夏休みに入り、由良が遊びに来ることになった。
俺は無事志望校に受かり、予定通り、春からは一人暮らしを始めている。新築ではないものの、手入れの行き届いたきれいなマンション住まい。
部屋は四階の一番奥にあり、エレベーターはないものの、間取りは2LDKと十分すぎる広さがあった。シャンプードレッサーもついているし(ここにこだわりはなかったが)、バストイレもちゃんとわかれている。
バス通りからは少し奥まった場所にあるけれど、周囲の建物は低いし、部屋は南向きで日当たりもよかった。
ちなみに、この部屋を紹介してくれたのは親族が不動産関係の仕事をしているという由良の新しい母親で、ちょうど借り手を探していたという物件を格安で貸してもらえたのだった。
最寄りの駅までは主にバスで移動。そこから電車を乗り継いで、二時間ほどかければ実家に帰れる。
現在俺は週に三、四日バイトを入れていて、夏休みも帰省する予定の盆以外はそのつもりだった。
そんな中、由良が遊びに来たいと言い出したのは夏休みに入ってからのことだった。
これまでも日帰りで顔を出しに来たことはあったし、別にそれは構わなかったが、そのまま数日泊まってもいいかと言われると正直少し考えた。
考えた――迷ったのは、この期に及んで俺にはまだ覚悟ができてなかったということかもしれない。
まぁ、結果的にはなんでもないふりをして、はいはいと了承を伝えたのだけれど。
だって遊びに来るとは言っても、由良が最初に上げた理由は夏休みの宿題と家庭科部の課題の相談だ。そんなふうにいわれると余計無下にもできず──そうしていま、由良はいくぶんそわそわとした様子で俺の前に座っている。
「あいかわらず明るい部屋だね」
「南向きだからな」
「ベランダも広いし……俺もこんな部屋に住みたいな」
ベッドの前へと置かれた木目調のローテーブルは、由良の部屋にあったのと同じで冬にはこたつにできるものだった。違うのは由良のものより一回り小さいことくらい。
俺はそこにタンブラーを二つおいて、向かい側に腰を下ろした。一人暮らしを始めたときにじいちゃんにもらったステンレス製のそれは、二重構造となっていて結露もしないし、保温保冷もよく効くから重宝している。それぞれの前へと滑らせたその中身はアイスカフェラテだ。
「ん……! これ、うちと同じ味だ」
まぁ、それはそうだろう。だって由良のうちが導入したマシンと同じもので入れたんだから。粉だってメーカー推奨の定番のもので、入れ方はボタン一つで特に調整もしていない。
「あ、そっか。そういえばお父さんがお祝いに贈ったって……」
「ん。ありがたく使わせてもらってる」
人気が出すぎて品薄となり、実際に受け取ったのはつい先日のことだったが、由良の父親から入学祝いのご祝儀ということで贈ってもらったのがそれだった。
引っ越す時には直々に挨拶にも来てくれて、今まで由良のことを気にかけてくれて本当にありがとうと頭を下げられた。これからは新しい母親と二人でしっかり見ていきますとも添えられた言葉に、なんだか妙にほっとしたのを覚えている。
というか、そもそも響子さんがあの日、じいちゃんの店に来たのも偶然ではなく、おじさんから由良が世話になっていると聞いてのことだったようだから、やっぱり遅かれ早かれ上手くいっていたのではないかと思う。それだけ由良のこともちゃんと考えてくれていたということだろうから。
「――で、みんな元気にしてんのか?」
「元気元気。響……お母さんも元気だし、知紗もぐんぐん大きくなってる」
めったに会うことはないながら、実母とも特に不仲というわけでもないからだろうか。由良はまだ響子さんをお母さんと呼ぶことに慣れていないらしい。それでも新たにできた妹のためにもと、日々練習中とのことだった。
まぁ、俺は今更どっちだっていいとは思うが(両親も無理しなくていいと言ってくれているようだし)、それでも妹のためにと奮闘するその姿は素直に格好いいなと思う。早くもお兄ちゃんが板についてきたというか、ちょっといままでにないときめきを覚えそうになる。
……って、なんだよときめきって。
「妹、お前にも似てかわいいもんな」
「そうなんだよ。よく言われる。そっくりですねって。ちーちゃんもそう思う?」
時折カフェラテを挟みながら、嬉しそうに破顔する由良に、俺は「思う思う」と頷いた。これもそろそろ恒例になっているからだ。
突然この年で下ができるなんて……と、一応には不安がっていた由良だったが、実際妹が生まれてみれば、そんな気持ちも吹き飛んだらしい。
なにかにつけ妹――知紗の写真が送られてきて、先日も「ゆら」って呼んでくれたと大興奮だった。
まぁ、普通に考えて、まだ二ヶ月やそこらの赤ちゃんがそんなはっきりしゃべるわけもねぇんだけど。
「で……ちーちゃんに会ったらさ、伝えておきたかったことがあって」
「なんだよ、改まって」
問い返すと、由良はわずかに背筋を伸ばす。
「実は……知紗の名前、俺がつけたんだけど……」
「うん? あぁ、そんなこと言ってたな」
「その……知紗の〝ち〟は、ちーちゃんからもらっちゃいました」
「……はぁ?!」
由良が両親から、命名権を与えられた? という話は聞いていた。そして〝知紗〟とつけたのだということも。
だが、それが俺の名前由来だったとは初耳だ。
「……事後報告になってごめん。先に言ったら、だめだって言われる気がして」
「そらそうだわ」
「だよね?!」
俺は呆れながら溜息をつく。半眼で由良の顔を見返して、けれどもそこで静かに目を伏せた。
「あれ? 意外と怒らない……?」
「まぁ、今更だしな。お前のかわいい妹の名前にケチつけたくはねぇし。実際、知紗って名前はいい名前だと思うし」
「え、ほんと? やった、嬉しい!」
由良はあからさまにほっとした顔をして、ふたたびタンブラーに口をつける。
……まぁ、うん。いい名前だとは思う。それは嘘じゃない。
「……? どうかした?」
俺も自分のカフェラテに手をつける。誤魔化すように傾けて、冷たいそれを喉奥へと流し込む。
まぁ、うん。別に嘘は言っていない。言っていないが、そこから思い出してしまったことがあった。
俺は由良のように直接言ったりはしないけれど、実は俺も昔、由良と同じことをしていたのだ。
優斗の名前は、俺がつけた。
小鳥遊優斗。ゆうと。その〝ゆ〟というのは――。
「ちーちゃん?」
「ちーちゃん言うな」
「え、突然!」
「うるせぇな」
俺はタンブラーを呷って空にすると、おかわり入れてくるとだけ残して席を立った。
由良は不思議そうに俺を見ていた。キッチンへと続く扉を閉めるまで、視線を感じていた俺は、
「……ンだよ、ふざけやがって……」
一人になって、ようやく息をつく。
由良と考えることが一緒だなんて、認めたくない。認めたくはないけれど、結果は見ての通りだった。
◇◇◇
「……お前、勉強は」
「ちょっとくらい、大丈夫だよ」
「はぁ……? お前も来年は受験生だろうが。こういうのはこつこつやっておかねぇと……」
「だって、このまま行けば間違いないっていわれてるし」
「どこの学校だよ?」
「それは内緒」
夜になり、俺の作った親子丼を食った後、順番に風呂に入って、寝支度を整えた。そのあとは久々にのんびり一緒にテレビを見たりして――あまりに平穏な時間に、俺も少しばかり気が緩んでいたらしい。
ベッドに座っていたのもいけなかった。由良はラグの上に座っていたけれど、トイレと言ってたち上がったその後、戻ってきてからは床には腰を下ろさずに、
「ちー……千尋くん」
ひそめた声でそう呼びながら、不意に俺の眼前を影で覆った。
瞬いた視界が、由良の顔でいっぱいになる。かと思えば口元を吐息がかすめて、そして、
「ん……っ」
気がつけば唇が重ねられていた。
「……っ、ん、……ふ」
最初は啄むだけだったそれが、少しずつ押し付けられるみたいになって、やがて薄く開いた唇が食むように表面を撫でてくる。
とっさに逃げようと頭を退けばそのまま後ろに押し倒されて、ふたたび触れ合った唇の隙間から、今度は舌先が滑り込んできた。
由良とキスをしたのは、これが初めてではなかった。最初は卒業式の日だ。
春までは保留と言った俺の約束を由良はしっかり守って、守ってくれたから、俺もそこはちゃんと守った。
……まぁ、気持ちの上ではとっくにそのつもりだったから、特に迷うこともなかったし。
その間、特に気持ちが揺れるようなことも一切なかった。
それ以外では、春休み。由良が言うところのデート中。引っ越しの日にも、周りから隠れてキスをした。
だけど、そのどれもが子供みたいに、それこそ優斗が俺にしてくるようなかわいらしいものだった。
だから、なんていうか、
「んん……っ、ぅ……!」
こんなキス、俺は知らない。
酸欠めいた眩暈に頭がくらくらする。眦が熱を持って、視界が滲む。肌が粟立ち、全身が火照っているような錯覚がする。
「ちーちゃ……かわいい」
濡れた唇を舐められ、そこに由良のかすれた声が落とされる。見上げる視線の先で、由良は俺に覆い被さったまま、恍惚と微笑んでいた。
「さすがにもう、これ以上、待てとは言わないでしょ……?」
慣れないながらも、恋人と呼べる関係になった認識は俺にもちゃんとあった。そうでなければ、こんなことは受け入れられない。
由良だって、俺のことを彼氏だと普通に言うようになっているし、俺の恋人、と噛み締めるように口にしては嬉しそうに顔を綻ばせることもあった。
そしてそれを、俺も嫌だとは思っていない。なんなら可愛いとすら感じている。
「……由良」
呼びかけた声は、自分で思うよりかすれていた。
ほどけた口付けが惜しいと思った。そう直接口には出さないけれど、自然と目の前の唇に目が言って――次には煽るように自分のそれを舐めて見せた。
「ち……ぃちゃ……」
由良の喉仏がわかりやすく上下する。ごくりとつばを飲む音まで聞こえてきそうだった。
「……理解してんのか、この先のこと」
ふたたび寄せられる唇に、吐息がかすめる距離で問いかける。首に腕を回して、見上げた瞳を緩慢に瞬かせ、試すみたいに由良の下腹部を膝で示唆した。
「……! ……っわ、わかってるよ!」
由良はびくりと腰を震わせて、たちまち顔を赤くする。それでいて心外とばかりに口を尖らせ、
「決まってるだろ、そんなのソッコー調べてたよ!」
保留とされてる間だって、ずっと予習しまくってたし! と当然のように言い切った。
「…………そーかよ」
俺は束の間閉口し、それから思わず破顔する。つられたように目端が熱を持ったけれど、それにはいまは目を瞑る。
失言だったと遅れて気付いたらしい由良は、いっそう真っ赤になっていたけれど、それでも俺の上から逃げるようなことはしなかった。
「……あれからずっとおかずは俺だったわけか」
「そ……それはもう、それよりもっと前から……」
「……もっと前……?」
「自分の気持ちはよくわからなかったけど、でも、うん……俺のそういうのはずっとちーちゃんで……ちーちゃんだけ、でした」
「……」
またしても絶句した俺に、由良は焦ったように抱き着いてくる。
「え、やだ、ひかないで……っ」
「別にひきゃしねぇけど……」
「いや、その感じはひいてる! 帰ってきて!」
俺の上に乗ったまま、由良はぎゅうぎゅうと抱き着いてくる。その重さに一瞬息が詰まったけれど、俺もそっと背中に手を添える。
「ずっとここにいるだろうが」
ぽんぽんと宥めるみたいに撫でると、由良の動きが止まった。
「ちーちゃん……」
そっと顔を浮かせた由良はわずかに眉を下げ、心なしか涙ぐんでいて、
「……てめぇ」
そのくせ、下肢へと当たるそれは顕著に兆したままだった。いや、むしろより元気になっていると言ってもいい。
「だ、だって仕方ないじゃん! ちーちゃんいいにおいだし……!」
「風呂入ったからその匂いだろうが!」
「それだったら俺も同じ匂いじゃん! そうじゃなくて、こう……ちーちゃん独特の匂いっていうか……」
「……」
「こんなの、反応しない方が無理っていうか」
「……」
「それこそ、この先のこと、なんて言われたらよけいに……」
「俺のせいかよ」
「そ、そういうわけじゃないけど……っ、でも、たしかにちーちゃんのせいでもあるっていうか……」
ぶつぶつと言い淀むように、それでいてしっかりと主張だけはしてくる由良に、俺は思わず半眼になる。
別に照れ隠しってわけじゃない。ただ純粋にそこまでかよ、と思って呆れる――を通り越して、感心してしまいそうになった。
「……お前、ほんとに俺のことが好きなんだな」
俺は思わず呟いた。すると由良が弾かれたように目を見張る。
「え、今更……! 嘘でしょ、信じてなかったの?」
「そういうわけじゃねぇけど……」
今度は俺が口籠もる番だった。
わかっていたつもりではいたけれど、改めて思い知った。と同時に、なんだか胸がじんとして、伝染されたみたいに体温が上がった。
「……? ……! ち、……っ」
「うるせぇ、黙れ」
俺は首回していた腕に力をこめた。抱き寄せるように身体を密着させて、由良の首元に顔を埋める。
――由良の匂いがする。
たしかに使ったものは同じはずだ。シャンプーもコンディショナーもボディソープも入浴剤も、全てが相違ないのに、由良の匂いをはっきり感じる。
「ちーちゃん……」
重ねた下腹部から、いっそう昂ぶる由良の熱が伝わってくる。堪えるように吐き出す呼気も妙に艶めいていて、由良のくせに、と思うのに煽られてしまう。
「……由良、……」
呼びかけながら、視線を上げる。少しだけ腕の力を緩めて、隙間を作る。見下ろす優しい瞳とかち合って、
「……ん」
俺は唇を軽く押し付ける。
正直、由良のことは言えなかった。だって俺もちゃんと予習はしている。絶対教えてやらないけれど、俺だって由良で抜いたことはある。
仕方ないだろ、こっちだってそういう年頃だ。なんで保留になんてしたんだ、いったいどこの誰の判断だ、と思うくらいには、恋しく思う夜もあった。
「んん……ん」
さっきの由良を真似るみたいに、舌先を差し伸べてみる。待っていたみたいに由良の唇が開けば、隙間から滑り込ませて歯列を辿る。触れ合う由良のそれをすくい上げ、ゆるゆると絡め合わせる。
温かくて、柔らかくて、心地いい。舌の根をくすぐられ、上顎を引っかかれると勝手に呼気が震えてしまう。捕らえられた舌先を吸い上げられ、甘く歯を立てられると頭の芯がじんと痺れた。
「ゆ、ら……」
「ちーちゃ……」
口付けの中で名前を呼び合う。それだけで一段と肌が粟立ち、高揚する。
俺は浸るように目を閉じる。応えるように抱き締めながら、自ら欲して、由良のすべてを享受した。
俺は無事志望校に受かり、予定通り、春からは一人暮らしを始めている。新築ではないものの、手入れの行き届いたきれいなマンション住まい。
部屋は四階の一番奥にあり、エレベーターはないものの、間取りは2LDKと十分すぎる広さがあった。シャンプードレッサーもついているし(ここにこだわりはなかったが)、バストイレもちゃんとわかれている。
バス通りからは少し奥まった場所にあるけれど、周囲の建物は低いし、部屋は南向きで日当たりもよかった。
ちなみに、この部屋を紹介してくれたのは親族が不動産関係の仕事をしているという由良の新しい母親で、ちょうど借り手を探していたという物件を格安で貸してもらえたのだった。
最寄りの駅までは主にバスで移動。そこから電車を乗り継いで、二時間ほどかければ実家に帰れる。
現在俺は週に三、四日バイトを入れていて、夏休みも帰省する予定の盆以外はそのつもりだった。
そんな中、由良が遊びに来たいと言い出したのは夏休みに入ってからのことだった。
これまでも日帰りで顔を出しに来たことはあったし、別にそれは構わなかったが、そのまま数日泊まってもいいかと言われると正直少し考えた。
考えた――迷ったのは、この期に及んで俺にはまだ覚悟ができてなかったということかもしれない。
まぁ、結果的にはなんでもないふりをして、はいはいと了承を伝えたのだけれど。
だって遊びに来るとは言っても、由良が最初に上げた理由は夏休みの宿題と家庭科部の課題の相談だ。そんなふうにいわれると余計無下にもできず──そうしていま、由良はいくぶんそわそわとした様子で俺の前に座っている。
「あいかわらず明るい部屋だね」
「南向きだからな」
「ベランダも広いし……俺もこんな部屋に住みたいな」
ベッドの前へと置かれた木目調のローテーブルは、由良の部屋にあったのと同じで冬にはこたつにできるものだった。違うのは由良のものより一回り小さいことくらい。
俺はそこにタンブラーを二つおいて、向かい側に腰を下ろした。一人暮らしを始めたときにじいちゃんにもらったステンレス製のそれは、二重構造となっていて結露もしないし、保温保冷もよく効くから重宝している。それぞれの前へと滑らせたその中身はアイスカフェラテだ。
「ん……! これ、うちと同じ味だ」
まぁ、それはそうだろう。だって由良のうちが導入したマシンと同じもので入れたんだから。粉だってメーカー推奨の定番のもので、入れ方はボタン一つで特に調整もしていない。
「あ、そっか。そういえばお父さんがお祝いに贈ったって……」
「ん。ありがたく使わせてもらってる」
人気が出すぎて品薄となり、実際に受け取ったのはつい先日のことだったが、由良の父親から入学祝いのご祝儀ということで贈ってもらったのがそれだった。
引っ越す時には直々に挨拶にも来てくれて、今まで由良のことを気にかけてくれて本当にありがとうと頭を下げられた。これからは新しい母親と二人でしっかり見ていきますとも添えられた言葉に、なんだか妙にほっとしたのを覚えている。
というか、そもそも響子さんがあの日、じいちゃんの店に来たのも偶然ではなく、おじさんから由良が世話になっていると聞いてのことだったようだから、やっぱり遅かれ早かれ上手くいっていたのではないかと思う。それだけ由良のこともちゃんと考えてくれていたということだろうから。
「――で、みんな元気にしてんのか?」
「元気元気。響……お母さんも元気だし、知紗もぐんぐん大きくなってる」
めったに会うことはないながら、実母とも特に不仲というわけでもないからだろうか。由良はまだ響子さんをお母さんと呼ぶことに慣れていないらしい。それでも新たにできた妹のためにもと、日々練習中とのことだった。
まぁ、俺は今更どっちだっていいとは思うが(両親も無理しなくていいと言ってくれているようだし)、それでも妹のためにと奮闘するその姿は素直に格好いいなと思う。早くもお兄ちゃんが板についてきたというか、ちょっといままでにないときめきを覚えそうになる。
……って、なんだよときめきって。
「妹、お前にも似てかわいいもんな」
「そうなんだよ。よく言われる。そっくりですねって。ちーちゃんもそう思う?」
時折カフェラテを挟みながら、嬉しそうに破顔する由良に、俺は「思う思う」と頷いた。これもそろそろ恒例になっているからだ。
突然この年で下ができるなんて……と、一応には不安がっていた由良だったが、実際妹が生まれてみれば、そんな気持ちも吹き飛んだらしい。
なにかにつけ妹――知紗の写真が送られてきて、先日も「ゆら」って呼んでくれたと大興奮だった。
まぁ、普通に考えて、まだ二ヶ月やそこらの赤ちゃんがそんなはっきりしゃべるわけもねぇんだけど。
「で……ちーちゃんに会ったらさ、伝えておきたかったことがあって」
「なんだよ、改まって」
問い返すと、由良はわずかに背筋を伸ばす。
「実は……知紗の名前、俺がつけたんだけど……」
「うん? あぁ、そんなこと言ってたな」
「その……知紗の〝ち〟は、ちーちゃんからもらっちゃいました」
「……はぁ?!」
由良が両親から、命名権を与えられた? という話は聞いていた。そして〝知紗〟とつけたのだということも。
だが、それが俺の名前由来だったとは初耳だ。
「……事後報告になってごめん。先に言ったら、だめだって言われる気がして」
「そらそうだわ」
「だよね?!」
俺は呆れながら溜息をつく。半眼で由良の顔を見返して、けれどもそこで静かに目を伏せた。
「あれ? 意外と怒らない……?」
「まぁ、今更だしな。お前のかわいい妹の名前にケチつけたくはねぇし。実際、知紗って名前はいい名前だと思うし」
「え、ほんと? やった、嬉しい!」
由良はあからさまにほっとした顔をして、ふたたびタンブラーに口をつける。
……まぁ、うん。いい名前だとは思う。それは嘘じゃない。
「……? どうかした?」
俺も自分のカフェラテに手をつける。誤魔化すように傾けて、冷たいそれを喉奥へと流し込む。
まぁ、うん。別に嘘は言っていない。言っていないが、そこから思い出してしまったことがあった。
俺は由良のように直接言ったりはしないけれど、実は俺も昔、由良と同じことをしていたのだ。
優斗の名前は、俺がつけた。
小鳥遊優斗。ゆうと。その〝ゆ〟というのは――。
「ちーちゃん?」
「ちーちゃん言うな」
「え、突然!」
「うるせぇな」
俺はタンブラーを呷って空にすると、おかわり入れてくるとだけ残して席を立った。
由良は不思議そうに俺を見ていた。キッチンへと続く扉を閉めるまで、視線を感じていた俺は、
「……ンだよ、ふざけやがって……」
一人になって、ようやく息をつく。
由良と考えることが一緒だなんて、認めたくない。認めたくはないけれど、結果は見ての通りだった。
◇◇◇
「……お前、勉強は」
「ちょっとくらい、大丈夫だよ」
「はぁ……? お前も来年は受験生だろうが。こういうのはこつこつやっておかねぇと……」
「だって、このまま行けば間違いないっていわれてるし」
「どこの学校だよ?」
「それは内緒」
夜になり、俺の作った親子丼を食った後、順番に風呂に入って、寝支度を整えた。そのあとは久々にのんびり一緒にテレビを見たりして――あまりに平穏な時間に、俺も少しばかり気が緩んでいたらしい。
ベッドに座っていたのもいけなかった。由良はラグの上に座っていたけれど、トイレと言ってたち上がったその後、戻ってきてからは床には腰を下ろさずに、
「ちー……千尋くん」
ひそめた声でそう呼びながら、不意に俺の眼前を影で覆った。
瞬いた視界が、由良の顔でいっぱいになる。かと思えば口元を吐息がかすめて、そして、
「ん……っ」
気がつけば唇が重ねられていた。
「……っ、ん、……ふ」
最初は啄むだけだったそれが、少しずつ押し付けられるみたいになって、やがて薄く開いた唇が食むように表面を撫でてくる。
とっさに逃げようと頭を退けばそのまま後ろに押し倒されて、ふたたび触れ合った唇の隙間から、今度は舌先が滑り込んできた。
由良とキスをしたのは、これが初めてではなかった。最初は卒業式の日だ。
春までは保留と言った俺の約束を由良はしっかり守って、守ってくれたから、俺もそこはちゃんと守った。
……まぁ、気持ちの上ではとっくにそのつもりだったから、特に迷うこともなかったし。
その間、特に気持ちが揺れるようなことも一切なかった。
それ以外では、春休み。由良が言うところのデート中。引っ越しの日にも、周りから隠れてキスをした。
だけど、そのどれもが子供みたいに、それこそ優斗が俺にしてくるようなかわいらしいものだった。
だから、なんていうか、
「んん……っ、ぅ……!」
こんなキス、俺は知らない。
酸欠めいた眩暈に頭がくらくらする。眦が熱を持って、視界が滲む。肌が粟立ち、全身が火照っているような錯覚がする。
「ちーちゃ……かわいい」
濡れた唇を舐められ、そこに由良のかすれた声が落とされる。見上げる視線の先で、由良は俺に覆い被さったまま、恍惚と微笑んでいた。
「さすがにもう、これ以上、待てとは言わないでしょ……?」
慣れないながらも、恋人と呼べる関係になった認識は俺にもちゃんとあった。そうでなければ、こんなことは受け入れられない。
由良だって、俺のことを彼氏だと普通に言うようになっているし、俺の恋人、と噛み締めるように口にしては嬉しそうに顔を綻ばせることもあった。
そしてそれを、俺も嫌だとは思っていない。なんなら可愛いとすら感じている。
「……由良」
呼びかけた声は、自分で思うよりかすれていた。
ほどけた口付けが惜しいと思った。そう直接口には出さないけれど、自然と目の前の唇に目が言って――次には煽るように自分のそれを舐めて見せた。
「ち……ぃちゃ……」
由良の喉仏がわかりやすく上下する。ごくりとつばを飲む音まで聞こえてきそうだった。
「……理解してんのか、この先のこと」
ふたたび寄せられる唇に、吐息がかすめる距離で問いかける。首に腕を回して、見上げた瞳を緩慢に瞬かせ、試すみたいに由良の下腹部を膝で示唆した。
「……! ……っわ、わかってるよ!」
由良はびくりと腰を震わせて、たちまち顔を赤くする。それでいて心外とばかりに口を尖らせ、
「決まってるだろ、そんなのソッコー調べてたよ!」
保留とされてる間だって、ずっと予習しまくってたし! と当然のように言い切った。
「…………そーかよ」
俺は束の間閉口し、それから思わず破顔する。つられたように目端が熱を持ったけれど、それにはいまは目を瞑る。
失言だったと遅れて気付いたらしい由良は、いっそう真っ赤になっていたけれど、それでも俺の上から逃げるようなことはしなかった。
「……あれからずっとおかずは俺だったわけか」
「そ……それはもう、それよりもっと前から……」
「……もっと前……?」
「自分の気持ちはよくわからなかったけど、でも、うん……俺のそういうのはずっとちーちゃんで……ちーちゃんだけ、でした」
「……」
またしても絶句した俺に、由良は焦ったように抱き着いてくる。
「え、やだ、ひかないで……っ」
「別にひきゃしねぇけど……」
「いや、その感じはひいてる! 帰ってきて!」
俺の上に乗ったまま、由良はぎゅうぎゅうと抱き着いてくる。その重さに一瞬息が詰まったけれど、俺もそっと背中に手を添える。
「ずっとここにいるだろうが」
ぽんぽんと宥めるみたいに撫でると、由良の動きが止まった。
「ちーちゃん……」
そっと顔を浮かせた由良はわずかに眉を下げ、心なしか涙ぐんでいて、
「……てめぇ」
そのくせ、下肢へと当たるそれは顕著に兆したままだった。いや、むしろより元気になっていると言ってもいい。
「だ、だって仕方ないじゃん! ちーちゃんいいにおいだし……!」
「風呂入ったからその匂いだろうが!」
「それだったら俺も同じ匂いじゃん! そうじゃなくて、こう……ちーちゃん独特の匂いっていうか……」
「……」
「こんなの、反応しない方が無理っていうか」
「……」
「それこそ、この先のこと、なんて言われたらよけいに……」
「俺のせいかよ」
「そ、そういうわけじゃないけど……っ、でも、たしかにちーちゃんのせいでもあるっていうか……」
ぶつぶつと言い淀むように、それでいてしっかりと主張だけはしてくる由良に、俺は思わず半眼になる。
別に照れ隠しってわけじゃない。ただ純粋にそこまでかよ、と思って呆れる――を通り越して、感心してしまいそうになった。
「……お前、ほんとに俺のことが好きなんだな」
俺は思わず呟いた。すると由良が弾かれたように目を見張る。
「え、今更……! 嘘でしょ、信じてなかったの?」
「そういうわけじゃねぇけど……」
今度は俺が口籠もる番だった。
わかっていたつもりではいたけれど、改めて思い知った。と同時に、なんだか胸がじんとして、伝染されたみたいに体温が上がった。
「……? ……! ち、……っ」
「うるせぇ、黙れ」
俺は首回していた腕に力をこめた。抱き寄せるように身体を密着させて、由良の首元に顔を埋める。
――由良の匂いがする。
たしかに使ったものは同じはずだ。シャンプーもコンディショナーもボディソープも入浴剤も、全てが相違ないのに、由良の匂いをはっきり感じる。
「ちーちゃん……」
重ねた下腹部から、いっそう昂ぶる由良の熱が伝わってくる。堪えるように吐き出す呼気も妙に艶めいていて、由良のくせに、と思うのに煽られてしまう。
「……由良、……」
呼びかけながら、視線を上げる。少しだけ腕の力を緩めて、隙間を作る。見下ろす優しい瞳とかち合って、
「……ん」
俺は唇を軽く押し付ける。
正直、由良のことは言えなかった。だって俺もちゃんと予習はしている。絶対教えてやらないけれど、俺だって由良で抜いたことはある。
仕方ないだろ、こっちだってそういう年頃だ。なんで保留になんてしたんだ、いったいどこの誰の判断だ、と思うくらいには、恋しく思う夜もあった。
「んん……ん」
さっきの由良を真似るみたいに、舌先を差し伸べてみる。待っていたみたいに由良の唇が開けば、隙間から滑り込ませて歯列を辿る。触れ合う由良のそれをすくい上げ、ゆるゆると絡め合わせる。
温かくて、柔らかくて、心地いい。舌の根をくすぐられ、上顎を引っかかれると勝手に呼気が震えてしまう。捕らえられた舌先を吸い上げられ、甘く歯を立てられると頭の芯がじんと痺れた。
「ゆ、ら……」
「ちーちゃ……」
口付けの中で名前を呼び合う。それだけで一段と肌が粟立ち、高揚する。
俺は浸るように目を閉じる。応えるように抱き締めながら、自ら欲して、由良のすべてを享受した。
