「ゼバス……」

 食後のお茶を飲み終えたアルトルトが、ひょこりと扉から顔を覗かせる。
 わざとゆっくりベッドを整えていたゼバスティアは、その声に手を止め、振り返った。

「お手伝いする」

「ありがとうございます」

 初日は指パッチンで一瞬に整えたところ、アルトルトに「もう終わったのか、ゼバスはすごいな」としょんぼりされた。
 『失敗した』と思ったゼバスティアは、それ以来ベッドメイクだけは、わざと時間をかけることにしている。

 もちろん、可愛いお手伝いさんの登場を待つためにだ。

 シーツの反対側を「んしょ、んしょ」と引っ張る姿の愛らしいこと。
 シーツの長さにまだ足りず、両手をいっぱいに広げて頑張るその様もまた、尊い。

「トルト様に助けて戴いて、このゼバス、大変助かっております」

「どういたしまして!」

 えっへんと胸を張るその表情が、また可愛い。
 頭からバリバリと食べたくなるほどに。
 その尊さは、空が抜けるように青く、小鳥が歌い、緑はキラキラと輝き――(以下略)。

「さあ、出来ました」

「うん、できた!」

 ゼバスティア側のシーツは皺一つないが、トルト側の端はくしゃくしゃ。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 一仕事終えた満足げな笑顔が、なによりのご褒美だ。

 白手袋の手で背を軽く押して退出を促しながら、振り向きもせず、もう片方の手で指を音もなく鳴らす。
 その瞬間、シーツの端はぴしりと皺一つなく整えられた。



◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇



 朝食を食べ、“お手伝い”を終えたあとは、アルトルトの勉強時間だ。

 三歳なのだから、まだ遊んでいればよいとゼバスティアは思う。
 けれど、それはアルトルト自身が決めた日課だった。

「ぼくは勇者なのだから、武芸だけでなく勉学もできねば、立派な大人になれない!」

 なんと尊い!
 それを聞いた瞬間、ゼバスティアは床をダンダン踏み鳴らして悶絶しそうになった――が、ぐっとこらえ。

「ご立派にございます、トルト様」

 と、胸に手を当てて一礼する。

 今日もアルトルトは羽ペンを手に、一文字一文字ていねいに書き写す。
 それをゼバスティアは横に立ち、穏やかに見守る。

 教師など当然いない。
 継母の王妃ザビアが付けるはずもないから、ゼバスティアがすべて教えているのだ。

「しまった。字をまちがえた」

「大丈夫にございます。一文字程度、意味はわかります」

 三歳の手習いなのだ。
 今は細かいことより、のびのびと――とゼバスティアは微笑む。

「でも、間違いは間違いだ。もう一度書く」

「ご立派にございます、トルト様」

 再び丁寧に書き直すその小さな手。
 大地をしっかり踏むような筆の力強さに、ゼバスティアはまた微笑んだ。

 手習いのあとは読書だ。
 声をあげて、ゆっくりと。
 その声も大きく、はっきりしていて、大変よい発声だ。

 ときどき舌が回らず、「ちゅる」と怪しい発音になるのも愛らしい。
 ちゅるちゅるちゅる……その可愛い声もイイッ!!
 と、心の中で床をごろんごろん転がり――(以下略)。

 だが、ふとアルトルトの声が止まり、口に手を当てて考えこんでしまった。

「どうかいたしましたか? トルト様」

 まさか、自作の“ちゃんさいじでもわかる良い子の歴史書”に不備が!?
 冷静な顔を装いながらも、ゼバスティアは心の中でやや焦る。

 アルトルトが読んでいるその歴史書は、ゼバスティアが自ら執筆・監修したものだ。
 「三歳児でも理解できる歴史書がないとは、人間界とはなんと劣っていることか!」と嘆き、魔界の学者たちを総動員して完成させた、特製の絵本である。

「大王ロロが偉大なのはわかった。でも、作物の不作で困った民を、道を作るのにかり出すのは、おかしいと思う」

「彼らには十分な食べ物と日給、住居も与えられたと書かれているでしょう?」

「たしかにそうだ。でも困っているのだ。仕事などさせず、すぐに必要なものを与えるべきではないのか?」

「それは、いつまでにございますか? 困窮した者を働かせずに、一生お国が面倒を見ると?」

「それは出来ない。国は民が働き納めた税で成り立っている。王や貴族が勝手に使ってよいものではない。国を守り、人々の暮らしをよくするために使うものだと、本で読んだ」

 うーんうーんと唸るアルトルトに、ゼバスティアは目を細める。
 その“本”とは、当然ゼバスティア監修の『良い子のための国と税の成り立ち』だ。

「そうか! だから、大王ロロは民に仕事を与えたのだな。働けば食べ物や住むところがあり、必要なものを買う金も手に入る!」

 ひらめいたように目を見開くアルトルトに、ゼバスティアは静かにうなずいた。

「すばらしいお答えにございます、トルト様。すべての人がトルト様のように良い子ならばよいのですが、そうではありません。働かずに欲しいものが与えられれば、それが当たり前となり、怠け者ばかりになるでしょう」

「怠け者ばかり……では困るな。民が働き、王や貴族は民と国のために奉仕するべきものだ」

 これもまた『良い子のための帝王学』の文句。もちろんゼバスティアの執筆である。
 書きながら「そんな崇高な王や貴族など現実におらん」と思ったが、勇者教育のためだ。よしとする。

 勇者とは、常に理想高くあらねばならない。
 そして――清く正しく美しいまま、将来は魔界の聖堂で、自分とリンゴーンするのだ!

 もし魔界の梟の学長がこの決意を知ったなら、きっとこう呟いただろう。

 『魔王様が育てているのは……良き花嫁ではなく、勇者なのですか?』と。