「その毒入りのパイはどうした?」
「処分いたしました」
あんなゴミ――アルトルトが泣き疲れてベッドに運ばれたあと、
怒りのままに消し炭にしてやったゼバスティアだ。
その言葉に、デュロワは眉間に皺を寄せる。
言葉にはせずとも、“大事な証拠を……”という顔。
「あの場にはアルトルト様と私、
それに王妃様とその従者の四人しかおりませんでした」
「……いくらでも、あの女狐ならば言い逃れするか」
「はい」
「たとえ私がその場に踏み入っても、
ザビアは知らぬ存ぜぬで押し通すだろう。
あげく『王妃である自分を陥れようとしている!』と言い出すのが関の山だ」
「左様で」
本当に――あの王妃を、パイと同じく指パッチンで消し炭にできたら、
どれほど気が晴れただろうか。
ゼバスティアは胸に手を当てて軽く頭を下げながら、奥歯を噛みしめた。
今からでも“やってしまうか”と思うが、
平凡な執事を装うためのこの銀のモノクル――
それを北の魔女からもらったときの“約束”がある。
王妃を、人の法で裁くこと。
そのためには、魔王の力を使ってはならない。
まったく、まどろっこしい方法だ。
だが、それで執事としてアルトルトのそばにいられるなら、我慢もする。
……しかし。
あの涙を見て、ほんの一瞬だけ――本気で王妃ごとこの王宮を消し飛ばそうと思った。
その指が動きかけた、その瞬間。
思い出したのだ。
“うっかり”魔王の力で人を殺めた場合、
モノクルに仕掛けられた北の魔女の呪い。
――カエルになる。
しかも、呪いを解く条件は“愛する者の口づけ”。
……そんなヘマ、するはずもないが。
万が一カエルになってしまったらどうする?
年に一度のアルトルトのお誕生日会を、カエルの姿で迎えるのか?
魔獣の骨の玉座に、ちんまりと座るカエルのゼバスティア。
勇者に向かってこう告げるのだ。
『愛する勇者よ、我の呪いを解くために口づけをしておくれ』
――いや、それはもう勇者と魔王の対決じゃない!
確かそんなおとぎ話があったな?
“呪われた王子様にお姫様が口づけをする”という……。
この場合は“呪われた魔王”に“可愛らしい勇者”が口づけ……。
どんなメルヘンだ、それは!?
しかもそこでアルトルトに、
「カエルとのチューなんて、僕イヤだ!」
なんて言われたら、我、一生立ち直れない!
――あの王妃を“うっかり”踏み潰すのは最後の手段として。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「毎日の食事にも毒を盛られていると?」
「はい。それは遅効性のものですが、じわじわとお身体を蝕む類です」
「そんな食事をアルトルトに……?」
「いえ。お食事は、すべて私が作っております」
デュロワの質問に、ゼバスティアは淡々と答えた。
そもそも毒など入れる以前に、
出される料理が育ち盛りの子供のことなど考えていない――ひどい代物だった。
「オートミールに固いパンに、野菜くずのスープか。
この間の宮中舞踏会で見たパレンス陛下の腹は、
早くもせり出し気味であったぞ」
「この俺より若いくせに、金ボタンが弾けそうな腹だ」と、
デュロワが苦笑混じりに言う。
子供には粗末な食事、自分は美食三昧――と、
その表情には苦々しさが滲んでいた。
「パレンスのあの様子では、ザビアの所業を見て見ぬふりをしながら、
そこまでとは思っていまい」
「はい」
ゼバスティアは、あの凡庸な王を一瞥で切り捨てた。
――アルトルトの父親として、まったく頼りにならぬ。
無害な男。
いや、無害で無力なのもまた害悪だ。
「……いいや、それは俺も同じだな」
デュロワは苦く笑った。
「先の王妃クリステイーナは優しく賢かった。
優柔不断なパレンスを支えてくれるだろうと思って、
私は王都に近寄らぬようにしていたのだが……」
「兄上――先王ゴドレルが亡くなったとき、
年若く頼りないパレンスより、俺を王にという声があった。
だが、私は固辞し、北の領地に引きこもった」
なるほど、とゼバスティアはすべてを察した。
この隻腕の大公がアルトルトを気にかけながらも王都を遠ざけた理由。
――“王位に野心がある”と、無用な疑いを避けるため。
「ヴェリデは残念だったが、アルトルトのそばにはまだ母上がいた」
母上とは、先の王太后である。
「その王太后様も、いまはいらっしゃいません。
トルト様が三歳を迎える姿を見ずに、お亡くなりになられました。
そして、アルトルト様は三歳のお誕生日に、最初の魔王討伐へ出かけられたのです」
「ああ、聞いたときには周囲の大人どもは何を考えていると思った。
だが、無事に戻ったと聞いてホッとした」
ゼバスティアの「残念ながら」という言葉に、
デュロワの眉間の皺がさらに深くなった。
彼も、王太后の死に疑念を抱いているのだろう。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「それでお前はどうしたい?」
「執事たる私に、それをお聞きになられますか?」
ゼバスティアは内心で驚いた。
まさか使用人の意見を問われるとは思ってもいなかった。
「とりあえず、アルトルトの食事から毒を退けられれば満足か?」
「いえ。それだけでは、トルト様のおためにはなりませぬ」
ゼバスティアはきっぱり答える。
ただ危険を取り除くだけでは足りない。
「お身体の健康も大事ですが、同時にその“お心”もお守りせねばなりません。
それには、あの離宮ではあまりにも環境が悪すぎます」
「アルトルトを王宮から出すか……。
それも、ザビアの手の届かぬ遠い場所へ。
我が大公領に引き取れと?」
「はい。それが最善かと存じます」
この憎悪に満ちた王宮から、
アルトルトを出すこと――それが唯一の道だった。
「だが、お前は王宮の執事だ。連れて行くことはできぬ」
デュロワが鋭く問う。
「当然にございます」
ゼバスティアは、迷いなく答えた。
たとえアルトルトと離れようとも。
年に一度――勇者と魔王として相まみえる日があれば、それでいい。
「しかし、私の主はトルト様ただお一人。
トルト様が閣下の御領地へ向かわれるその姿を見届けたのち、
私は王宮を去るつもりです」
守るべきもの。
選ぶべきもの――それはただ一人。
アルトルトだった。
