由良いわく、ちーちゃんの料理教室。

 じいちゃんの店が休みの日に色々作ってみたそれは、おおむね予定通りに閉幕となった。 おおむねというのは、残り四つのレシピのうち、最後の一つがどうしても決まらなかったからだ。

 まぁ、発表会の日まではまだ時間があるし、時節もまだ八月に入ったばかり。あと一つくらい、由良だけでもなんとかなるだろう。そう思いはするものの、このままノータッチというのも気が引けて、今日も俺はノートの端にちょこちょこと思いついたレシピを書き留めてしまう。

「こんにちは!」

 そこにカランと古めかしいドアベルの音が響く。開いた扉から姿を現したのは由良で、カウンターの中からじいちゃんが「いらっしゃい」と明るく出迎えていた。

「飯は?」
「今日は食べて来た」

 昼下がり――いつもより少しだけ遅い時間だった。由良の家はここから徒歩圏内にあるけれど、今日は自転車で来たらしい。テーブルに置かれたかばんの横に、置かれたのは小さな鈴のついたディンプルキーだった。
 当たり前のように俺の向かい側へと腰を下ろした由良は、額からこめかみへと伝う汗を手の甲で軽く拭っていた。

(……あ)

 拭い損ねた雫が、顎先まで滑り落ちる。いまにもテーブルに落ちそうに見えて、俺は思わずかたわらの紙ナプキンに手を伸ばす。引き抜いた一枚を由良の顔にぺたんと押し当てれば、当然のようにそれは肌へと貼り付いた。

「え」
「あ、いや……汗、落ちそうだったから」

 タオルくらい持って来いよ。
 言えば由良は思い出したようにカバンの中を覗く。帆布生地のトートバッグはカーキ色で、それはいつかの誕生日に俺が贈ったものだった。多くない小遣いで買ったこともあり、大して高くもないものだったが、予想以上に使ってくれているのは俺も知っている。

「あるよ、タオル。ほら」
「あるなら使えよ」
「そうだね」

 取り出した空色のフェイスタオルを掲げながら、由良は少しだけ気恥ずかしそうに眉を下げる。それからまた微笑って言った。

「拭いてくれてありがとう、ちーちゃん」

 別に礼を言われるようなことはしていない。呆れ半分に小さく肩を竦めると、由良は顔に紙ナプキンを貼り付けたままへらりと破顔した。


 ***


「さて、じゃあちょっと行ってくるから、いつも通り店番よろしくな。千尋」
「ん」

 一時間ほどが経ったころ、カウンター内に座っていたじいちゃんがいったん店の奥へと消えた。外したエプロンは椅子にひっかけられていて、ふたたび姿を現したじいちゃんの頭には見慣れた帽子がのっていた。

 つばが広めの、生成りのバケットハットは弟たちからの今年のプレゼント。自転車に乗っても脱げないよう紐もついている。

「暑いから気をつけろよ」

 扉へと向かうじいちゃんを追って席を立ち、店の外までついていく。刺すような日差しに思わず顔をしかめながら、やまない蝉の声に負けじと声を張った。

「別に急がなくていいから」
「ああ、今日はちょっと長くかかるかもしれん。手品を見せてくれるらしくてな」
「手品? ……ばあちゃんが?」
「そう。なにやらお楽しみ会なるものをするらしい。楽しみだろ」
「それは楽しみだな。店のことはいいから、ゆっくり見てこいよ」

 嬉しそうに教えてくれるじいちゃんに、自然と俺も笑顔になる。
 ばあちゃんが施設に入ったきっかけは交通事故だった。青信号を渡っていたところを、脇見運転していた車に突っ込まれたのだ。

 幸い命はとりとめたけれど、頭を強く打っていたせいか、それ以降、記憶が曖昧になることがあった。そのうちに少しずつ認知のような症状も出てきて、住み慣れた自宅すらわからなくなるようなことも増えてきた。その結果、受け入れてもらったのがいまの施設だった。

 もしかしたら、ばあちゃんはいずれじいちゃんのことも忘れてしまうのかもしれない。そうならなければいいと思うけれど、すでに弟の名前なんかはときどき出てこなくなっている。
 まぁ、いまのところ、じいちゃんと俺のことだけはしっかり覚えているみたいだけど。

「ばあちゃんによろしく。今度ちーにも見せろって言っといて」
「わかった」

 じいちゃんは頷き、ふらつくこともなくペダルを踏み込んだ。その背はあっという間に小さくなる。大丈夫。じいちゃんはまだまだ元気だ。

「……これ、使う?」

 由良以外、客のいない店内に戻ると、氷の浮かぶ冷たい水のグラスとともに一枚のタオルを差し出された。さっき由良がかばんから取り出したものだった。
 俺は瞬き、からかい半分に目を眇めた。

「いいわ、お前が使ったやつだろ」
「え、待って、俺ってそんな臭い?! っていうか、違う違う、そもそも使ってないから! 洗い立てだよ!」
「そうなのか?」
「だって俺の汗はちーちゃんが拭いてくれたじゃん」
「そうだっけ」

 白々しくとぼけながら、ひとまずグラスを受け取った。口元に引き寄せ、ごくごくと嚥下する。一気飲みするには氷が邪魔だなと思ったが、どうにか全部飲み干した。数分外に出ていただけで汗ばんでいた身体にはしみるようだった。

「それはあれだ。俺も紙でいいわ」

 氷だけが残ったグラスをおろして、差し出されたままの未使用(らしき)タオルを一瞥する。かたわら、間近のテーブル席の紙ナプキンを一枚抜くと、うっすらと汗の浮いた額を軽く押さえた。

「水、おかわりいる?」
「いや、コーヒー入れるわ。お前も飲むだろ? カフェラテにするか? カフェオレ?」

 ぺたぺたとこめかみや頬まで拭いながら。俺は由良の横をすり抜けカウンターに向かう。

 俺はもともとエプロン姿で、その下はアウトレットショップで買ったTシャツにハーフパンツ。黒の上下は最初からセットのもので、値段のわりに生地もしっかりしていて、ずいぶんと重宝しているものだった。

「コーヒーなら俺も入れられるよ。前に教えてもらったし」
「え?」
「ちーちゃんは座っててよ。で、ちょっと休憩しよ」

 俺を追って来た由良は持っていたタオルをカウンターの上に置き、椅子にかけてあったじいちゃんのエプロンを手に取った。

「……だめ?」

 けれどもそれをすぐに身に着けることはなく、いったんそこで動きを止める。窺うように俺を見て、わずかに首を傾ける。

「別にだめじゃねぇけど……」
「じゃあ、決まり。俺がハンドドリップしていいよね?」
「ああ」

 座ってろ、と言われたことにはすぐには従わず、俺は俺で軽くつまめるものを用意する。
 じいちゃんが昨日、サービス用のフィナンシェを焼いていたから、それを少しいただくことにしよう。


 ***


「どうかな。上手くできてる?」

 淹れたてのコーヒーの香りが店内を満たしている。嗅ぎ慣れたはずのそれにも自然と気が緩んで、無意識にほっと息が漏れた。

「ん。上出来」

 端的に返すと、由良はほのかに目端を染めて、花が咲いたように微笑んだ。
 誰もいないのをいいことに、いつものテーブル席ではなくカウンターの真ん中に並んで座っていた。ここの方が片付けが楽なのもあった。

「このフィナンシェもおいしい」
「これはじーちゃん作だわ」
「し、知ってたよ」
「まぁ、俺のレシピは基本じいちゃんのだから、似てて当然ってとこだけどな」

 腕はまだまだだけど。
 と、俺は手の中のグラスを傾ける。

「そんなことないよ。ちーちゃんのごはんは世界一おいしい」
「またお前はそういう……」
「ホントのことだし」

 視界の端で、由良はあいかわらず嬉しそうに破顔していた。なにがそんなにと思うほど幸せそうに。

「……あっそ」

 そんなふうに言われると、自分でも満足しているわけじゃない腕をもっと上げたくなってしまう。じいちゃんはもともと料理人の道にいた人だから、片手間の俺に敵うはずがないのはわかっている。だけどじいちゃんの作るものは本当に美味いから、それを普段できあいの飯の多い由良に少しでも食べさせてやりたいと思っているのも事実だった。
 だから、それなら、俺ももう少し料理がうまくなりたい。由良のために。

 ……由良のために?

「カフェオレもうまぁ」
「出た、自画自賛」
「ちーちゃんが教えてくれたからだよ」
「またそれだ。なんでもかんでも俺に結びつけんじゃねーよ」
「だって実際そうじゃん」

 まぁ、たしかに由良にそういうことを教えるとしたら、おそらくいまは俺しかいない。
 母親はとっくに家を出ているし、父親も家事が得意というわけでないため、帰宅が早いときも惣菜や弁当を買って帰るなり、そうでなければ外食に連れ出すことが多いらしい。

 それはそれで原則自炊、外食も少ない我が家からすれば贅沢だと思うけれど、由良はたとえ失敗したとしても、俺の飯を食べたがるところがあった。

「……物好きだな」

 グラスの中でからんと氷のぶつかる音が響く。汗はもうすっかり引いて、客のいない店の中はかえって寒いくらいになっていた。

「ちーちゃん」
「なんだよ」

 天板に下ろしたグラスの側面を、結露した雫が落ちていく。下に敷いていたコースターは布製で、染みこんだそこだけじわりと色が変わった。

「……俺さ」

 由良は持っていたグラスを両手で包み、その中へと視線を落とす。

「本当は、ちーちゃんのごはんだけじゃなくて……」

 摘まんだフィナンシェを口へと寄せながら、俺は由良を見返し瞬いた。由良は俯いていた顔を上げる。
 俺は思わず動きを止めた。

「……ついてるぞ」

 いまにもくわえようとしていたフィナンシェをおろし、他方の手を由良の顔へと近付けた。
 口端に焼き菓子のかけらがついていた。子供かよ、なんて笑み混じりにこぼしながらとってやると、次には自分の口へとそれを運ぶ。

「え……」

 由良が一瞬固まった。

「は?」

 俺はなんとも思わずに、ただ小さく首を傾げた。

「ち……ちーちゃ、なに……、なにして……」
「なにって?」

 由良の頬が突然真っ赤になる。グラスを手放し、交差させた腕で顔を覆う。
 なのに次には片手が俺の方へと伸びてきて、ぺろりと指先を舐めたその手首を掴み、取り返すように引き寄せられた。

「なに、なんだよ」

 俺は驚き、瞠目する。

「なんだよはこっちのセリフだよ……!」

 ……俺はゆうくんじゃないんだよ。
 手は離さないくせに、逃げるようにまた俯いて、こぼされた声は小さすぎて聞こえない。

「なんだって……?」
「だ……だって、俺……」

 するとややして、由良は静かに背筋を伸ばした。かと思えば射るように見据えられ、俺はそのまま口を噤む。

「俺……」

 由良の顔がゆっくり近づいてくる。カウンター席に並んで座っているせいで、いつもよりずっと距離が近い。
 額が触れ合うほどに近くなっても、視線がほどかれることはない。俺も俺でどういうわけか動けなくなっていて、

「ゆ……」

 辛うじて紡いだ声もまともな音にならなかった。

「だって、ちーちゃんが……」

 鼻先が掠めて、呼吸の機微まで伝わってくる。由良の視線がわずかに落ちた。伏せられた瞼を縁取る睫毛は意外と長い。なんて、考えている場合じゃなくて――。

「ねぇ、ちーちゃん……いいの? 俺――」

 カララン。
 聞き慣れたドアベルの音が響く。
 張り詰めていた空気が一気に弛緩して、止まっていた時間が動き出すみたいに、由良ははじかれたように俺の手を離し、身を退いた。

 「こんにちはぁ」といくぶん間延びした穏やかな声がそこに続く。
 たちまち現実に色が戻った気がした。


 ***


「ランチお願いできるか? もう時間終わってるかな」
「別にいーよ。時間なんてあってないようなものだし」

 午後の診察時間の前にと、やってきたのは近所で小児科を営む白髪の開業医――普段の俺の呼び方で言えば〝先生〟だった。
 先生はハンカチで汗を拭きながらドアを開け、勝手にいつもの席に座った。入口からほど近い、観葉植物が目隠しとなっている二人がけのテーブル席。

「いらっしゃい。外暑かっただろ」

 俺が水を持っていくと、先生は溜息混じりに眉を下げ、

「暑いってもんじゃないな。外に出るのが躊躇われる気温だ」
「じゃあ大人しく家にいりゃ良かったのに」
「いま、奥さん旅行中なんだ。食べるものがなにもなくて」
「は、かわいそ」

 早速氷の浮くグラスに口をつけながら、「そうだろう?」と笑って俺を見た。別に困っているふうもない笑顔だった。先生のところはよく別々に好きなことをしているけれど、それでいいし、それがいいんだとじいちゃんに話しているのを聞いたことがあった。それぞれいろんな形があるみたいだけど、ひとまず夫婦仲は良好らしい。

 まぁ、俺だって本気で「かわいそう」だなんて口にしたわけじゃない。それがわかっているから、先生もそれすら楽しいように笑っているんだろう。

「なにがいい? 冷製パスタとかならすぐできるけど。朝作ったラタトゥイユで作るやつ。温かい方が良かったら温かいのも……」
「冷たいのをもらおうか。コーヒーはホットにして、一緒に出してもらえれば……」
「あ、じゃあコーヒーは俺が入れます!」

 相手は一人だし、メモをとるほどでもない。カウンターに戻りながら聞き取りをしていると、由良が口を挟んできた。
 先生は由良のかかり付け医でもあるけれど、弟妹の付き添いもあってたびたび顔を出している俺ほど親しいわけじゃない。
 それでも顔見知りには違いなく、客が先生だとわかったときにはちゃんと会釈をしていたし、それに気付いた先生も嬉しそうに笑顔を返していた。

「あ、だめ……ですか?」
「わしは別に構わんよ」

 俺も先生も一瞬目を丸くしたけれど、子供のように背筋を伸ばし、片手を挙げていた由良の姿に同時に笑って、

「じゃあ頼むわ」

 それならと俺も小さく頷いた。
 まぁ、さっきと同等の味が出せるなら問題はない。どのみちランチタイムのドリンク(コーヒー)はサービスだ。少しくらいなら先生も大目に見てくれるだろう。


 ***


「ごちそうさまでした。美味かった。ちーちゃん、また腕上げたなぁ」
「別に大したもん作ってねーし」
「そんなことないです。おいしかったです」

 結局、先生に作ったパスタとは別に、同じものをもう一つ用意した。味見がてらということもあって俺とシェアする形にはなったけれど、そっちはそっちでちゃんと盛り付けて由良に渡した。先に説明した通り、新鮮野菜のラタトゥイユに、トッピングとして生ハムとバジルを添えていた。

「由良くんのコーヒーも美味かったよ。これで午後からの診察も頑張れそうだ」

 先生は見せ付けるように力こぶを作ってみせる。捲られた袖から覗く腕は細くはないが、太くもない。大して筋肉が盛り上がっているようにも見えなかったが、俺は「そりゃよかった」と労っておいた。

「俺のは、全部ちーちゃんのおかげです」
「俺はなんもしてねぇわ」
「コーヒーの入れ方、教えてくれたのもちー……千尋くんなんで」

 カウンターの前に立っていた俺の横で、由良がはにかむように言った。先生は「そうか」と笑って立ち上がる。

「ちーちゃんはなんでもできるもんな」
「はい、本当にすごいです」
「たまにはわしも見習わなきゃなぁ」
「よく言うぜ」

 俺はそんな二人をみやって、言ってろとばかりに肩を竦めた。

「ごちそうさん」

 この店のランチは、メイン料理にサラダとデザート、ドリンクがついて九〇〇円。先生はいつも千円札を出してくるけど、おつりを受け取ってくれたことはない。
 今日もそれは変わらずに、先生は「また来るよ」と、朗らかに手を振って帰って行った。


 ***


 先生が帰った後、俺はいつも通り食器を下げてテーブルを拭いた。洗い物は由良が買って出てくれたから任せることにして、俺はその間、由良が入れてくれたアイスカフェラテを飲んでいた。

 いくら自分がやると言ったからって、こんなに甘えていいんだろうか。思うけれど、これが本当の兄弟ならきっと素直に任せている。それも自立の一つに繋がることを知っているから。
 自分でできることは自分でやる。それはうちが大家族だからこその家訓みたいなところではあったけれど、一人っ子の由良だってそれができたらこの先ずっと楽になるだろう。

 先生が言ったように、なんでもできる、とまではいかなくても、少しでもできることが増えれば、その分「ちーちゃんちーちゃん」といちいち泣きついてくるようなことも減るはずだ。

 由良の父親(おじさん)の育て方を否定しているわけじゃない。なにかと俺の助けが必要な由良もそれはそれでかわいいとは思うのだ。思うけれど、結局のところ由良は他人で、俺との関係なんて単なるおさななじみでしかない。そんな俺がいつまでも面倒をみてやれるわけじゃないし、いずれは由良の方から離れていくことだってあるだろう。そうなったとき、少しでも困らないようにしてやりたい。

 実の兄弟じゃないからこそ、よけいにそう思うのかもしれない。
 そしてその思いは、夏休みに入ってともに過ごす時間が増えれば触れるほど、日に日に大きくなっていた。

「最近は家でも洗い物は俺がやってるんだよ」

 ……じゃあ、いいか。少なくともそれが由良の成長に繋がっているなら。「ふーん?」と短く答えた俺に、由良は嬉しそうに微笑んだ。それだけで褒められた気にでもなったのかもしれない。まぁ、実際すげぇじゃん、とは思ったけれど。

「ちーちゃん、おかわりは?」
「いまはいい。とりあえずそろそろ勉強再開だ。最後のレシピもまだ決まってねぇんだろ」

 片付けを終えて戻ってきた由良に、いつものテーブル席を目線で示唆する。

「はぁい」

 由良は大人しく頷いた。あとはそれぞれ、カウンターに置いていたグラスとコースターを持っていつもの席へと移動した。

「……この前、オクラをもらってさ」
「ん?」

 向かい合って腰を下ろし、広げたノートに目を落とす。そのまま数学の過去問を解いていたら、ふと思い出したように由良が言った。

「この前のゼ……てりーぬ? だと食べられたと思って、もう一回やってみたんだけど、一人だとやっぱり難しかった」
「ふは。失敗したのかよ」
「失敗っていうか……まぁ、そう。味は悪くなかったんだけど、見た目が……見て、これ」

 由良はスマホを取り出し、一枚の写真を見せてきた。

「画面暗い、もうちょっと明るくしろ」

 目を凝らすようにして覗き込むと、ふわりと互いの前髪が触れた。

「あ、ごめんっ」

 由良がはじかれたように身を退いた。慌てて俯き、画面を操作するその耳が少し赤く見える。

「……」

 そこでふと思い出す。
 さっきもこんなふうにならなかったか?
 先生が来る直前、なんだか由良との距離が妙に近くなって……あのとき、由良はなんて言いかけたんだった?

『だって俺』
『だってちーちゃんが』
『ねぇ、ちーちゃん……いいの? 俺――』

 記憶を辿れば、唇を掠めた吐息の熱さまで思い出して、俺は思わず動きを止めた。

 ――なにがいいんだよ。

「ちーちゃん?」
「は?」
「え?」

 問い返されて、ようやく我に返る。

「あ、いや……」

 瞬いて由良を見返すと、由良はもういつも通りの表情をしていた。あどけなくわずかに首を傾げ、じっと俺を見つめてくる。

「これ……なんだけど」
「……どれだよ」

 今度はこっちが赤くなる番だった。なんで? なにが? 理解できないまま、俺は示された先に目を向ける。
 そこにには、涼しげなガラスの皿にのせられた、テリーヌらしきものが映っていた。なるほど、見たところゼリーが上手く固まらず、具材ともどもばらばらになってしまったらしい。

「ゼリーが緩かったんだな」
「うん、たぶん」
「こんなの、そういうもんですってことにしとけばいい。最初からこれを狙ったみたいな顔しとけば誰も疑わねぇ」
「そういうもの?」
「あぁ、ジュレ仕立てってやつ」
「ジュレ、仕立て……?」
「そう。ジュレサラダ、ジュレ寄せ、とか言われたりもする。そんな感じ」

 なんでもないように言いながら、気持ちはまだどこか落ち着かない。俺は誤魔化すようにグラスを引き寄せ、ごくごくと音を立ててカフェラテを飲んだ。

「……? ちーちゃん?」
「やっぱおかわり」

 空にしたグラスを差し出すと、由良は瞬き、ゆっくりそれを受け取った。スマホを置いて席を立つその背を視界の端で見送って、俺は静かに息を吐く。
 なんだかよくわからない心地になっていた。ただそのときのことを思い出すとどきどきと心臓がうるさくなって、けれどもその理由がなにかはわからない。

 距離の近さなんてこれまでと変わらないつもりなのに、とたんにこのままではいけない気がした。やっぱり由良とは離れなければ。
 由良にとってもその方がいい。
 どのみち、遠くない将来、そのときはやってくるのだから。

 だって俺は、春には進学のために実家()を出る。