撫でられてたの?」
由良の声が、少しだけ低くなる。寝た子は意外と重いだろ、なんて思いながら俺は答える。
「いつもご苦労様、みてぇな感じ?」
「ふーん……?」
「なんだよ」
「別に……。……たしかにちーちゃん、いつもみんなを撫でる方だもんね。俺も昔はよく撫でてもらったし」
視界の端で、由良は視線を前方に戻し、わずかに目を細めた。
俺は持っていた優斗のリュックを肩にかけ、そんな由良の横顔をちらりと見やる。唇の先が、こころなしか尖っている気がした。
「ちーちゃん……来週、空いてる日ある?」
ややして、由良は言い難そうに口を開いた。
「受験生に空いてる日なんてねぇけど」
「う……」
「……金曜なら空けられる。昼からでいいなら。じいちゃん午後は出かけるとかで、店閉めるって言ってたし」
「ほんと?」
俺は「ん」と頷いた。
低学年の弟妹は夏休みも基本学童に行っているし、そもそもその日はたしか母さんも家にいるようなことを言っていた。だから午前中だけじいちゃんの手伝いをして、午後からは久々に図書館にでも行こうかと思っていたところだった。
「図書館……行くつもりだったけど」
「あ、そっか、勉強……」
「まぁ、別にいい、一日くらい。俺模試の判定ずっとAだし」
「え、すごっ。さすがちーちゃん、天才だ」
時折優斗を背負い直しながら、由良が感嘆の声を上げる。
「おーげさ」
俺は思わず呼気を揺らす。
「最後のレシピ決めたのか? その話だろ」
夕暮れの名残が残る中、由良と影を並べてのんびり歩く。十中八九用件はそれだろう。思いながら問えば、由良ははっとしたように瞠目する。
「あ、うん。もちろんレシピのことも相談したかったんだけど」
「レシピのことも……? 他にもなにかあるのか?」
訝しげに目を眇める俺に、由良は取り繕うように言った。
「う、うん。その、それとは別に、もう一つ……」
「もう一つ……?」
レシピ以外――っとなると、例えば夏休み明けの実力テストのことだろうか。一年生の由良は初めてのことだし、それならそれで、俺のときの過去問でも見せてやるのが早いかもしれない。当時の自分の解答用紙も問題も、答え合わせのために配られた解説も全部とってある。順番にファイリングしたそれが、弟との相部屋のどこにあるかを思い出しながら、俺も前方に視線を戻す。
「わかった。まぁそれはそのときでいい」
「ほんと? よかった。ありがとう、ちーちゃん」
俺が頷くと、由良はほっとしたように息を吐く。
やがて分かれ道に差し掛かる。俺は思いだしたように優斗に目を向けた。
「ほら、優斗。兄ちゃんの方に来い」
「んん……、やぁ……」
「やじゃねぇんだよ。由良はここまで。こっからは兄ちゃんと――……」
「そんな遠くないし、家まで送るよ」
優斗は由良の背中に貼り付いて離れない。眠気のせいかぐずる優斗に、由良は小さく笑って言った。
「いや、んなわけには……」
言いかけた俺は、けれどもその由良の表情に結局断り切れなくなってしまう。
だってなんだよ、その表情。
そのまま俺の家の方角へと歩き出した由良は、さっきまでの様子が嘘みたいに嬉しそうな顔をしていた。
つうか、なにがそんなに嬉しいんだよ。この状況、ただ重くてしんどいだけだろ。俺は慣れてるからあれだけど、一つ下の弟だって途中で「兄ちゃん代わって」と言い出すやつだぞ。
「いいから、ほら。ちーちゃん遅いよ」
由良のからかうような声が耳に届く。
いつのまにか歩調が緩んで、由良の後ろ姿を無言で見ていた。
お前の背中、そんなに広かったっけ。
ぼんやりそんなことを思いながら、俺は由良の隣へとふたたび並んだ。
