そもそも、なんで由良は家庭科部に入ったんだろう。

「千尋くん」

 聞き慣れないそれに、俺はすぐに反応できない。

「ちーちゃん」

 呼び直されて、はっとした。

「あ?」
「ゆうくん、出てきたよ」

 目を向けると、由良が園の玄関口を指差していた。
 ゆうくんとは末弟の愛称だ。名前は優斗。母親に頼まれて、俺が考えた名前だった。
 十九時前になり、予定通り保育園に向かった。なぜか由良もついてきてしまったが、帰る方向も同じだから追い払うこともできない。

小鳥遊(たかなし)さん、お待たせしました」

 ほどなくして顔見知りの男性保育士(自称二十七歳)から優斗を引き渡される。百九十近くありそうな長身の彼は愛想がよく、保護者からの人気も高かった。俺が迎えに来たときも特別扱いはせず、それでいて高校生でもわかりやすいように対応してくれるのがありがたかった。
 優斗は大人しく俺の横に並んで手を握った。他方は当然のように由良へと伸びて、繋いでもらった手を楽しそうに揺らしていた。

「千尋くん」
「……なんだよ」

 自分で呼ぶなと言っておいて、違う呼び方をされるとそれはそれで変な感じがした。だからといってそう口にするのも憚られ、俺はなんでもないように先を促す。

「言いたいことがあるなら早く言え」
「あ、うん……」

 珍しく由良は口ごもった。

 本当なら優斗の迎えに付き合うこともさせず、早く家に帰したかった。
 由良の家とは家族ぐるみのつきあいがある。由良が小学校にあがったとたん、離婚して(家を出て)しまった母親とはめったに会うこともないらしいが、それでも気さくで優しい父親がそばにいることを知っている。俺の都合で、よけいな心配をかけたくなかった。
 だけどいまの由良の様子は少しおかしくも見えて、

「どうした」

 俺は窺うように問い返す。由良はわずかに視線を揺らす。

「うん……いや、その、……次の課題、どうしようかと思って」
「次の課題?」
「夏野菜を使ったレシピって言ってたよね。夏休み中に一〇品作ってレポートにもまとめるってやつ」
「は……?」

 俺は思わず目を見張る。足まで止めて、由良の顔を見返した。

「いや、だって一〇品って多すぎない? 俺そんな料理得意でもないのに……そんなに考えられないよ」

 つられて立ち止まった優斗に手を引かれ、驚いたように由良が振り返る。

「ちーちゃ……千尋くんは楽勝だろうけどさ」
「……そんなんで、お前……」

 なんで家庭科部になんか入ったんだよ。
 そもそも由良は運動神経もいいし(俺も悪い方じゃないけど)、いくつもの運動部から声をかけられていたのは知っていた。

「それはだって……」
「だって?」
「……千尋くんのご飯が食べたかったから?」

 なんだそりゃ。
 ぽかんと口を開けてしまった俺は、深い溜息を落として歩き出す。優斗もすぐにそれに続き、遅れて由良も隣に並ぶ。

「俺の飯が食いてぇだけなら、じいちゃんの店に来たらいいだろ」

 吐息混じりに続けると、由良は小さく苦笑する。

「だってそれだけじゃ足りないから」

 そのくせ厚かましいまでに言い切られ、俺は思わず由良を見返した。
 まぁでも、こいつは兄弟もいないし、父親がいない日は常に一人だ。常に騒がしい我が家を思うと想像もつかないけれど、何かと人恋しく感じることもあるのかもしれない。

 高校一年。二つしか違わないとはいえ、こいつはそこそこ甘やかされて育っている。父親であるおじさんも家族は由良ひとりだ。となればそうなってしまうのもわからなくはなかった。

「……まぁ、いーけど」

 ふいと前方に視線を戻し、俺は呟く。
 別にすべてが由良のためというわけじゃない。あれもこれもついでだし。飯を作るのも、勉強を見てやるのも、結局は自分のためでもあるからで――。

「ちゃんとまっすぐ帰れよ」
「うん。ありがとう。勉強、わかりやすかった」
「満点しか認めねぇからな」
「う……がんばる」

 分かれ道にさしかかり、俺はいったん立ち止まる。わかっていたように優斗も由良の手を離し、俺の服をぎゅっと握った。名残惜しそうに由良を見上げ、ひらひらと小さな手を振って見せる。

「ゆうくんもまたね」

 由良が優斗に目を向け、にこりと微笑む。

「じゃあな」
「うん。また」

 ここからの道は正反対。俺は優斗の手を引き、身体の向きを変える。そうしながら、

「……レシピは、今度一緒に考えるのでもいいだろ」
「え、いいの?!」
「いいのって、おまえが言ったんだろうが」
「ありがとう、ちーちゃん!」

 振り返ることもなく告げると、由良はたちまち嬉しそうな声を上げた。
 由良がすぐに背を向けないのはわかっていた。いつもそうして俺のことを見送るのだ。優斗がいようといまいと、別れたときにはいつもそうだった。

 幼稚園の時からずっと。