だっておまえがほしいっていうから

「っていうか、また食えるようになったのか?」
「え?」
「オクラのごま和え」
「え、なったよ? ちゃんとおいしかったって言ったじゃん!」

 お世辞かと思った。
 肩を竦めて返せば、「なんでだよ! いまさらお世辞なんて言わないよ!」と由良が口を尖らせる。

「あー、ほら、んなこと言ってるから。そこ、間違ってる」
「え、どこ?」

 ていうか、ちーちゃんのせいじゃん。

 言いながらも、由良は目の前のノートに向き直る。
 いつも通りにじいちゃんの店で、いつも通りのテーブル席で、いつも通りに向かい合って勉強をする。
 夏休みも残り数日、あいかわらずの日々は続いている。
 以前より一緒にいる時間が増えたかと言えばそうでもなかった。その点はちゃんと言いつけを守っているらしく、特にわがままを言ってくるようなこともない。
 その代わりと言ってはなんだが、スマホでやりとりする頻度だけは格段に増えていて、今朝も目を覚ましたときにはすでに十件ほどのメッセージが届いていた。

 もともとそう頻繁に連絡がくることもなかったから、そういうスタンスだと思っていたのに、それも一応我慢してのことだったらしい。甘えれば甘えるほど、ますます弟扱いされるかもしれないと、由良なりに色々考えていたようだ。
 別に、そんなことでいちいち見方なんて変わらねぇのに。
 思うけれど、確かに頼られれば頼られるだけ俺も面倒をみてやりたくなるたちではあるから、あながちその判断は間違っていなかったのかもしれない。手がかかればかかるほど、どうしたって弟扱いはしてしまっていただろうから。

 ……まぁ、いまとなってはそれもどの口が、状態ではあるけれど(それくらい遠慮がなくなっているように見える)。

「っていうか、ちーちゃんこそ、なんであのレシピにしたの?」
「あ?」
「俺が失敗したゼリー寄せの……だったよね? あれ」
「ああ」

 俺は手元に視線を落とし、ペンを動かしながら小さく笑った。

「別に大した意味があったわけじゃねぇけど……まぁ、失敗っていうほどのものでもねぇよって。そういうときはこうすればいい、みてぇのを……」
「フォローしてくれようとしたってこと?」
「……別に。大した意味はねぇって言っただろ」

 言った通り、そこに深い意味なんて本当になかった。なのに改めてそう言われると、なんとなく気恥ずかしくなってくる。
 結果、目も上げないまま黙々と問題を解いていると、由良がふふ、と嬉しそうに笑った。

「ちーちゃんって、ほんと優しいよね」
「うるせぇ、勉強しろ」

 由良がかたわらに開いていたのは俺が貸したファイルだった。そこには実力テストの過去問が収まっている。
 それをとんとんとぺんの頭でつつき、ふたたび俺は自分のテキストへと意識を戻す。
 由良は「はぁい」と返事をしながらも、その声はなおも弾んで聞こえた。


 ◇◇◇


 夏が終わり、秋になっても、俺と由良の関係は変わらなかった。

 平日は基本、登下校のときしか顔を合わせないけれど、週末ともなればじいちゃんの店で勉強をしたり、図書館で勉強をする俺に付き合って由良も本を読んでいたりと、それなりの日常が続いている。
 夏休み明けの実力テストは、なかなか満足のいく結果だったらしい。もともと特に勉強が苦手というわけでもない由良は、やり方さえ覚えればひとりでもなんとかできるだけの能力がある。

 それでも俺に教わりたがっていたのは、ひとえに俺と一緒にいたかったから。そのためにときどきわざとわからないふりもしてた……なんてはにかむように白状されたときには、思わず丸めたテキストで頭をしばいてしまったけれど。
 だとしてもまぁ、ひとに教えるということは自分の復習にもなるから、今更そこを責める気にはならない。現に今日も午後からは一緒に勉強することになっている。

「……はい、どうぞ」
「おー。……カフェラテか?」
「うん。インスタントだけど、家でも簡単に入れられるマシン買ったんだ」

 今日の会場は由良の部屋。あの日以来に訪れた由良の家は、以前にも増して新しいカラーに彩られていた。
 今日は揃って出かけているという、おじさんと彼女さんが入籍したのは夏休みが明けてまもなくのことで、本格的に一緒に住み始めたのもそのころとのことだった。

 そこから二ヶ月ほどがすぎ、最初は部屋に籠もりがちだった由良も、いまではそれなりに打ち解けてきているらしい。
 コーヒーマシンを導入しようと言い出したのも彼女さん――新しい母親だったようで、手入れの手軽さから選んだそれはインスタントコーヒーを使うタイプのものだった。
 導入を決めた際、ある意味喫茶店の味に慣れていた由良は、いっちょ前にインスタントかぁなんて思ったらしいが、予想よりずっと美味しく入れられるとわかったとたん、両親よりよほど使うようになったとのことだった。

「これ、カフェインレスの粉も使えるんだって」
「それならお前が飲み過ぎても大丈夫そうだな」

 というか、俺だって全然、家ではインスタントのコーヒー飲んでるし。インスタントだからって入れ方次第で味も変わるし、なかなかバカにできねぇよ。

「まぁ、さすがにちーちゃんが入れるのには敵わないけど……」
「十分だろ」

 目の前には前回と同じ、正方形のローテーブル。ラグは冬仕様のものに変えられていた。
 天板に下ろされたマグカップに早速口をつけた俺は、味見がてらひとくち飲んでから頷いた。

「……ん。美味い」

 泡立てられた牛乳の泡もきめ細かいし、エスプレッソの香りもしっかり広がる。これでインスタントだというなら上出来だ。
 この手のマシンはうちにはないけど、金額もそう高くはないみたいだし、一人暮らしを始めたら俺も買ってみようかな。

「……つか、お前、これ」
「あ!」

 テーブルの上には、由良のスマホも載せられていた。そこにふとメッセージが届く。送信者の名前は〝響子さん〟で、それが由良の新しい母親とのことだった。

 ……いや、そうじゃなくて。

 ポップアップで表示された文面はさすがに読まなかったが、視界の端でぱっと画面がついたものだから、つい目がいってしまった。
 その瞬間、俺は瞠目した。

「なんで俺……」
「ちが……っ、これはその!」
「なにが違ぇんだよ」

 弾かれたようにスマホを押さえた由良の指の隙間から、冷蔵庫に入れる直前のテリーヌが見えていた。そして慌てて隠された部分には、それを眺める俺の顔――。

「お前、その壁紙……」
「ちーちゃんと会うときは替えるようにしてたのに……!」

 忘れるだなんて、浮かれてた証拠だ。由良は顔を赤くしながらそう言って、ばつが悪いように視線を泳がせる。

「……は――……」

 俺はあてつけるように息をついた。由良はびくりと肩を竦め、窺うように俺を見る。

「……怒った?」
「別に」
「別にって……」
「……とりあえず、俺が卒業するまではやめてほしーけど」
「え、え、それ以降ならいいってこと?」

 由良がゆっくりスマホの上から手を退ける。画面に映し出されている俺の顔を見下ろして、ふたたび俺に視線を戻す。

「……好きにしろよ」

 マグに口をつけながら返せば、由良はまたスマホを見やって、やったー! と破顔した。

「……」

 こいつは本当に俺のことが好きなんだな。改めて思い知ると、こっちまで目端が熱くなる。

「……つうかそれ、急ぎじゃねぇのか」

 誤魔化すように通知を示唆すると、由良も「そうだった」と頷いた。
 スマホを手に持ち、開いたメッセージを目で辿る。かと思えば、次にはそのまま読み上げていく。

「病院に行ってきました。来年の夏休みには、由良くんもお兄ちゃんに……。……え?」

 別に声に出す必要なんてないのに。思いながらも黙っていると、

「俺が、お兄ちゃんに……?」

 反芻するように呟いた由良が、ゆっくり俺に目を向ける。

 ――由良が、お兄ちゃんに?

「それって……」

 遅れて内容を理解した俺も、ぱちりと瞬き由良の顔を見返した。

「俺が、お兄ちゃんに……」
「夏までには、お前に妹か弟ができるってことだな」
「ええ……」

 由良は手の中のスマホに目を戻し、なんとも言えない声を漏らす。

「……俺、大丈夫かな」

 その顔にはどうしたらいいかわからないと書いてあった。それでもどこかくすぐったそうで、どちらかと言えば嬉しそうにも見えた。
 俺は持っていたマグをテーブルに下ろし、由良の頭をそっと撫でた。

「お前なら大丈夫」
「また弟みたいに……」

 由良の視線が俺に向く。その唇がわずかに尖る。まるで優斗(子供)が拗ねるみたいに。

「俺はかわいいと思ったときにはこうやんだよ」

 俺はあえて掻き混ぜるみたいに手を動かした。するとそれをどうとったのか、

「かわいい……?」

 由良は反芻するように呟いて、次には自ら頭を押し付けてきた。
 思わず瞬き、呆れ混じりに破顔する。

「んだよ、いやなんじゃねぇのかよ」
「んーん、もっと撫でて」

 そう言って微笑った由良が、その手を嫌がることはもうなかった。