気紛れザビアの気が変わらぬうちに――。
 デュロワがアルトルトの肩を抱くようにして離宮をあとにする。
「殿下と共についてこい」
 と、ゼバスティアにも声をかけた。

「まったく、あの女狐をうまく口車に乗せた手腕、見事だったぞ」
「ありがとうございます」

 馬車に向かい合いで座る。
 ゼバスティアは軽く頭を下げ、デュロワの隣のアルトルトはきょとんとしている。

 本来なら、アルトルトの横は自分の定位置だ。
 だが今は“執事”。同じ馬車に乗れただけでも特別待遇。
 ……黒髭の大公の隣にちょこんと座るアルトルト。
 内心、ぎりぎりとハンカチを噛みしめたい気分だが堪える。

「しかし、女狐があそこまで抵抗するとは思わなかったな」
「はい。私も意外にございました」

 ザビアとすれば、アルトルトを王宮から放り出せばよいはず。
 あとは優柔不断なパレンス王だけ。
 アルトルトを廃嫡し、カイラルを王位に――そう考えると思っていたが。

 そう。カイラルを王位につけるだけなら、アルトルトを殺す必要はない。
 それでも“そこまで”の執着……不気味だ。

「女狐とは、母上のことですか?」
 アルトルトがデュロワを見上げて訊ねる。
 自分の命を狙っていると知りながら、彼はあくまで“母”と呼ぶ。

 慕ってはいない。幻想も抱いていない。
 年齢以上に大人びた思考と、子供らしく真っ直ぐな心。
 敵であっても礼は尽くす――義母であり王妃だから、と。
 信頼する大叔父と執事の前でも、呼び方を変えない。

「良い子の前では、あまり口にしてはいけない言葉だったな」
 デュロワは苦笑し、アルトルトの頭を撫でる。
 我も撫でたい! と、ゼバスティアは心のハンカチを(以下略)。

「僕は母上から……いえ、王宮から逃げたのですか?」

 アルトルトの言葉に、ゼバスティアはモノクルの奥の黒い瞳を見開く。
 しまった――この真っ直ぐな勇者は、自分を“逃げた”と見るのか。

「殿下は、私の領地に来るのはお嫌でしたかな?」
「いいえ! 大叔父上の領地に行けるのは楽しみです!
 今まで王都と魔王城以外には行ったことがありませんから!」

 ぶんぶん首を振るアルトルト。
 たしかに彼が知るのは王宮と、ゼバスティアの魔王城――しかも玉座の間だけ。
 パレンスやザビアはカイラルを連れてオペラ座や夏の離宮へ。
 なのにアルトルトは置き去り――。

 無能父王め。女狐王妃め。
 ゼバスティアの腹立ちは新たになる。

「ただ、このまま王宮を出ていいのか……と」

 俯くアルトルト。
 正しき勇者の心が、“逃げる”ことを良しとしない。

 デュロワが微笑み、穏やかに告げる。
「殿下、名誉ある撤退にございますよ」
「名誉?」

 逃げることに名誉――?
 ぱちぱち瞬く空色の瞳。デュロワは大きな手で黄金の髪を撫でながら。

「逃げることは恥ではありません。
 勝てないと分かって突き進むのは、むしろ愚か者のすること」

 アルトルトの瞳がさらに大きくなる。
「生きていてこそ、再戦の機会がある。
 今は力を蓄え、心身ともに強くなられることが、殿下のなすべきことです」

「そうだな。負けると分かって飛び込むのは馬鹿なことだ。
 勇気だけではダメなのだな」

「ええ、さすが殿下。ご聡明にございますな」

 くしゃり、ともう一度撫でる。
 くすぐったそうに肩をすくめるアルトルト。
 それを見て――ゼバスティアは、またも心の中でギリギリ(以下略)。

 それでも、元勇者に感心せざるを得ない。
 大魔王ゼバスティアは“勝ち”しか知らず、逃げたこともない。
 この隻腕の大公の片腕を落としたのも自分。だからこそ――。

 敗者であるデュロワは、口許に苦い笑みを浮かべた。
「……といっても、片腕を失い魔王から逃げ帰った私の言葉では、重みは薄いがな」

「そんなことはない! 叔父上!」

 アルトルトは銀の魔法義手を両手で包み込む。
「叔父上が生きてここにおられたからこそ、僕は『名誉ある撤退』が出来たのだ。感謝する!」

「まこと、殿下は真っ直ぐで、勇者に相応しい」

 微笑み合う大叔父と小さな勇者。
 それを見ていたゼバスティアは――(度々、以下略)。

「ゼバスにも感謝している!」

 くるりと向き直ったアルトルトが、白手袋の手をとる。
 ぎりぎり噛んでいた心のハンカチ。
 ぱっと足元に光が差し、蕾が一斉に開くような心地――。

「叔父上を呼んでくださったのはゼバスだろう?
 ゼバスは本当に僕の大切な執事だ。これからも、ずっと僕のそばにいてくれ」

「ええ、トルト様。ずっと、ずっとおそばにいますとも」

 ゼバスティアは震える声を抑えて答える。
 デュロワがぼそり。
「うむ、我らが殿下は生まれながらの勇者なだけでなく、魔性でもあったか」

 ――魔族の良い耳に、しっかり聞こえた。が、気にしない。
 魔性上等。アルトルトになら虜にされてもよい。
 ……いや、部下に言われるかもしれない。
 “魔王様、もう虜では?” と。

 ともあれ。
 小さなお手々と両手を握り合い、
 ゼバスティアの魂は幸せ一杯・夢一杯の花畑に昇天していた。