おりしも、朝食である冷めたオートミールが、いまだ眠っているアルトルトの元へ運ばれるところだった。

 ゼバスティアは、王妃の差し向けた無表情のメイドから、有無を言わさずそのワゴンを受け取った。

 そして、指パッチン一つでその食事を、その日の王妃の朝食と入れ替えてやった。

 冷めたオートミール粥のボウル一つを見た王妃が、とたん癇癪を起こしたらしいが──そんなの知らん。

「おはようございます、殿下」

 天蓋のカーテンを開けて、ベッドで眠る可愛い妖精──もとい勇者の姿を見る。

 初めて見るその寝顔に、思わず胸にはない心臓を黒のお仕着せの上から押さえそうになったが、我慢、我慢。

「ん? お前は誰だ?」

 眠たい目をこすり、そう訊ねたアルトルトに、ゼバスティアは表情に出すことなく驚いた。

 毒入り朝食を届けたあのメイドは、ゼバスティアを完全にこの王宮に元からいる使用人と認識していた。
 その暗示は絶対だ。

 継母王妃とその周囲を魔王の力でどうにかするのは、北の魔女に禁じられているが、その他のことに関しては禁じられていない。

 だから毒入り朝食も魔法で入れ替えたし、王宮の者たちにも暗示をかけた。

 しかし、アルトルトにはそれが効かなかった。
 さすが幼くても勇者と言うべきだろう。その黄金の魂には幻惑など通用しないらしい。

 それでもゼバスティアは慌てず、胸の前に片手をあてて一礼した。

「初めまして、殿下。本日より、殿下付きとなりました執事のゼバス──」

 思わず魔王としての“本名”を名乗りそうになって、ゼバスティアはしまった! と思った。
 首を傾げるアルトルトに、慌てて言い直す。

「ゼバス。執事のゼバスにございます」

「そうか」

 アルトルトはこっくりとうなずいた。

 幻惑は効かぬ勇者といえど、彼は三歳。さらには本宮殿から遠く離れた離宮に、うち捨てられるように隔離された身だ。
 新しい使用人だと名乗れば、すんなり信用してくれた。

「殿下」

「トルトだ」

「はい?」

「殿下でなくていい。僕のことはトルトと呼べ」

「はい、トルト様。かしこまりました」

 ──トルト、トルト。愛称呼びが出来るとは、なんと素晴らしい!

 その場でぴょんぴょん跳ねたい気持ちを、ゼバスティアは必死に押さえ、胸に片手を当てて一礼したのだった。

 実際に飛び上がったならば、古い離宮の天井をぶち抜いて、神や女神の住まう天界まで突き抜けたかもしれない。

   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇

 アルトルトの一日は規則正しい。

 朝、同じ時刻にきっちりと起きて、ゼバスティアの用意した朝食をしっかり噛んで食べる。

 よく噛み、よく味わうことは良いことだと、そばに控えたゼバスティアは目を細める。

 咀嚼するたびに動くぷくぷくのほっぺが可愛くて、身もだえしたくなるとか。
 ああ、自分の用意したとろとろオムレツが、くるくると手ずから巻いた、焼きたての──外はさくさく、中はふわふわのクロワッサンがアルトルトの血肉になるなんて。

 ……と、空想の机をダンダン叩いているなんて、ヘンタイなこと考えて……いる!

 食後のお茶をアルトルトに差し出して、ゼバスティアは休むことなく寝室へと向かう。
 部屋の清掃とベッドメイクのためだ。

 この離宮の使用人は現在、執事ゼバスしかいない。
 王太子が住まう離宮にもかかわらず、だ。

 いや、そもそもこの離宮には先の王妃──つまり現王の母にして、アルトルトの祖母にあたる王太后が共に暮らしていた。
 そして、王宮におけるアルトルトの最大の庇護者でもあった。

 その王太后だが、アルトルトが三歳の誕生日を迎える一月前に亡くなっている。
 そこからアルトルトが魔王討伐に行くことが、現王妃ザビアの主導で瞬く間に決まったという。

 さらにいうならば、王太后付きの使用人たちは、アルトルトが魔王討伐に行ったその当日にクビを言い渡され、
 王妃の差し向けた王宮騎士たちに追い立てられるように王宮を追い出されたという。

 もうアルトルトの世話係など不必要とばかりに。

 実際、あの王妃は小さなアルトルトが魔王にパクッと食われておしまい──とでも思っていたのだろう。

 あんな愛らしい生き物を食べるなんて、とんでもない! とゼバスティアは憤慨する。

 いや、実際あの丸いほっぺは食べちゃいたいけど。
 寝てるあいだにちょっと吸い付くぐらいなら……いやいや、それではヘンタイだ。
 そこは人としてやってはならん。……魔王だけど。

 しかし、使用人の露骨な解雇はともかく、王太后の“唐突な死”というのが気になる。
 表向きは心臓の病とされているが、どうにも不審だ。

 なにしろ、アルトルトには毎日毒入りの食事が届けられているのだから。

 さて、ゼバスティア以外使用人のいない離宮だが、とはいえほこりの被っているところなどどこにもない。
 指パッチン一つですべて終わりなのだから。

 当然、ベッドメイクも──と言いたいところだが、ゼバスティアはなぜか、これだけは手ずからやることにしている。
 いや、初日はこれも指パッチンで一瞬で済ませていたのだが……。