花嫁衣裳の裾が、石造りの床をすべるたび、微かな衣擦れの音が広間に響いた。
天蓋の下、香の煙がゆらゆらと漂う。銀の燭台に灯された炎が、揺らぐごとに彼女の影を壁に映し、ひどく頼りなく揺らめかせていた。
私が、皇帝陛下の妃になる。
その言葉を、何度自分に言い聞かせても、現実味はなかった。
セレーナ・エル・フェルディナは、亡き辺境伯の一人娘。
名ばかりの縁談であったはずの婚姻は、突如、政の思惑の渦に巻き込まれた。
皇帝リヴィウス・アレクシス三世。
若くして戴冠し、数々の改革と征服を成し遂げたと聞く。
だが彼の名を口にする臣下たちの顔には、決まって一抹の恐れが浮かぶ。冷酷……それが、彼を最も的確に表す言葉だった。
婚礼の日、セレーナは初めてその瞳を見た。
黒曜石を思わせる深い瞳。どこまでも静まり返り、まるで他人の感情に一片の興味も持たぬような。
その冷たさの奥に、彼女は自らの存在がどう映っているのか、想像するのも怖かった。
式は淡々と進んだ。
聖職者の声も、拍手の音も、遠く霞んで聞こえる。
唯一、手のひらに触れた冷たい金属……婚姻の指輪だけが、現実の重さを告げていた。
陛下には、すでに心を寄せる方がいる。
そう、誰もが知っていた。
宮廷でも、街でも、人々はその女性の名を囁く。
幼少より陛下に仕えた騎士の娘、アリアナ。
聡明で美しく、陛下が唯一心を許す相手。
セレーナは、その噂を聞くたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みを覚えた。
「……妃殿下、陛下がお呼びです」
侍女の声に我へ返る。
広間の奥、厚い扉の向こうが、皇帝の私室。
結婚式の夜、つまり初夜を意味していた。
足音を殺して歩く廊下は長く、冷えきっていた。
柱の影に並ぶ兵士たちの視線を感じるたび、彼女の心臓は早鐘を打つ。
この夜が、どんな運命を連れてくるのか。
その答えを知るのが怖くて、足がすくみそうになった。
扉の向こうから、低く落ち着いた声が響く。
「入れ」
その一言だけで、空気が震えた。
重い扉が開かれる。
そこには、昼間と変わらぬ冷たい美貌をした皇帝がいた。
黒い軍服のまま椅子に腰かけ、書類の束を眺めている。
視線だけが、静かにセレーナを射抜いた。
「……陛下。お呼びとのことでしたので」
「来たか」
短く、それだけ。
近づくことすら許されぬような威圧感。
セレーナは裾を揃えて膝を折り、俯いた。
沈黙。
長い、長い沈黙。
蝋燭の火がぱち、と弾ける音さえ、恐ろしく響く。
やがて、書類を置く音がした。
「……今日の婚礼。よく務めた」
「身に余るお言葉です」
「私はお前を娶ったが、誤解するな。これは政略であり、情ではない」
やはり。
予想していた言葉。それでも胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「承知しております。私は陛下のご負担にならぬよう、静かに過ごす所存です」
それを聞いた瞬間、リヴィウスの眉がわずかに動いた。
表情は変わらない。けれどその瞳の奥に、ほんの一瞬、何かが揺れたように見えた。
「……静かに、か」
彼は立ち上がり、歩み寄る。
その足音が近づくたびに、セレーナの息が浅くなる。
顎を指で持ち上げられた瞬間、彼女は思わず身を固くした。
「逃げないのか?」
「逃げる理由が、ございません」
「……そうか」
低く笑うような吐息。
次の瞬間、唇が重なった。
驚きよりも先に、世界が遠のいた。
冷たいと思っていたその唇は、熱かった。
氷が融ける音が、心の奥で確かにした。
どうして。
昼間あれほど冷たかったのに。
今、目の前にいるこの人は、まるで別人のように優しい。
「お前は……不思議な女だ」
耳元で囁く声が、微かに掠れていた。
「何も求めず、何も主張しない。なのに、目を離すと消えてしまいそうだ」
その夜、セレーナは初めて知る。
冷酷と呼ばれた皇帝が、夜の帳の中では、驚くほど甘く、激しく、そして脆い男であることを。
翌朝、陽が差し込むころには、彼の寝台の上で腕の中に抱かれていた。
まるで世界でいちばん大切なものを守るように。
けれど……。
彼女がそっと身を起こした瞬間、リヴィウスはすでに冷たい瞳を取り戻していた。
「もう下がれ」
短く突き放すような声。
昨夜の温もりは、幻だったかのように。
セレーナは黙って一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる音が、胸の奥に深く刺さる。
(……これは、勘違い。きっと陛下は、あの方を思い浮かべていらしただけ)
そう自分に言い聞かせる。
しかし、肌に残る熱が、その嘘を容易く暴いた。
冷酷なる婚礼の夜。
その始まりが、ふたりの長い誤解の物語になることを、まだ誰も知らなかった。
夜が明けるたび、セレーナは少しずつ心の居場所を見失っていった。
皇后としての務めは、想像以上に孤独だった。
政務の間、彼女は決して夫に呼ばれることはなく、宰相たちの前に立つことも許されなかった。
日中の皇帝は、容赦なく冷徹で、誰に対しても一定の距離を保っている。
まるで彼の中には個と呼べる感情など存在しないかのように。
彼が視線を向ける先には、決まって一人の女性がいた。
アリアナ……銀の髪を持つ騎士の娘。
今は侍従長として皇帝に仕えている彼女は、堂々として美しく、セレーナが到底及ばぬほどの気品と自信に満ちていた。
謁見の間。
アリアナが報告書を差し出す姿を、セレーナは遠くから見つめる。
リヴィウスがごく自然に彼女へ言葉をかける様を目にするたび、胸の奥に薄い膜のような痛みが広がった。
……そうよ、これが現実。私はただの飾り。
それでも彼女は、誰よりも丁寧に微笑み、誰よりも静かに振る舞った。
少しでも邪魔にならないように。
少しでも彼の苛立ちを買わないように。
だが、その静けさが、予期せぬ誤解を呼び始めていた。
「妃殿下は、また陛下のご機嫌を損ねぬようにと控えめでいらっしゃるとか」
「健気なお方ね……あの冷たい陛下に、そんな方が似合うのかしら」
宮廷の女官たちは、廊下の陰で囁き合う。
セレーナはその声が聞こえないふりをして、花瓶の花を整えた。
指先に刺の痛みが走る。血が滲んでも、彼女は顔を上げない。
健気。愛らしい。
その言葉は、彼女にとって皮肉でしかなかった。
けれど、夜。
扉を叩く音がした。
もう寝衣に着替えていたセレーナは、息をのむ。
いつものように、彼は何の前触れもなくやってくる。
「……起きていたか」
低く掠れた声。
昼間とはまるで別人のような柔らかさが混じっている。
「はい、陛下。お疲れではありませんか」
その言葉に、リヴィウスは目を細めた。
近づき、彼女の髪に指を滑らせる。
「お前は、いつも私を気遣うのだな」
「……それは、妃として当然の務めです」
「務め?」
口の端が、わずかに上がる。
「そんな義務感で、夜ごと私の腕に来るのか」
頬が熱くなった。
拒めば無礼、応えれば勘違い……その狭間で、セレーナは息を呑む。
「ち、違います……陛下が望まれるなら、私は」
その言葉を途中で遮るように、彼の唇が触れた。
熱く、焦がすように。
昨夜よりも深く、確かに求める気配を孕んでいた。
「お前は……私を恐れぬ。誰もが私を避けるのに」
囁く声が、皮肉ではなく、どこか戸惑いを含んでいた。
「なぜだ。なぜ、そんなふうに私を見る」
答えられない。
セレーナ自身も、理由がわからなかった。
ただ、彼の夜の顔だけは……寂しげで、放っておけなかった。
翌朝。
侍女のクローディアが、寝室のカーテンを開けながら言った。
「妃殿下、昨夜も陛下がお部屋に……羨ましい限りでございます」
「羨ましい……?」
「ええ。あのお方が妃殿下にだけは微笑まれるのを、誰もが見ておりますもの」
セレーナは凍りついた。
微笑む?彼が、私に?
彼女には、そんな記憶がない。
夜の彼の眼差しは確かに優しいが、それを微笑みと呼ぶのは違う気がした。
けれど、宮廷ではすでに冷酷皇帝の心を溶かした皇后という噂が流れ始めていた。
皮肉なことに、その噂の発端はリヴィウス自身だった。
政務の合間、側近が問うたのだという。
「陛下、妃殿下とは、いかがでございますか」
彼はほんの少しだけ考え、そしてこう答えた。
『あの方は、慎ましくて、可憐だ。』
その一言が、宮廷中を駆け抜けた。
セレーナの知らぬところで、彼女は皇帝に愛される聖女として崇められ始める。
けれど、当の本人は、毎夜、彼の腕の中で息を殺していた。
愛されていると信じるには、彼の瞳の奥があまりに遠すぎたから。
ある夜、セレーナは思い切って口を開いた。
「陛下……アリアナ様のことを、どう思っておられるのですか」
空気が、静まり返った。
リヴィウスの指が一瞬止まり、そして彼女の頬を撫でた。
「なぜ、その名を出す」
「巷では、陛下が彼女を……」
「違う」
低く、鋭い声。
けれどその次の瞬間には、まるで苦痛を押し殺すような表情で目を伏せた。
「……違うのだ」
彼は何かを言いかけて、唇を閉ざした。
それ以上、何も言わなかった。
ただ、その夜の抱擁は、いつになく強かった。
まるで彼自身が何かに怯えているように。
セレーナはその胸の鼓動を聞きながら思った。
……この人は、本当は冷酷なんかじゃない。
ただ、誰にも心を見せられないだけ。
そう信じてしまったのが、彼女の最初の過ちだった。
春の訪れを告げる花の香が、王城の庭を満たしていた。
だが、セレーナの胸には、花の色がひとつも映らなかった。
リヴィウスの言葉……違うのだ。
それは否定でも肯定でもなく、ただ苦しげな吐息だった。
あの夜以来、彼は再び心を閉ざしたように見えた。
昼の彼は、徹底して冷静だった。
政務の席では誰よりも的確に判断し、誰よりも早く言葉を切る。
情に流されることを嫌い、どんな懇願にも眉ひとつ動かさない。
臣下たちはそれを皇帝の強さと呼んだが、セレーナには、それがどこか、
自らを罰するような孤独に見えた。
「……陛下は、なぜあれほどまでに自らを追い詰めるのだろう」
独り言のように呟くと、侍女のクローディアが苦笑を浮かべた。
「妃殿下。あのお方は、幼き日に王位を継がれました。血塗られた玉座を背負う覚悟を、誰よりも早く知っておられるのです」
「血塗られた……?」
「陛下の兄上が……謀反を起こされたのです。鎮圧の命を出されたのは、当時わずか十五歳の陛下。以後、陛下は情を捨てた王と呼ばれるようになりました」
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
リヴィウスのあの冷たい瞳。その奥に刻まれた傷の形を、初めて想像した。
夜になると、彼はまた現れた。
その顔は昼間とは違い、どこか安堵したような表情を見せる。
何も語らず、ただ腕を伸ばす。
触れられるたびに、セレーナの中の理性が溶けていった。
……彼は私を求めている。
そう錯覚しそうになる。
けれど、彼の唇から出るのは決して愛しているという言葉ではない。
「お前は……私を恐れない。それがいい」
「静かな夜だ。お前がいると、騒がしさが消える」
まるで、彼女がただの安らぎの代替品であるかのように。
それでもセレーナは、彼の腕を拒めなかった。
拒むことは、彼を孤独に突き落とすようで怖かった。
それが誤解だと知りながらも、彼の背を抱くしかなかった。
ある日、王城の庭で小さな事件が起こった。
新しい外交使節の歓迎式で、セレーナはリヴィウスと共に並び立つ。
初めて大勢の前に並ぶその場面に、彼女は少しだけ緊張していた。
だが、彼女のドレスの裾を踏みつけた侍女がバランスを崩し、花瓶が倒れ、破片が散った。
その瞬間、リヴィウスが無意識に手を伸ばした。
彼の掌が、セレーナの肩を強く引き寄せる。
細い体がその胸に収まる。
破片が頬をかすめたが、痛みよりも彼の体温のほうが強く残った。
「怪我はないか」
低く落ちる声に、周囲の空気が変わった。
臣下たちは驚きの表情で二人を見つめる。
冷酷皇帝が、咄嗟に人を抱き寄せた……それだけで、伝説のように噂が広がった。
その日の夕刻、アリアナがセレーナの部屋を訪ねてきた。
いつもの凛とした姿のまま、だがその瞳の奥には複雑な影が揺れている。
「……妃殿下。陛下は、貴女を特別にお思いです」
唐突な言葉に、セレーナは目を瞬いた。
「とんでもない……私はただの……」
「違います」
アリアナの声がかすかに震えた。
「私はずっと、陛下の傍で見てきました。あの方が誰かの前であれほど感情を見せるのを、初めて見ました。
……羨ましいほどに」
その言葉に、セレーナは息を呑んだ。
まるで彼を理解していたと思っていた自分の浅はかさを突きつけられた気がした。
アリアナは続けた。
「陛下は昔、誰かを救えなかった。その記憶が、陛下を縛っているのです。妃殿下、どうか……陛下をひとりにしないでください」
その言葉の意味を、セレーナが真に理解するのはもう少し先のことだった。
その夜。
いつものように寝台に腰かけ、セレーナは彼の帰りを待っていた。
だが、扉はなかなか開かれない。
夜が更け、燭台の炎が小さくなっていく。
……来ない。
そう思った瞬間、遠くで爆ぜるような音がした。
外の空気が震え、兵の叫び声が響く。
「妃殿下!西棟が、火の手を……!」
クローディアの声に、セレーナは立ち上がった。
燃え上がる炎が、夜空を赤く染めていた。
駆けつけた兵士たちが次々と指示を飛ばす中、彼女はその混乱の中心で、ひとりの人影を見つけた。
……リヴィウス。
燃え落ちる梁の下、彼が倒れた兵士を抱き上げようとしていた。
その背に火の粉が舞い降りる。
セレーナは考えるより先に走っていた。
「陛下!」
振り返った瞬間、炎の中で二人の視線が交錯する。
その刹那、轟音とともに屋根が崩れ落ちた。
身体が、勝手に動いた。
気づけば、彼を庇うように腕を伸ばしていた。
衝撃。
熱と光と痛み。
息が詰まり、視界が真っ白に染まる。
ああ、これでよかったのかもしれない。せめて一度くらい、彼の役に立てたなら。
意識が遠のく直前、強く、狂おしいほどの声が聞こえた。
「セレーナ!お前まで失ってたまるか……!」
腕に抱きかかえられ、闇の中を駆ける。
その胸の鼓動が、痛いほどに伝わってくる。
目を覚ましたとき、部屋は静かだった。
白い天蓋。柔らかな布の香り。
隣の椅子に、俯いたまま眠る男の姿がある。
リヴィウスだった。
頬には煤の跡が残り、衣の袖には焦げた痕。
それでも彼の手は、彼女の指をしっかり握っていた。
セレーナが小さく身じろぎすると、その手が微かに震えた。
そして、彼の瞳がゆっくりと開かれる。
「……目を覚ましたか」
掠れた声。
けれど、その瞳の奥にあったのは、これまで見たことのない色だった。
恐れ、痛み、そして愛。
「なぜ……庇った」
「……陛下を、守りたかったのです」
「馬鹿な女だ。私などのために……」
そう言いながら、彼の声は震えていた。
「私はもう、誰も失いたくなかった。なのにお前まで……」
セレーナは微笑んだ。
「失っていません。こうして、生きています」
リヴィウスはしばらく何も言わなかった。
ただ、指を絡め、額を彼女の手に押し当てる。
「……お前は、私を恐れないどころか、愚かしいほどに真っ直ぐだ」
「それが……私の取り柄ですから」
彼の肩が微かに震えた。
やがて、小さく笑う。
その笑みは、初めて見せた人間のものだった。
「セレーナ。お前がここに来てから、私は自分を誤魔化していた。冷酷を装えば、誰も傷つかぬと信じていた。
だが……お前を見ていると、どうしようもなく心が動く」
「……陛下」
「いや、リヴィウスでいい」
その声には、鎧を脱いだ男の素顔があった。
セレーナの頬に触れた指が震える。
その震えが、何よりの真実だった。
「私はずっと、誰かを愛してはいけないと思っていた。だが、お前が炎の中で私を庇ったあの瞬間、心の底から恐ろしくなった。……お前を失うのが、怖かった」
静かに涙が零れる。
セレーナのものか、彼のものか、もうわからなかった。
「陛下……それでも、私は貴方を選びます」
「なぜ」
「冷酷でも、孤独でも。誰も知らない貴方の優しさを、私は知っているから」
次の瞬間、唇が重なった。
炎の夜に焼かれた心を、互いの温もりで癒やすように。
それは誤解ではなく、ようやく芽生えた真実の愛の形だった。
春はゆっくりと、王都の屋根を黄金色に染めていった。
火災から数週間、王城はすでに復旧の兆しを見せていたが、セレーナの胸にはまだ、あの夜の熱が残っていた。
リヴィウスは政務に戻り、再び冷静な皇帝の顔を見せていた。
けれど、その声の端々に、柔らかな温度が宿っているのをセレーナは感じていた。
ある朝、執務室に呼ばれた。
彼は机の上に一通の文書を置き、静かに言った。
「セレーナ。今日、民の前に出ようと思う」
「……陛下が、ですか?」
「あの火災のことを、国中が知っている。妃が自ら命を賭して民を守ったと。だが、私は真実を語る必要がある」
セレーナは小さく息を呑んだ。
真実。その言葉の重さが、胸の奥に落ちる。
その日、王都の中央広場には、数千の民が集まった。
春の風が旗を揺らし、鐘の音が遠くに響く。
玉座の階段を下りたリヴィウスが、人々の前に立った。
その横に、セレーナ。
彼は一度だけ彼女を見やる。
あの夜のように……強く、優しく。
「民よ。聞け」
その声は、広場に澄み渡る。
「我が妃セレーナは、私を救った。彼女が炎の中で身を投げ出さねば、今の私はここにいない。私は冷酷と呼ばれ続けた。情を捨て、誰にも心を見せぬ皇帝として」
人々が静まり返る。
リヴィウスは続けた。
「だが、それは恐れだった。かつて私は、愛する者を守れず、血の上に立った。再びその痛みを味わうくらいなら、冷たいままでいいと……そう思っていた。だが、この女は、そんな私の欺瞞を一瞬で焼き尽くした」
セレーナは唇を震わせた。
まるで世界の真ん中で、彼が自分の心を差し出しているようだった。
「私はこの女を……愛している。この命が続く限り、彼女だけを妃として尊ぶと誓う」
群衆のざわめきが、やがて歓声へと変わった。
旗が揺れ、花びらが空を舞う。
セレーナの頬を、春の風が撫でた。
隣で、リヴィウスが小さく笑う。
その笑みは、もはや誰にも隠そうとしない。
「……これでようやく、冷酷な王の仮面を捨てられたな」
「そんな仮面、最初から貴方のものではありませんでした」
「いや、違う。お前が来るまで、私は人としての顔を忘れていた。お前がそれを、思い出させてくれた」
セレーナは彼の手を取った。
硬く、しかし確かに人の温もりを持つ手。
その瞬間、遠くで鐘が鳴り響く。
王都の春を告げる再生の鐘。
冷酷と呼ばれた皇帝の物語は、静かに終わりを告げた。
けれど、ふたりの人生はようやく始まったばかりだった。
夜。
寝所の扉が閉じられる音がした。
セレーナが振り返ると、リヴィウスが微笑んでいた。
「昼は民の前で王として立った。今夜は、ただの男として……お前の夫でありたい」
「……陛下、またそうやって……」
「リヴィウス、だ」
その名を呼んだ瞬間、胸が甘く熱を帯びた。
彼の腕が伸び、彼女をそっと抱き寄せる。
外では風が花を散らす。
その音さえ、ふたりの呼吸のように穏やかだった。
彼の唇が耳元に触れる。
「お前の静けさに救われた。だが、今はその静けさの中で、共に生きていきたい」
「……はい」
その答えを聞いた彼は、安堵したように微笑み、
唇を重ねた。
冷たかった夜が、ゆっくりと溶けていく。
氷の王の心が、春の陽に包まれていく。
そしてその夜、冷酷皇帝と呼ばれた男は、ただ一人の妻の名を何度も呼びながら、人としての幸福を、初めて知った。
翌朝、陽光が差し込む寝室で、
セレーナは彼の胸に頬を寄せながら、そっと囁いた。
「リヴィウス。貴方が笑うと、世界が少しだけ優しくなりますね」
「お前がいるからだ」
そう言って彼は、彼女の髪に唇を落とした。
かつて氷のようだったその瞳には、
もうどこにも孤独の影はなかった。
終
天蓋の下、香の煙がゆらゆらと漂う。銀の燭台に灯された炎が、揺らぐごとに彼女の影を壁に映し、ひどく頼りなく揺らめかせていた。
私が、皇帝陛下の妃になる。
その言葉を、何度自分に言い聞かせても、現実味はなかった。
セレーナ・エル・フェルディナは、亡き辺境伯の一人娘。
名ばかりの縁談であったはずの婚姻は、突如、政の思惑の渦に巻き込まれた。
皇帝リヴィウス・アレクシス三世。
若くして戴冠し、数々の改革と征服を成し遂げたと聞く。
だが彼の名を口にする臣下たちの顔には、決まって一抹の恐れが浮かぶ。冷酷……それが、彼を最も的確に表す言葉だった。
婚礼の日、セレーナは初めてその瞳を見た。
黒曜石を思わせる深い瞳。どこまでも静まり返り、まるで他人の感情に一片の興味も持たぬような。
その冷たさの奥に、彼女は自らの存在がどう映っているのか、想像するのも怖かった。
式は淡々と進んだ。
聖職者の声も、拍手の音も、遠く霞んで聞こえる。
唯一、手のひらに触れた冷たい金属……婚姻の指輪だけが、現実の重さを告げていた。
陛下には、すでに心を寄せる方がいる。
そう、誰もが知っていた。
宮廷でも、街でも、人々はその女性の名を囁く。
幼少より陛下に仕えた騎士の娘、アリアナ。
聡明で美しく、陛下が唯一心を許す相手。
セレーナは、その噂を聞くたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みを覚えた。
「……妃殿下、陛下がお呼びです」
侍女の声に我へ返る。
広間の奥、厚い扉の向こうが、皇帝の私室。
結婚式の夜、つまり初夜を意味していた。
足音を殺して歩く廊下は長く、冷えきっていた。
柱の影に並ぶ兵士たちの視線を感じるたび、彼女の心臓は早鐘を打つ。
この夜が、どんな運命を連れてくるのか。
その答えを知るのが怖くて、足がすくみそうになった。
扉の向こうから、低く落ち着いた声が響く。
「入れ」
その一言だけで、空気が震えた。
重い扉が開かれる。
そこには、昼間と変わらぬ冷たい美貌をした皇帝がいた。
黒い軍服のまま椅子に腰かけ、書類の束を眺めている。
視線だけが、静かにセレーナを射抜いた。
「……陛下。お呼びとのことでしたので」
「来たか」
短く、それだけ。
近づくことすら許されぬような威圧感。
セレーナは裾を揃えて膝を折り、俯いた。
沈黙。
長い、長い沈黙。
蝋燭の火がぱち、と弾ける音さえ、恐ろしく響く。
やがて、書類を置く音がした。
「……今日の婚礼。よく務めた」
「身に余るお言葉です」
「私はお前を娶ったが、誤解するな。これは政略であり、情ではない」
やはり。
予想していた言葉。それでも胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「承知しております。私は陛下のご負担にならぬよう、静かに過ごす所存です」
それを聞いた瞬間、リヴィウスの眉がわずかに動いた。
表情は変わらない。けれどその瞳の奥に、ほんの一瞬、何かが揺れたように見えた。
「……静かに、か」
彼は立ち上がり、歩み寄る。
その足音が近づくたびに、セレーナの息が浅くなる。
顎を指で持ち上げられた瞬間、彼女は思わず身を固くした。
「逃げないのか?」
「逃げる理由が、ございません」
「……そうか」
低く笑うような吐息。
次の瞬間、唇が重なった。
驚きよりも先に、世界が遠のいた。
冷たいと思っていたその唇は、熱かった。
氷が融ける音が、心の奥で確かにした。
どうして。
昼間あれほど冷たかったのに。
今、目の前にいるこの人は、まるで別人のように優しい。
「お前は……不思議な女だ」
耳元で囁く声が、微かに掠れていた。
「何も求めず、何も主張しない。なのに、目を離すと消えてしまいそうだ」
その夜、セレーナは初めて知る。
冷酷と呼ばれた皇帝が、夜の帳の中では、驚くほど甘く、激しく、そして脆い男であることを。
翌朝、陽が差し込むころには、彼の寝台の上で腕の中に抱かれていた。
まるで世界でいちばん大切なものを守るように。
けれど……。
彼女がそっと身を起こした瞬間、リヴィウスはすでに冷たい瞳を取り戻していた。
「もう下がれ」
短く突き放すような声。
昨夜の温もりは、幻だったかのように。
セレーナは黙って一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる音が、胸の奥に深く刺さる。
(……これは、勘違い。きっと陛下は、あの方を思い浮かべていらしただけ)
そう自分に言い聞かせる。
しかし、肌に残る熱が、その嘘を容易く暴いた。
冷酷なる婚礼の夜。
その始まりが、ふたりの長い誤解の物語になることを、まだ誰も知らなかった。
夜が明けるたび、セレーナは少しずつ心の居場所を見失っていった。
皇后としての務めは、想像以上に孤独だった。
政務の間、彼女は決して夫に呼ばれることはなく、宰相たちの前に立つことも許されなかった。
日中の皇帝は、容赦なく冷徹で、誰に対しても一定の距離を保っている。
まるで彼の中には個と呼べる感情など存在しないかのように。
彼が視線を向ける先には、決まって一人の女性がいた。
アリアナ……銀の髪を持つ騎士の娘。
今は侍従長として皇帝に仕えている彼女は、堂々として美しく、セレーナが到底及ばぬほどの気品と自信に満ちていた。
謁見の間。
アリアナが報告書を差し出す姿を、セレーナは遠くから見つめる。
リヴィウスがごく自然に彼女へ言葉をかける様を目にするたび、胸の奥に薄い膜のような痛みが広がった。
……そうよ、これが現実。私はただの飾り。
それでも彼女は、誰よりも丁寧に微笑み、誰よりも静かに振る舞った。
少しでも邪魔にならないように。
少しでも彼の苛立ちを買わないように。
だが、その静けさが、予期せぬ誤解を呼び始めていた。
「妃殿下は、また陛下のご機嫌を損ねぬようにと控えめでいらっしゃるとか」
「健気なお方ね……あの冷たい陛下に、そんな方が似合うのかしら」
宮廷の女官たちは、廊下の陰で囁き合う。
セレーナはその声が聞こえないふりをして、花瓶の花を整えた。
指先に刺の痛みが走る。血が滲んでも、彼女は顔を上げない。
健気。愛らしい。
その言葉は、彼女にとって皮肉でしかなかった。
けれど、夜。
扉を叩く音がした。
もう寝衣に着替えていたセレーナは、息をのむ。
いつものように、彼は何の前触れもなくやってくる。
「……起きていたか」
低く掠れた声。
昼間とはまるで別人のような柔らかさが混じっている。
「はい、陛下。お疲れではありませんか」
その言葉に、リヴィウスは目を細めた。
近づき、彼女の髪に指を滑らせる。
「お前は、いつも私を気遣うのだな」
「……それは、妃として当然の務めです」
「務め?」
口の端が、わずかに上がる。
「そんな義務感で、夜ごと私の腕に来るのか」
頬が熱くなった。
拒めば無礼、応えれば勘違い……その狭間で、セレーナは息を呑む。
「ち、違います……陛下が望まれるなら、私は」
その言葉を途中で遮るように、彼の唇が触れた。
熱く、焦がすように。
昨夜よりも深く、確かに求める気配を孕んでいた。
「お前は……私を恐れぬ。誰もが私を避けるのに」
囁く声が、皮肉ではなく、どこか戸惑いを含んでいた。
「なぜだ。なぜ、そんなふうに私を見る」
答えられない。
セレーナ自身も、理由がわからなかった。
ただ、彼の夜の顔だけは……寂しげで、放っておけなかった。
翌朝。
侍女のクローディアが、寝室のカーテンを開けながら言った。
「妃殿下、昨夜も陛下がお部屋に……羨ましい限りでございます」
「羨ましい……?」
「ええ。あのお方が妃殿下にだけは微笑まれるのを、誰もが見ておりますもの」
セレーナは凍りついた。
微笑む?彼が、私に?
彼女には、そんな記憶がない。
夜の彼の眼差しは確かに優しいが、それを微笑みと呼ぶのは違う気がした。
けれど、宮廷ではすでに冷酷皇帝の心を溶かした皇后という噂が流れ始めていた。
皮肉なことに、その噂の発端はリヴィウス自身だった。
政務の合間、側近が問うたのだという。
「陛下、妃殿下とは、いかがでございますか」
彼はほんの少しだけ考え、そしてこう答えた。
『あの方は、慎ましくて、可憐だ。』
その一言が、宮廷中を駆け抜けた。
セレーナの知らぬところで、彼女は皇帝に愛される聖女として崇められ始める。
けれど、当の本人は、毎夜、彼の腕の中で息を殺していた。
愛されていると信じるには、彼の瞳の奥があまりに遠すぎたから。
ある夜、セレーナは思い切って口を開いた。
「陛下……アリアナ様のことを、どう思っておられるのですか」
空気が、静まり返った。
リヴィウスの指が一瞬止まり、そして彼女の頬を撫でた。
「なぜ、その名を出す」
「巷では、陛下が彼女を……」
「違う」
低く、鋭い声。
けれどその次の瞬間には、まるで苦痛を押し殺すような表情で目を伏せた。
「……違うのだ」
彼は何かを言いかけて、唇を閉ざした。
それ以上、何も言わなかった。
ただ、その夜の抱擁は、いつになく強かった。
まるで彼自身が何かに怯えているように。
セレーナはその胸の鼓動を聞きながら思った。
……この人は、本当は冷酷なんかじゃない。
ただ、誰にも心を見せられないだけ。
そう信じてしまったのが、彼女の最初の過ちだった。
春の訪れを告げる花の香が、王城の庭を満たしていた。
だが、セレーナの胸には、花の色がひとつも映らなかった。
リヴィウスの言葉……違うのだ。
それは否定でも肯定でもなく、ただ苦しげな吐息だった。
あの夜以来、彼は再び心を閉ざしたように見えた。
昼の彼は、徹底して冷静だった。
政務の席では誰よりも的確に判断し、誰よりも早く言葉を切る。
情に流されることを嫌い、どんな懇願にも眉ひとつ動かさない。
臣下たちはそれを皇帝の強さと呼んだが、セレーナには、それがどこか、
自らを罰するような孤独に見えた。
「……陛下は、なぜあれほどまでに自らを追い詰めるのだろう」
独り言のように呟くと、侍女のクローディアが苦笑を浮かべた。
「妃殿下。あのお方は、幼き日に王位を継がれました。血塗られた玉座を背負う覚悟を、誰よりも早く知っておられるのです」
「血塗られた……?」
「陛下の兄上が……謀反を起こされたのです。鎮圧の命を出されたのは、当時わずか十五歳の陛下。以後、陛下は情を捨てた王と呼ばれるようになりました」
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
リヴィウスのあの冷たい瞳。その奥に刻まれた傷の形を、初めて想像した。
夜になると、彼はまた現れた。
その顔は昼間とは違い、どこか安堵したような表情を見せる。
何も語らず、ただ腕を伸ばす。
触れられるたびに、セレーナの中の理性が溶けていった。
……彼は私を求めている。
そう錯覚しそうになる。
けれど、彼の唇から出るのは決して愛しているという言葉ではない。
「お前は……私を恐れない。それがいい」
「静かな夜だ。お前がいると、騒がしさが消える」
まるで、彼女がただの安らぎの代替品であるかのように。
それでもセレーナは、彼の腕を拒めなかった。
拒むことは、彼を孤独に突き落とすようで怖かった。
それが誤解だと知りながらも、彼の背を抱くしかなかった。
ある日、王城の庭で小さな事件が起こった。
新しい外交使節の歓迎式で、セレーナはリヴィウスと共に並び立つ。
初めて大勢の前に並ぶその場面に、彼女は少しだけ緊張していた。
だが、彼女のドレスの裾を踏みつけた侍女がバランスを崩し、花瓶が倒れ、破片が散った。
その瞬間、リヴィウスが無意識に手を伸ばした。
彼の掌が、セレーナの肩を強く引き寄せる。
細い体がその胸に収まる。
破片が頬をかすめたが、痛みよりも彼の体温のほうが強く残った。
「怪我はないか」
低く落ちる声に、周囲の空気が変わった。
臣下たちは驚きの表情で二人を見つめる。
冷酷皇帝が、咄嗟に人を抱き寄せた……それだけで、伝説のように噂が広がった。
その日の夕刻、アリアナがセレーナの部屋を訪ねてきた。
いつもの凛とした姿のまま、だがその瞳の奥には複雑な影が揺れている。
「……妃殿下。陛下は、貴女を特別にお思いです」
唐突な言葉に、セレーナは目を瞬いた。
「とんでもない……私はただの……」
「違います」
アリアナの声がかすかに震えた。
「私はずっと、陛下の傍で見てきました。あの方が誰かの前であれほど感情を見せるのを、初めて見ました。
……羨ましいほどに」
その言葉に、セレーナは息を呑んだ。
まるで彼を理解していたと思っていた自分の浅はかさを突きつけられた気がした。
アリアナは続けた。
「陛下は昔、誰かを救えなかった。その記憶が、陛下を縛っているのです。妃殿下、どうか……陛下をひとりにしないでください」
その言葉の意味を、セレーナが真に理解するのはもう少し先のことだった。
その夜。
いつものように寝台に腰かけ、セレーナは彼の帰りを待っていた。
だが、扉はなかなか開かれない。
夜が更け、燭台の炎が小さくなっていく。
……来ない。
そう思った瞬間、遠くで爆ぜるような音がした。
外の空気が震え、兵の叫び声が響く。
「妃殿下!西棟が、火の手を……!」
クローディアの声に、セレーナは立ち上がった。
燃え上がる炎が、夜空を赤く染めていた。
駆けつけた兵士たちが次々と指示を飛ばす中、彼女はその混乱の中心で、ひとりの人影を見つけた。
……リヴィウス。
燃え落ちる梁の下、彼が倒れた兵士を抱き上げようとしていた。
その背に火の粉が舞い降りる。
セレーナは考えるより先に走っていた。
「陛下!」
振り返った瞬間、炎の中で二人の視線が交錯する。
その刹那、轟音とともに屋根が崩れ落ちた。
身体が、勝手に動いた。
気づけば、彼を庇うように腕を伸ばしていた。
衝撃。
熱と光と痛み。
息が詰まり、視界が真っ白に染まる。
ああ、これでよかったのかもしれない。せめて一度くらい、彼の役に立てたなら。
意識が遠のく直前、強く、狂おしいほどの声が聞こえた。
「セレーナ!お前まで失ってたまるか……!」
腕に抱きかかえられ、闇の中を駆ける。
その胸の鼓動が、痛いほどに伝わってくる。
目を覚ましたとき、部屋は静かだった。
白い天蓋。柔らかな布の香り。
隣の椅子に、俯いたまま眠る男の姿がある。
リヴィウスだった。
頬には煤の跡が残り、衣の袖には焦げた痕。
それでも彼の手は、彼女の指をしっかり握っていた。
セレーナが小さく身じろぎすると、その手が微かに震えた。
そして、彼の瞳がゆっくりと開かれる。
「……目を覚ましたか」
掠れた声。
けれど、その瞳の奥にあったのは、これまで見たことのない色だった。
恐れ、痛み、そして愛。
「なぜ……庇った」
「……陛下を、守りたかったのです」
「馬鹿な女だ。私などのために……」
そう言いながら、彼の声は震えていた。
「私はもう、誰も失いたくなかった。なのにお前まで……」
セレーナは微笑んだ。
「失っていません。こうして、生きています」
リヴィウスはしばらく何も言わなかった。
ただ、指を絡め、額を彼女の手に押し当てる。
「……お前は、私を恐れないどころか、愚かしいほどに真っ直ぐだ」
「それが……私の取り柄ですから」
彼の肩が微かに震えた。
やがて、小さく笑う。
その笑みは、初めて見せた人間のものだった。
「セレーナ。お前がここに来てから、私は自分を誤魔化していた。冷酷を装えば、誰も傷つかぬと信じていた。
だが……お前を見ていると、どうしようもなく心が動く」
「……陛下」
「いや、リヴィウスでいい」
その声には、鎧を脱いだ男の素顔があった。
セレーナの頬に触れた指が震える。
その震えが、何よりの真実だった。
「私はずっと、誰かを愛してはいけないと思っていた。だが、お前が炎の中で私を庇ったあの瞬間、心の底から恐ろしくなった。……お前を失うのが、怖かった」
静かに涙が零れる。
セレーナのものか、彼のものか、もうわからなかった。
「陛下……それでも、私は貴方を選びます」
「なぜ」
「冷酷でも、孤独でも。誰も知らない貴方の優しさを、私は知っているから」
次の瞬間、唇が重なった。
炎の夜に焼かれた心を、互いの温もりで癒やすように。
それは誤解ではなく、ようやく芽生えた真実の愛の形だった。
春はゆっくりと、王都の屋根を黄金色に染めていった。
火災から数週間、王城はすでに復旧の兆しを見せていたが、セレーナの胸にはまだ、あの夜の熱が残っていた。
リヴィウスは政務に戻り、再び冷静な皇帝の顔を見せていた。
けれど、その声の端々に、柔らかな温度が宿っているのをセレーナは感じていた。
ある朝、執務室に呼ばれた。
彼は机の上に一通の文書を置き、静かに言った。
「セレーナ。今日、民の前に出ようと思う」
「……陛下が、ですか?」
「あの火災のことを、国中が知っている。妃が自ら命を賭して民を守ったと。だが、私は真実を語る必要がある」
セレーナは小さく息を呑んだ。
真実。その言葉の重さが、胸の奥に落ちる。
その日、王都の中央広場には、数千の民が集まった。
春の風が旗を揺らし、鐘の音が遠くに響く。
玉座の階段を下りたリヴィウスが、人々の前に立った。
その横に、セレーナ。
彼は一度だけ彼女を見やる。
あの夜のように……強く、優しく。
「民よ。聞け」
その声は、広場に澄み渡る。
「我が妃セレーナは、私を救った。彼女が炎の中で身を投げ出さねば、今の私はここにいない。私は冷酷と呼ばれ続けた。情を捨て、誰にも心を見せぬ皇帝として」
人々が静まり返る。
リヴィウスは続けた。
「だが、それは恐れだった。かつて私は、愛する者を守れず、血の上に立った。再びその痛みを味わうくらいなら、冷たいままでいいと……そう思っていた。だが、この女は、そんな私の欺瞞を一瞬で焼き尽くした」
セレーナは唇を震わせた。
まるで世界の真ん中で、彼が自分の心を差し出しているようだった。
「私はこの女を……愛している。この命が続く限り、彼女だけを妃として尊ぶと誓う」
群衆のざわめきが、やがて歓声へと変わった。
旗が揺れ、花びらが空を舞う。
セレーナの頬を、春の風が撫でた。
隣で、リヴィウスが小さく笑う。
その笑みは、もはや誰にも隠そうとしない。
「……これでようやく、冷酷な王の仮面を捨てられたな」
「そんな仮面、最初から貴方のものではありませんでした」
「いや、違う。お前が来るまで、私は人としての顔を忘れていた。お前がそれを、思い出させてくれた」
セレーナは彼の手を取った。
硬く、しかし確かに人の温もりを持つ手。
その瞬間、遠くで鐘が鳴り響く。
王都の春を告げる再生の鐘。
冷酷と呼ばれた皇帝の物語は、静かに終わりを告げた。
けれど、ふたりの人生はようやく始まったばかりだった。
夜。
寝所の扉が閉じられる音がした。
セレーナが振り返ると、リヴィウスが微笑んでいた。
「昼は民の前で王として立った。今夜は、ただの男として……お前の夫でありたい」
「……陛下、またそうやって……」
「リヴィウス、だ」
その名を呼んだ瞬間、胸が甘く熱を帯びた。
彼の腕が伸び、彼女をそっと抱き寄せる。
外では風が花を散らす。
その音さえ、ふたりの呼吸のように穏やかだった。
彼の唇が耳元に触れる。
「お前の静けさに救われた。だが、今はその静けさの中で、共に生きていきたい」
「……はい」
その答えを聞いた彼は、安堵したように微笑み、
唇を重ねた。
冷たかった夜が、ゆっくりと溶けていく。
氷の王の心が、春の陽に包まれていく。
そしてその夜、冷酷皇帝と呼ばれた男は、ただ一人の妻の名を何度も呼びながら、人としての幸福を、初めて知った。
翌朝、陽光が差し込む寝室で、
セレーナは彼の胸に頬を寄せながら、そっと囁いた。
「リヴィウス。貴方が笑うと、世界が少しだけ優しくなりますね」
「お前がいるからだ」
そう言って彼は、彼女の髪に唇を落とした。
かつて氷のようだったその瞳には、
もうどこにも孤独の影はなかった。
終



