王妃の驚愕の表情に、アルトルトの後ろに控える執事ゼバスティアは、他の家臣たちのように頭を下げたまま、口の片端をひっそりとつり上げた。

 彼は銀の懐中時計の蓋の裏、魔鏡で控え室の王妃の様子をすべて見ていた。
 なかなか来ないアルトルトに苛立ち、焦れていた顔。
 そして、ようやく来たと思った瞬間──みすぼらしい格好を勝手に想像して、底意地の悪い笑みを浮かべたその表情も。

 だが今、彼の前に立つアルトルトは当然“普段着”などではない。
 この国の王太子にして、勇者にふさわしい盛装だった。

 プラチナの光沢を放つシャツ。
 その衿元や袖口、裾を飾るレースは、それだけで城ひとつ分の価値があるといわれる極上の品。
 純白の袖なしのジレには、常若の世界樹を象った金モールの縁取り。

 大人であれば袖つきの上着が正式だが、子供だからこその軽快さと愛らしさを狙った。
 膝丈の半ズボン(キュロット)の下は白いブーツ。
 両わきの飾りベルトに花の形の虹色水晶がキラキラと輝く。
 幼い今だけが許される、可憐な装い。

 ジレの上には、腰丈の軽やかなマント。
 背には王国の紋章と、それを支える幻獣──一角獣とグリフォンが、金糸銀糸と色とりどりのクリスタルで繊細に刺繍されている。
 衿元を飾る毛皮は、アルトルトの白い頬を優しく縁取る程度で、大仰ではない。
 純白、それは真珠のような光沢で、彼の凛々しくも可憐な表情を照らしていた。

 裾まで毛皮で縁取るような、余計な装飾はしない。
 幼い体で緞子の裾を引きずるような姿──それは今の弟カイラル王子そのもの。
 毛皮のマントに埋もれた“お化けの仮装”といっても過言ではない。

 アルトルトは、あくまで子供らしく快活に、王太子として格調高く。
 真っ白な衣の中で、ただひとつ、空色のリボンだけが彼の瞳と響き合っている。
 中央に留められたブローチは、濃い蒼に輝くダイヤモンド。

 品格と豪奢を併せ持ち、決してやりすぎず。
 愛らしさをまとった兄王子と、宝石と布に埋もれた弟王子。
 その差は、見た目だけでなく“息づかい”までもが違っていた。

 さて、どちらが“勝者”か──。
 衣装に勝ち負けなどない。
 だが、アルトルトの名が呼ばれ、彼が広間に現れた瞬間、貴族たちの反応がそれを明白に示していた。

 皆、息をのんで見入り、彼の気高く愛らしい姿に、思わず微笑む者さえいた。
 駆け寄り挨拶を試みた者もいたが、それは王一家の入場の声に遮られた。

 王妃ザビアは、そのアルトルトを射殺さんばかりの目でにらみつける。
 顔の半分を扇で隠したが、ゼバスティアの魔眼には遮るものなどない。

 真紅の唇を悔しげに噛みしめ、周囲にしか聞こえぬ声で吐き捨てた。
 ──もちろん、ゼバスティアの地獄耳には鮮明に届いた。

「レースも毛皮の量も少ない。宝石だって全部小粒じゃないのよ!」

 悔し紛れの言葉だと、誰の耳にも明らかだった。
 実際、王妃はこのあと血眼になって真珠のような毛皮と、蒼のダイヤモンドを探し回ったが、見つからなかったという。

 当然だ。
 毛皮は幻獣・銀獅子のたてがみ。
 蒼のダイヤモンドは、魔界でしか採れぬ希少石なのだから。

 ギリギリとアルトルトを睨み続けていた王妃は、やがてプイと顔を背け、視線で誰かに合図を送った。
 それは、この国の宰相ジゾール公爵。ザビアの実兄だ。
 王妃の兄として国政を握り、権力を思うままに振るう男。

 ジゾールは妹の視線に素早く反応し、王と王妃のもとへと歩み寄る。
 まず王であるパレンスに“軽く”挨拶をし、次にザビアの手の甲へ口づけ、甥であるカイラルに跪いて、その小さな両手をとり“丁寧”に言葉をかけた。

 他の廷臣たちも、それにならって続く。
 ザビアは勝ち誇ったように、執事ゼバス以外だれもそばにいないアルトルトを見やった。

 ──今度は無視というわけか。

 ゼバスティアは心の中で呆れたように笑う。
 貴婦人たちが好んでする、仲間外れの嫌がらせ。
 お茶会に招かない、話しかけない……。
 まったく“お上品な”人間どもの浅ましい遊びである。

 たしかに、王太子にして勇者であるアルトルトに誰も挨拶に来ないのは、冷遇以外のなにものでもない。
 恐ろしい王妃ザビアと、権力者である宰相に怯え、廷臣たちは逆らえないのだ。

 だが、こちらがそれに付き合う義理もない。
 大広間の真ん中に、幼い王太子をぽつんと立たせたままでは済まされぬ。

 夜会への“出席”という命は果たした。
 ゼバスティアはアルトルトへ退出をうながそうとした。
 王より先に去るのは廷臣には許されぬが、王太子であり、まだ三歳の幼子であれば非礼にはならない。

 だが、その時──
 アルトルトのもとへ、堂々と歩み寄る男がいた。

 黒いマントを翻し、その巨躯を折り曲げて、胸に片手をあてる。

「これは殿下。お久しゅうございます」

「大叔父上! お会いできて、このアルトルトも嬉しゅうございます!」

 黒髪に黒い髭をたくわえた壮年の美丈夫。
 アルトルトの言葉どおり、彼は大叔父──ベルクフリート大公。
 先王ゴドレルの弟、デュロワであった。