百回の変身を終えたあと、ゼバスティアは転移して北の魔女の元へと向かった。

 今日は長い東方のキセルを片手に煙をくゆらせる、赤と黒のドレスの美女だった。
 さて、百年前に会ったときはしわしわの老婆の姿だったような……。
 まあ、いい。この魔女はコロコロと姿を変える。

 だからこそ、ゼバスティアは彼女に用があったのだが。

「頼みがある」

「魔王のあんたからそんな言葉を聞くなんてねぇ。千年ぶりかね」

 さて、千年前にもそんなことがあったか? とゼバスティアは覚えていなかった。
 まあ千年だ。そういえばこの魔女は、ゼバスティアが駆け出しの魔王だった頃からすでに北の大魔女だった。

 千歳の魔王よりも上なんて、一体いくつなのか?
 まあ、女性に歳を聞くのは禁句だし、この魔女の場合は、生死にもつながる。

 たとえ彼女が老婆の姿をしていようとも『お姉さん』と呼びかけねばならない。
 『このクソ婆!』と言った者の末路など、魔王でも知らない。

 ゼバスティアの話を聞いて、魔女は煙草をくゆらしていた寝椅子の上で笑い転げた。

 人が真剣に悩みの相談をしているのに失礼な、とゼバスティアは顔をしかめたが、
 魔女はばっちり涙と汗対応の黒のマスカラとライナーで縁取られた目元を、
 その赤いマニキュアで彩られた尖った爪でふきふき。

「いや~、こんなに楽しい話は久々だ。魔王様の“初恋”話なんてね」

「……はつこい?」

 とゼバスティアは首をかしげた。
 しかしその言葉を聞いたとたん、トゥンクと胸が高鳴った。

 アルトルトの丸いほっぺのお顔を見たときのように。

 嗚呼、これが恋というものなのかしら?

 すっかり乙女となって、普段は蒼白いほどに白い頬をほんのり薔薇色に染めたゼバスティアの顔を、
 面白そうに魔女は見て、彼になにか放り投げた。

 不意打ちだったが、すんなりと受け取った。
 それは銀の片眼鏡(モノクル)だった。

「そいつを付ければ、あんたの姿は平々凡々な執事に見えるはずさ」

「執事か……」

 なるほどとゼバスティアは思う。

 執事ならば王子のそばにいても、なにもおかしくはあるまい。
 しかも、おはようからおやすみまでアルトルトのお世話ができるなんて──なんて至福。

 もう絶対、あれの世話には誰もさせない。

 朝から顔を温かなタオルでふきふきしながら、丸いほっぺの感触を楽しむ。
 それからお着替えを手伝い、足下に跪いて靴を履かせる。

 この魔王の自分が勇者に跪いちゃうなんて……なんたる至福。

 いや、く、屈辱だ! 考えるだけで背筋がゾクゾクするぞ!

 頬を薔薇色に染めたまま妄想の世界へ突入したゼバスティアを、
 魔女はいささか呆れたように見て言った。

「ただし、『対価』はもらうよ」

「──なにがいい? この世で一番大きな金剛石か、人魚の虹の涙。古竜の体内から取り出された深紅の魔石か」

「そんなありきたりなものいらないわ」

 いずれも魔王城の宝物庫にある至宝だが、魔女はそれを一蹴。
 ゼバスティアも「そうか」と当たり前のように受けとめる。

 魔女は取引に『対価』を求める。
 千年生きた魔王よりさらに生きた年増──もとい、お姉さん魔女なら、それぐらいは当然だろう。

 ならばとゼバスティアは考える。

 神界に乗り込んだときにかっぱらってきた、美の女神の美容クリームなんてあったな。
 一塗りでお肌つやつや、百年若返るとかいう──そこまで考えたところで。

「対価は物じゃないわ」

 と魔女は言った。

「人の世に降りたならば、あなたは“人が作った決まり”に従わなければならない。いいわね」

「人の作った決まり?」

 ゼバスティアが顔をしかめると、魔女は続ける。

「あなた、地上に降りたとたんに、その可愛い勇者様の命を付け狙う継母とその一派を燃やして片付けて、終わりにするつもりでしょ?」

「…………」

 目の前の邪魔者は片付ける。力こそすべて──それが魔界の理。

 だが魔女は「それじゃ面白くないじゃない」と、ニイッと赤い唇をつり上げる。

「だから、その継母王妃が勇者王子を謀殺しようとしている証拠をしっかり集めて、人の法によって裁かれるようにすること」

 さらに指を振って、にやり。

「あ、もちろん証拠を集めるのに魔法を使ってちゃっちゃっと人を白状させたり、証拠を取り寄せるのもダメよ」

「そんな面倒な……」

「あら、それならこのモノクルは貸さないし、
 それに勇者ちゃんの周りの悪い人をあなたが瞬時に燃やすなら、
 そもそも執事になってその王子様を『お世話』する必要もないものね」

「お世話……」

 それは、なんて素敵な言葉だろうとゼバスティアは思った。

 そうだ、瞬時にあのクソ王妃を片付けては、アルトルトのそばにはいられない。

 ならば、全力で朝から晩までアルトルトの生活を見守りながら、
 その『片手間』にあの王妃をじりじりと追い詰めていくのも、また一興。

「わかった。その『対価』を承知しよう」

「ええ、せいぜいがんばってね。魔王にして勇者の執事さん」

 “勇者の執事”とは、なんて素敵な響き。

 うっとりしながらモノクルを付けたゼバスティアは、
 魔王の紫の長い衣から、瞬時に黒のぴったりした執事服へ、
 子羊の革の白手袋へと姿を変えて、王宮へと降り立とうとした。

「ああ、もう一つ」

「なんだ?」

 執事の姿で不機嫌にくるりと振り返る。
 その姿はどこからどう見ても痩せぎすの平凡な黒髪の男だった。

「完璧」とぷっと吹き出す魔女に、ゼバスティアは顔をしかめる。

「早く言え。我は忙しい」

「もし、あなたが“条件”を破ったときの罰よ」

「罰? 我がそんなヘマなどするか!」

「もし、あなたが王妃を“うっかり”その力で排除するなんて“ヘマ”をしたときよ」

 ──うっかり。
 たしかに我の唯一の欠点は“うっかり”だと、黒梟の宰相に言われたな。

 ゼバスティアは北の魔女のニヤニヤ笑っている顔をじっと見た。

「その場合は、そのモノクルにつけた呪いが発動して、あなたはただのカエルになるわ」

「……は?」

「元に戻る方法は──あなたの一番愛する者からの口づけ」

 きゃはは! と笑い声を上げる北の魔女の声を背に、
 ゼバスティアは今度こそ王宮へと転移した。