「わ、わたくしはいいわ。あなたが全部食べなさい」

 アルトルトの提案に、ザビアは上ずった声をあげた。
 当たり前だ。誰が猛毒入りと分かっているパイを食べたいものか。

「いえ、母上。僕は母上とこの美味しいパイを、食べたいのです」

 アルトルトはあくまで天真爛漫。
 義理とはいえ母がここを初めて訪ね、菓子を持ってきてくれたことが嬉しい――
 その気持ちを素直に見せるように、ニコニコと笑っている。

 ゼバスティアは命じられずとも、二つの皿を出し、銀のナイフでパイを綺麗に切り分けた。
 半分をザビアの前へ、もう半分をアルトルトの前へ。

「わぁ、おいしそうだ」

 アルトルトはそう言い、銀のフォークを手に取る。
 その所作に、ゼバスティアはヒヤリとした。

 まさか、このまま口に運ぶのでは――?
 ザビアの瞳がギラリと期待に輝く。

 が、フォークを手にしたアルトルトは動かず、代わりにじっとザビアを見ていた。

「ど、どうしたの? お食べなさい」

「母上、お願いをしてもいいですか?」

「なんですか?」

 この子供が自分に願いごとなんて――
 ザビアが不快そうに眉をひそめる。

「この特別なパイを、同時に口に入れたいのです。
 母上と一緒に『おいしい』と笑い合えたらいいな、と思います」

「っ……!」

 アルトルトのにっこりとした笑顔とは逆に、ザビアの顔は真っ青になった。
 そして、期待に満ちた青空の瞳に圧されるように、彼女も銀のフォークを手に取る。
 白い指先はかすかに震えていた。

 おやおや……とゼバスティアは王妃を見直した。
 てっきり椅子を蹴って逃げ出すかと思いきや、毒入りとわかっているパイを“食べるふり”でもするつもりらしい。

 そう、食べるふりだ。
 口をつけるそぶりを見せて、アルトルトが先に食べたのを見届けたら、吐き出せばいい。

 ほんの一口だけなら死にはしない。
 いくら天人殺しの猛毒でも――だ。

 しかし、フォークを持ったザビアは、それ以上動けなかった。
 毒入りのパイにフォークの先を触れさせることすら、死を連想させるような顔つきだった。

 一方、アルトルトは無邪気にパイを切り分け、ぷすりと刺したそれを口に運ぼうとしていた。

 まさか、本当に食べる気か!?

 ゼバスティアは再び冷や汗をかく。

 王妃は息を呑んでそれを凝視する。

 アルトルトの愛らしい口許まで、あとわずか――。
 毒入りパイの切れ端は、その手前で止まった。

 ゼバスティアは執事として涼しい顔を装いながら、内心ではほっと息をつく。

 一口で即死の毒だろうと、ちょちょいのちょいで消せる。
 だが、そんなものをアルトルトの可愛い口になど入れさせたくはない。

「食べないのですか?」

 王妃は落胆と苛立ちの混じった声で問う。

「はい。母上と一緒がいいのです」

「っ……!」

 アルトルトは毒入りのリンゴパイの切れ端を顔の前にかかげ、期待に輝く瞳でザビアを見つめる。

 ザビアの手が躊躇いがちにパイへと近づくが、やはり触れられない。

 そして――

 キッとアルトルトを睨みつけ、銀のフォークをガシャンと皿に投げ出した。

「このわたくしを毒味に使うなど、不愉快です!」

 そう吐き捨てて立ち上がり、ドレスの裾を引いて去っていく。
 従僕が慌ててそのあとを追った。

 “毒味”――本音丸出しの捨て台詞だ。
 本当に、底の浅い女だ。



   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇



「トルト様」

 いまだリンゴのパイの切れ端をフォークに刺したままのアルトルトに、ゼバスティアは声をかける。

 呆然とした顔は、ザビアが突然立ち去った理由がわからない――そんな風にも見えた。

 まさかアルトルトは、本当に無邪気に、あの継母王妃と毒入りのリンゴパイを食べるつもりだったのか?
 ……いや、良い子のアルトルトなら、あり得るかもしれない。

「ゼバス」

「はい」

「このパイは下げていい。たぶん毒が入っている」

 ことり、と銀のフォークを皿に置くアルトルト。

 その一言に、ゼバスティアは軽く息を呑み、平静を装ってパイを下げた。

 ――やはり、わかっていたか。
 さすが我のアルトルトだ!

 鼻歌でも歌いたい気分で言う。

「さすがトルト様にございます。うまく王妃様をあしらいましたな」

 すぐにでも燃やしたい毒入りパイだが、アルトルトの前では出来ない。
 ワゴンにそっと置きながら、ゼバスティアは微笑した。

「……母上は、僕が早く死ねばいいと思っている」

 その言葉に、ゼバスティアは振り返った。

 空色の大きな瞳を潤ませたアルトルトが、椅子に座ったまま前を見つめている。

「本宮から届けられる、僕の毎日の食事にも、毒が入っているのだろう?
 だから執事なのにゼバスが、僕の食事を作っている」

「どうしてトルト様が、それを……?」

 気付かれないように処理していたはずだ。
 一瞬で毒入りの粗末な食事を燃やし、魔界から温かな料理を転送していた。
 見られてはいないはず――

「ゼバスが教えてくれただろう? 風の魔法で、遠くの音を聞く方法」

 そう。魔法の勉強もアルトルトはしている。
 生まれながらに高い魔力を持つ勇者ゆえ、制御の練習は欠かせない。

「トルト様、まさか……」

「うん、ごめん。ゼバスの見てる前でしか魔法は使ってはいけない、という約束を破った」

 そう。大きすぎる魔力は制御も難しい。
 だからゼバスティアは、彼に“自分の目の前でのみ”魔法を使うよう固く約束させていた。

「だけど、新しい魔法を教わって嬉しくて……それに、裏庭の生け垣から遠くにいらっしゃる母上の姿を見かけたんだ」

 離宮からは生け垣をはさんで本宮がちらりと見える。
 厚化粧のくせに美容にうるさい王妃が、庭を散策するなど珍しい。
 それは、まったくの偶然だった。

「盗み聞きも、悪いことだな」

 アルトルトの空色の瞳が、ゆらゆらと潤む。
 その白い小さな顔は、いつもの快活さを失って無表情だ。

「『毎日毒を盛っているのに、あの子供は死なない』って、母上は言った」

 なんて言い草だ、とゼバスティアは怒りを覚えた。

「『勇者だなんて、化け物じゃないの?』って。
 あれは僕のことだろう? ゼバス」

 そしてついに――

 アルトルトの空色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。