「トルト様!」

 ゼバスティアは、涙を流すアルトルトの前に片膝をついた。
 その顔を間近に見る。瞬きもせず、嗚咽も漏らさず、ただ涙を流す。
 その姿が痛ましかった。

 濡れた頬に、白手袋に包まれた手を伸ばしかけて――ためらう。
 執事として、主人に親しく触れてよいものか。
 軽く手を繋いだり、背に手を当てたことはあっても。

 だが、アルトルトのほうが先だった。
 くしゃりと顔を歪ませ、両手を伸ばしてゼバスティアの首筋にしがみついてくる。

 その小さな身体を抱きとめ、背に手を回す。

 そして思った。
 小さい、小さいとは思っていたが――
 まだ、こんなにも軽く、薄く、細いのか、と。

 本当に、まだ幼い子供なのだ。

「声をあげて泣いてよいのですよ、トルト様」

「ふ……ぁ……」

 小さな声は、本当に“泣き方を知らない子供”のようだった。

 思い返せば、アルトルトが泣く姿など一度も見たことがない。
 笑ったり、怒ったり、すねたりはしても――泣くことはなかった。

 良い子だ。
 良い子すぎる子だったのだ。

 人の子の育て方は、育児書を読んで理解したつもりでいた。
 なのに、気づけなかったとは……。

 彼の小さな泣き声とともに、胸に広がるこの感覚はなんだろう。
 これが“痛み”というのか? “切ない”という気持ちなのか?

 完璧な魔王として生まれた自分は、一度も感じたことがなかった。
 身体の痛みも、心の痛みも、どうしようもないことへの悔しさも。

 だが今――泣くアルトルトに、なにもしてやれない自分に、怒りすら覚える。

「申し訳ありません、トルト様」

 それは執事としての上辺の言葉ではない。
 魔王ゼバスティアとしての、心からの“ごめんなさい”だった。

「トルト様をお守り出来ませんでした」

「どうして? ゼバスは僕を守ってくれている。
 毎日、ずっとそばにいて、おいしい食事だって作ってくれているではないか」

「それだけでは……それだけでは、ダメだったのです、トルト様」

 嗚咽まじりに言いながら、ゼバスティアはアルトルトの背を撫で続けた。

 ――ああ、どうして彼が寂しいときに、こうして抱きしめてやらなかったのだろう。

 ときには執事ではなく、一人の人間として……
 いや、魔族が、魔王がなにを言っているやら。

 内心で苦笑する。

 守っているつもりだった。
 毒から、危険から、継母王妃の悪意から。
 だが、それだけではダメだったのだ。

「ううん、ゼバスは僕を守ってくれている。
 ゼバスがいるから、僕はおいしいご飯を毎日食べられる」

「トルト様……」

 なによりも一番守るべきだったのは、その命や身体だけではない。
 ――優しくも、柔らかい“心”だったのだ。

 一年も執事として仕えておきながら、なにをしていたのだろう。

 アルトルトのことを一番知っている気になっていた。
 だが、本当の人の子の心など、なにもわかっていなかったのだ。

「トルト様。今度こそ、ゼバスはトルト様をお守りします」

「ゼバス?」

 その問いに、ゼバスティアは深く息を吸い――決意した。

 執事として。
 いや、魔王として。
 この小さな勇者を、命に代えても守ると。



   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇



 翌日の深夜。

 アルトルトが寝静まった頃、魔法人形のコレットにあとを任せ、
 ゼバスティアは王宮を出た。

 向かうは王都にある、とある邸宅。

 裏口から通され、三階の書斎へ。

 そこにいたのは、あの夜会で見かけた男。
 大きな書き物机に腰掛け、横にはタマネギ頭の鋼の魔法甲冑を従える。

「この執事めの不躾な呼び出し……まさか翌日に応じてくださるとは」

 ゼバスティアは手を胸に当て、優雅に一礼した。

「アルトルト殿下のことだ。飛んできて当然だろう」

 ベルクフリート大公、デュロワ・ドンジョンが頷く。
 半月前に夜会で見たその黒髭の男ぶりは、変わらぬままだった。

 ゼバスティアが魔法書簡を隼の形で送ったのは前日のこと。
 ひと飛びで、この隻腕の大公の元へ届いたはずだ。

 しかし、まさか翌日には王都に現れるとは。

 ちなみに領地からここまでは、交え馬をして昼夜問わず走らせても三日はかかる距離。

「閣下がここにいらっしゃることは……」

「転送陣は使っていない。陛下も、ましてあの王妃も、私が王都にいることはまだ知らない」

 ゼバスティアの問いに、デュロワが即座に答える。

 王国各地にある転送陣は、国の管轄下にある。
 一瞬で遠方に跳べる便利な術だが、高額な通行税がかかるため、庶民には縁遠い。

 そして要人の移動は、すべて記録される。
 大公が王都へ向かったとなれば、すぐに王の耳に入るはずだ。

「その転送陣を使わず、どうやってこの王都へ?」

 怪訝そうに問うゼバスティアに、大公は淡々と答えた。

「これでも先代勇者だからな。石を使わせてもらった」

「石……にございますか?」

 わかっていながら、ゼバスティアは訊ねた。
 勇者や大神官、王しか知らぬ“それ”を確かめるために。

「ああ。勇者には大神殿から、神々の加護を受けた転送石が授けられる。
 一度行った場所なら、自由に跳べる便利な代物だ」

 もちろん、魔王であるゼバスティアも知っている。
 だからこそ魔王城には、転送封じの結界を張ってあるのだ。

 ――あの、お誕生日会のときは例外。あれは別。だってお誕生日会だし、アルトルトだし。

 ……と、どうでもいい自分の思考に気づいて、首を振る。

 ふと疑問が浮かぶ。

 なぜ、アルトルトには転送石が与えられていない?
 生まれながらの勇者である彼に。

 ――誰が、それを妨げているかなど、考えるまでもない。

「書簡は見た。ザビアが直接、アルトルト殿下に毒を盛ろうとしたとな」

 “王妃”という呼称すら使わず、デュロワは呼び捨てにした。
 その深緑の瞳が、鋭く光る。