だっておまえがほしいっていうから

「はよ」

 由良は自転車をおりて横に立っていた。

「遅刻すんなよ」

 俺はその横を通り過ぎる。由良のことは一瞥しただけで、あとは振り返ることもしない。なんとなく、どういう顔をすればいいのかわからなかった。

「待ってよ、ちーちゃん」

 その後ろを由良が追いかけてくる。お互い自転車通学だし、特に珍しい光景でもなかった。

「ち……」
「危ねぇから横に並ぶんじゃねぇ」

 違っていたのは、俺がいっさいスピードを緩めなかったこと。俺はなにか言いたげに声をかけてくる由良を牽制し、前だけを見て学校を目指す。
 由良は黙って俺の後ろにつけて、やがて辿り着いた学校の駐輪場へとそれぞれの自転車をとめた。お互い材料の入ったエコバッグを持って、表玄関へと向かう。

「……レシピは決まったのかよ」
「あ、うん。なんとか。っていうか、この前のあれ、ありがとう」
「あれ?」
「オクラの……」
「ああ」

 並んで調理室へと向かいながら、俺は短く答えた。

「作りすぎたから」
「……そっか」
「食えたのか?」
「あ、うん。食べたよ。おいしかった」

 目的の部屋の前で立ち止まると、由良は一歩後ろで足を止める。
 おいしかったなんて、無理しやがって。もともと苦手なのは知ってるんだし、食えなかったら食えなかったで別に怒りゃしねぇのに。
 思いながらも、それ以上はなにも言わない。
 途中、職員室で借りた鍵を使って調理室のドアを開ける。もちろん一番乗りだ。部屋にはまだ誰もいなかった。

 ***

 部員と顧問がそろい、それぞれ一斉に調理を開始した。部員は十人いることになっているが、参加していたのは八人だった。欠席はいつもの幽霊部員――と思っていたら、実際には別の一年生が風邪で欠席、幽霊部員の方はぎりぎりになって現れたから驚いた。やっぱり最後くらいは出ようかと思ったとのことだった。

 最後。最後か。確かにこれで最後だもんな。

 そんなこんなで、三年は俺を含めて三人となり、一年の由良とは違う調理台を使うことになった。

 なにを作るかは結局聞いていないけれど、由良の荷物は俺より少なそうだった。一緒に考えたレシピの中から作る可能性もあるから、案外そうめんを使ったカッペリーニあたりかもしれない。あれならトマトとツナ、アボカド、きゅうりといくつかの食材が必要でも、それぞれの数は少なくて済む。

「小鳥遊くん、それもしかしてゼリー寄せ?」
「いや……まぁ似たようなもんだけど、ちょっとちげぇやつ」

 声をかけてきたのは同じ調理台で料理をしていた部長だった。

 俺は由良が失敗したと言って写真を見せてきた料理を作ることにした。夏野菜のジュレサラダ。タコやエビは下準備してきたからあとは切るだけで、手順はおおむね由良と一緒に試作したテリーヌと同じ。違うのは少し緩めに作ったゼリーを先に冷やし、崩したそれを具材に絡めることくらいだった。

「わぁ、あいかわらずきれいに作るね」

 隣で見ていた部長が感嘆の声を上げる。部長が作っていたのは夏野菜の素揚げカレーで、そんなものは美味いに決まっているからちょっとずるい。

「カレーには勝てねぇから、まぁ見た目くらいはな」

 揶揄めかして言いながら、見た目から涼しげなガラスの容器に盛り付けていく。最後にオリーブオイルを一回しかけて、そこで俺も完成とした。

「一年生もいろいろ頑張ってるみたいよ。皆本くんはちょっと渋いもの作ってたけど……実はあれ、私も好きなんだよね」
「渋いもの?」

 俺は瞬き、由良のいる調理台の方へと目をやった。

「……オクラ?」

 視線の先では、由良が下処理を終えたオクラをゆであげ、ざるで水を切っているところだった。由良はそれを半分から三等分に切ると、熱いままかたわらのボウルに入れていく。

「ごま和え作ってるみたい」
「ごま和え?」

 ボウルに入っているものがなにかはわからないが、そっと端で返すように和えているところを見ると、確かにその通りに見えてくる。

「……なんでオクラ。なんでごま和え……?」

 俺は今回、そのレシピを教えていない。
 けれども、そうして小鉢に盛られたそれは、見た目も俺が普段作っているものそっくりで――。いや、オクラのごま和えなんて、どんなレシピで作ろうが大して変わらないかもしれないけれど。

「できました!」

 まもなく、由良も完成を宣言する。
 ふーん、と俺はわずかに目を細めた。


 ***

 発表会も、その後の引退式も滞りなく行われ、日が暮れる前にはお開きとなった。実食の前にみんなで撮った集合写真は、あらためて後日配ってくれるらしい。

 実食――。の結果の方は、優勝は文句なしの部長のカレーだった。
 まぁそれは仕方ない。部長のカレーはカレーそのものも美味くて、おかわりしたいもの、また食べたいもの、レシピを知りたいもの、のどれも一位を獲得していた。

 ちなみに由良のごま和えもレシピを知りたい、では三位を獲得していて、その味はというと、やはり気のせいでなく俺が作るものとそっくりだった。

 いったいどこで……?

 不思議に思っていたら、由良が帰りに教えてくれた。

「お父さんの彼女さんが、ちーちゃんのレシピを持っていて……それを使わせてもらいました」
「は……?」

 言われている意味がわからず、俺は由良を見返した。
 学校帰りに買い食いもどうかと思ったが、八月下旬となっても暑いものは暑いので、途中コンビニでそれぞれアイスを買って、そばにある公園に立ち寄った。

 部活でわいわいしたせいか、なんとなく気まずいと思っていた由良とも、帰るころには普通に話せるようになっていた。先日のことを忘れたわけではないけれど、別にそこに触れなければ問題はなさそうだ。

「ちーちゃんちのごま和えをもらって、何日か経ったあと、家でもまたごま和えが出たんだ」
「うん……?」

 暑さのせいか、誰もいない公園の、誰も座っていないベンチに並んで腰を下ろした。手荷物はかごに入れたままの自転車は、入口の近くに邪魔にならないよう止めてある。

「それが、ちーちゃんの味そっくりで。話を聞いてみたら、喫茶店で教えてもらったって……。見せてもらったレシピも、確かにちーちゃんの字だったし」

 俺が書いたオクラのごま和えのレシピを、おじさんの彼女が……?

 片隅で勝手に俺の筆跡鑑定するなと思いながら、

「――あ」

 そこで俺ははっとした。
 なるほど、あの女の人だ。あのときのあの人が、おじさんの彼女だったってことだ。

「……そういうことか」

 呟いて、垂れそうになるアイスの雫に舌を伸ばす。買うならこれだと決めている、水色の氷菓。甘すぎず、あとくちもさっぱりとしていて昔から好きなアイスだった。

「そういうことって?」
「いや……良かったなと思って。うまくいってるみたいで」
「うまく?」
「ん」

 それ以上深くは言わなかった。言わなかったし、聞かなかった。

 だけどなんとなく想像はついた。おじさんの彼女さんは優しい人で、ちゃんと由良のことも考えてくれている。大事にしてくれる。この先一緒になったとして、きっと温かい家庭を築いてくれるだろう。

「……うまくは、いってると思う」

 由良が食べていたのはカップアイスだった。少し高めのそれをスプーンですくっては口に運ぶ。それが半分ほどになったところで、由良はふと手を止める。

「春まで待ってって、言うのやめたんだ、俺」
「……そうか」

 それがいいと思う。視線を眼前の空に投げながら、静かに頷いた。

 日はずいぶん西に傾いていたけれど、空はまだ十分青い。綿菓子みたいな白い雲が眩しくて、俺は思わず目を細める。

「オクラのごま和え、一緒に作ってくれたんだ。試作品。最初は水がうまく切れてなくて、べちょっとしたり……俺がもたもたしてる間に冷めちゃって、味があんまりしみなかったりしたんだけど」

 俺は片手にアイスを持ったまま、苦笑混じりに続ける由良の声に耳を傾ける。

「でも、なんとかこれならって言うのができたから。だからそれを今日のレシピにして……」
「……うまかった」
「え?」

「俺、お前のに二つ一位をつけた」
「そうなの?」
「レシピを知りたい……はまぁ、いいかと思って、別のに入れたけど」
「……そういうとこ、甘くないよね」

 空を眺め続ける視界の端で、由良がわずかに眉を下げる。笑み混じりに呼気を揺らし、けれどもその視線がふとよそに向く。

 幼い子供の声が聞こえてくる。夕方になっていくらか涼しくなったからか、ひとりの男の子が園内へと走りこんできた。その後ろには、お腹の大きな母親の姿。由良はそんなふたりをやわらかな眼差しで見つめながら、

「昨日、いつでもいいよって言ったんだ」

 再婚するの。一緒に暮らすのも、二人に任せるって。
 由良はふふ、と笑ってそう言った。

 俺はふたたび垂れそうになる雫を舐めとって、ついでのようにサク、とアイスをかじった。この氷菓は硬いから、表面は溶けてきてもまだまだ原形をとどめている。

「……」

 そうか、としか言えない俺は、黙って由良の頭を撫でた。撫でたのは無意識で、特に他意があったわけじゃなかった。ほとんど癖のようなものだった。

「……ちーちゃん……」

 名を呼ばれて、我に返る。

「……悪い」

 俺は手を退いた。
 弟扱いされたくない。
 由良が口にした、「お兄ちゃんだと思ったことない」という言葉(あれ)は、要はそういうことだろうに。

 そう突き付けられてなお、俺はまた――。

「待って、ちーちゃん」

 ばつが悪いように掲げていた手を下ろそうとすると、その手首を由良が掴んだ。
 俺はゆっくり由良を見た。

「……ごめん」

 視線の先で、俯いた由良が口を開く。

「ごめん、ちーちゃん。本当は俺、ちーちゃんのこと、お兄ちゃんみたいだって思ったこと全然あるんだ。それこそ、幼稚園のころからずっとそう思ってた。……でも、それは俺が自分の気持ちを気付く前の話で……、気付いてからはもう、そんなふうには思えなくなって……」

 俺の手を掴んだまま、由良はまるで独白のように言葉を紡ぐ。

「あの保育士さんが、ちーちゃんに触れたのが本当はいやだった。ちーちゃんを撫でたのが、許せなかった。だからゆうくんに……」

「……優斗に?」

「……ゆうくんに、早く帰ろうって言ってもらったりもした……」

 俺はわずかに目を見張った。
 ああ、そうだったのか。あのとき、珍しく急かされた気はしたけれど、そういうことだったのかといまになって腑に落ちた。

「……ちーちゃん」
「由良。先にアイス食え」

 消え入りそうに呟く由良に、俺はあえて当たり前のように言った。

 由良の手の中にあるカップのアイスはもうクリーム状になっていて、刺していたはずのスプーンもすっかり倒れてしまっている。いまにも落ちそうなそれを示唆して、俺も自分のアイスをまたかじる。――かじろうとした。

「俺……自分のせいだけど、ちーちゃんと会えないの、本当にさみしくて……」

 顔を上げた由良の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。俺は思わず動きを止めた。

「たった十日くらいのことなのに、ちーちゃんの顔が見れないのも、声が聞けないのもさみしくてたまらなくて」

 ぽたり、と、俺のアイスの雫が地面に落ちる。それを追うように由良の涙もまた落ちて、制服のズボンに染みを作った。

「ちーちゃん」

 由良が俺の手首をぎゅっと握る。

 帰らないで。待ってよ、ちーちゃん。俺の話を聞いて。

 言われた言葉が蘇る。あのときの俺は、たぶん考えることを放棄した。だから話をちゃんと聞かなかった。知ったふうなことを言って、由良のまっすぐな気持ちから逃げたのだ。

「俺、やっぱりちーちゃんが好きだ。好きで好きでたまらない」

 ぽたり、ぽたりと雫が滴る。
 やがてアイス自体も滑り落ちて、ぺしゃ、と足もとに青い水溜まりができた。

「由良」

 俺は静かに息をついた。由良の濡れた眼差しが揺れる。どこか怯むようなそれに、なんでだよ、と思わず笑う。

「別にとって食いやしねぇよ」

 その頃には、由良のカップの中身はすっかり水のようになっていて、俺は手の中に残ったアイスの棒とともに、それをかたわらの座面へと移動させた。
 一方の手は由良に預けたまま、空いた他方で今度は俺から由良に触れる。由良のもう片方の指をそっと掴み、泣き続ける由良の顔をまっすぐ見返した。

「……ち」
「俺は春になったら、実家()を出る」

 そして告げた。

「え……嘘」

 由良は目を見開いた。想定内の反応だった。
 俺は由良の指先を握ったまま、話を続けた。

「お前がどういうつもりで春まで、なんて考えてたのかは知らねぇが、確かに俺も、そこで一区切りだとは思ってた」
「一区切り……」
「いまみたいな関係も、ひとまずそこで終わりだなって」

 終、わり……。と、反芻するように由良が呟く。構わず俺は淡々と言った。

「知らなかったんだよな? 俺の進学先」
「進学先は……知ってた、けど」
「知ってたのかよ」

 俺は瞬き、呆れたように息をつく。

「知ってたけど、ちーちゃんのことだから、少しくらい遠くても実家から通うと思ってて……」

 由良が動揺しているのは明らかだった。

「まぁ、頑張れば通えねぇ距離ではねぇけどな。片道二時間以上かかるけど」

 ここは田舎で、電車の本数も少ないから、乗り継ぎしだいでは三時間近くかかることもある。それでも最初は俺も実家から通うことを考えていた。だけど母さんは言ってくれた。俺がなにかいうより先に、「いい部屋があるといいわねぇ」って。

「……え、やだ。そんなのやだよ」
「んなガキみてぇなこと言われても……。残念ながら、もう決めたことだし。俺が受験に失敗しねぇ限り、そこはもう変わらねぇよ」

 諭すように言えば、由良はいっそう涙をこぼす。そう言えば、昔はよくこんなふうに泣いていたなぁなんて思い出す。いつからかぱたりと泣かなくなったけれど、いま思えばそこがこいつの言う〝気付いたとき〟だったのかもしれない。

「ちーちゃん……」

 由良は俺の手を離さない。それどころか、ますます力をこめてくる。俺は仕方ないように眉を下げる。観念したように嘆息し、それから静かに口を開いた。

「……でもな」
「……? でも……?」
「……俺もまぁ、……さみしかったから」
「え……?」
「たかだか十日、お前の顔見ないだけで、じいちゃんの店にいても、つい外ばっか気になって見ちまうし……」

 あらためて言葉にすると、とたんに恥ずかしくなってくる。逃げるように視線を逸らすと、由良がそれを追ってくる。俺の顔を覗き込み、なかばむりやり目を合わせて、

「今日は弟が来ないなって?」

 返された声は、どこか拗ねているようでもあった。

「お前……」

 思わず舌打ちしてしまう。なんだよ。いっちょまえにあてつけかよ。
 俺は外していた視線を戻し、間近の由良の額へと軽く頭をぶつけてやった。

「いった……」

 なんで、とばかりに見返す由良に、俺は何度目かの溜息をついた。

「残念ながら、もうそんなふうには思ってなかったよ」

 それなのに、俺はどこかでやっぱり由良のそばにいなければと――そばにいてやりたいと思っていた。そしてそれが答えだと自覚した。

「え……待って」
「……」

 まっすぐ視線がかち合っても、今度は目を逸らさなかった。おかげでじわりと熱を帯びた顔も見られてしまったと思ったが、それももういいかと諦めた。

「待って……待ってちーちゃん。それって……それって、もしかして……!」

 ……まぁ、そういうことみたいだな。

 俺の気持ちが伝わったのか、由良は感極まったように表情を歪ませた。ふたたびぽろぽろと涙をあふれさせ、心底嬉しそうに眉尻を下げて笑みを浮かべる。かと思えば飛びつくように俺に抱き着こうとして――。

「でも、返事は保留だ」

 その手が空中でぴたりと止まる。

「俺は春には実家を出るし、それまではいままでと何も変わらない。いいな?」

 俺は由良をまっすぐ見据えたまま、いつものように言い聞かせる。
 もろもろ諦め――認めはしたものの、だからといって、「じゃあこれからよろしくお願いします」なんて俺には言えない。

 この選択はそんな簡単なものじゃない。それはひとり息子でもある由良のことを思えばこそでもあるし、慎重に考えて答えを出すべき案件なのは火を見るより明らかだ。

 だから俺は〝保留〟とした。
 そう線引きをしたつもりなのに、

「わかった!」

 由良はそう声を上げるなり、次には俺を抱き締めてくる。まるで子供がしがみつくみたいにぎゅうぎゅうと力をこめて、そのかたわら、幸せそうに頬を擦り寄せてくる。

「春まではってことは、春からはいいよってことだよね? その……ちーちゃんの一人暮らしの部屋に遊びに行っても、キス、しても……、ちーちゃんに……触っても……?」

 なんでそうなる。

 閉口した俺は、それでも肯定も否定もしなかった。それがまた嬉しかったのか、由良はまた呼気を震わせる。

「……優斗より泣き虫だな」

 笑み混じりに呟くと、隠すように肩へと目元が押し付けられる。夏の制服(シャツ)は薄いから、伝わる感覚ですぐにわかった。

「……ばかだな、ほんと」

 宥めるように後頭部を撫でると、より顕著に肩がその熱が伝わってくる。

 その視界の端で、さっきまで園内を走り回っていたさっきの子供が、真似するように母親に抱き着いていた。