「まだ、来ないの?」

 大広間の横にある王族のための控え室。
 いつもよりさらにパニエでドレスをふくらませた王妃ザビアが、不機嫌そうに言った。

 夜会は始まったばかり。
 赤いコートのお仕着せを着た呼び出し人が、王族控え室とは反対側の大扉の前で、来場者たちの名を高々と告げている。

 郷士に騎士身分から始まり、男爵、子爵、伯爵──と。
 夜会の開始時刻は招待状に記されているが、身分が低い者はそれよりも早めに来場するのがしきたりだ。
 男爵が伯爵より遅く入場するなど、あってはならない。

「開催時刻は知らせたのでしょうね?」

「それは確実に申し上げました」

 ザビアの質問に老中従僕が答える。
 パチン、パチンと扇を閉じたり開いたりするたび、横の椅子に座ったパレンス王が、びくびくとその顔色をうかがう。

 来ない来ないと王妃が苛立っているのは、王太子アルトルトのことだ。

 本来なら、彼もこの控え室に入り、来場者が揃ったところで出て行くのが普通である。
 だが──三日前という急な夜会への命令。
 さらにアルトルトに伝えられた開催時刻は、本当の時間よりも半刻も早い“わざと間違えた”ものだった。

 それは、郷士や騎士や男爵たちに混じって入場せよという、継母ザビアのこれ見よがしな意地悪。
 盛装もせず、みすぼらしい普段着で現れた彼を、人々が笑い者にするだろうという算段だった。

 なのに、アルトルトはまだ来ない。

 とうとう、大公の名まで呼ばれた。
 王太子の次に高い序列の貴族である。

「ザビア、そろそろ……」

 隣のパレンスが恐る恐る声をかける。
 臣下たち全員が揃ったところで、王と王妃が出て行かねば、これもまた非礼にあたる。
 いくら国主一家とはいえ、だからこそ礼を欠いてはならないのだ。

 しかたなくザビアが立ち上がり、パレンスの差し出した手に手を載せたそのとき──
 呼び出し人の声が高らかに響いた。

 王太子、アルトルトの名を告げる声だ。

「ようやく来たのね。お仕度にずいぶんとお時間がかかったこと」

 赤い唇を意地悪くゆがめながら、ザビアは笑った。
 散々苛立たされたが、逆にちょうどいい。
 みすぼらしいあの子供の入場のあとに、輝かしい自分たち王家が現れるのだ。

「カイラルを先に歩かせなさい」

 命じられた王妃付き女官の伯爵夫人が、「さ、殿下」とカイラルの手を引く。
 先日三歳になったばかりのその足取りは、すこしおぼつかない。

 ……というより、今夜の重い衣装に埋もれて、より足下がふらついていた。
 衿元も袖口も裾もフリルとレースだらけ。
 小さな靴にも大粒の宝石。
 さらに床を引きずるほど長いマント。
 重そうな金の飾り紐に毛皮の縁取り。顔の半分が埋もれてしまっている。

 これではまるで、絹とレースと毛皮のかたまりだ。

 実際、王族専用の大広間奥の扉が開いたとき、注目した貴族たちは二度三度と瞬きをし、その“衣の塊”を見た。
 毛皮の隙間から覗く幼い顔と茶色の髪でようやく、彼が小さな王子だとわかる。

 そしてその後ろに、小山のようなドレスの王妃ザビア。
 隣には、豪奢な衣装の──オマケのような国王パレンス。

 いや、彼の衣も王として遜色ない。
 毛皮の縁取りのマント、総刺繍のジェストコート、ダイヤモンドのボタン。
 どれをとっても一級品だ。
 だが、それらすら凡庸に見えるほどの、レースとリボンと宝石と毛皮の“要塞”のような王妃のドレス。
 さらにはその前に、小さな塔のように盛装したカイラル王子。

 貴族たちはぽかんとその“二重要塞”を眺めた。
 凝視を無礼と気づいた者はあわてて頭を垂れるが、口元を引き締めて笑いをこらえる者もいた。

 ザビアはその反応を“称賛”だと勘違いし、満足げに胸を張る。
 夫である国王の存在など、頭からすっかり抜け落ちていた。

 王の手を取っているというのに、己こそ、この舞台の女王とばかりに──
 彼女は、着飾らせた息子を先導に、頭を垂れる臣下たちの列の中央を堂々と進む。

 だがそのとき、ザビアは視界の先に“目障りなもの”を見つけた。

 一人だけ、王家の入場に頭を下げない。
 いや、下げる必要のない存在。

 王太子アルトルト。
 その横には、影のように付き従う黒衣の執事の姿。
 だが、ザビアの目には執事の姿など映っていなかった。

 ギラギラと金箔まじりの縁取りをした目を大きく見開く。
 舞台役者のように大仰なその表情は、ある意味滑稽ですらあった。

 そこにいたのは──
 “普段着”などではない。

 白く輝く盛装姿の勇者にして、王太子アルトルト。