暗雲立ちこめる魔王城。

 勇者アルトルトは、三歳にして魔王討伐へと旅立った。

「やあやあ、われこちょはグリファニア王国の王子、ゆうちゃアルトルトなりぃ!
 極悪ひどぅの大魔王よ、いざ尋常に――ちょうぶ……イテッ!」

 ぷくぷくの丸いほっぺ、蜂蜜のように甘そうな金の髪。
 青空のように澄んだ大きな瞳。

 回らない舌で一生懸命に口上を述べる、さんちゃい……じゃない! 三歳勇者に、
 冷酷非道にして残虐無比とされる大魔王はぷるぷると震えた。

 玉座のうえで身もだえしそうになるのを、必死でこらえるために。

 最高位の魔族を示す銀の角、紫の光沢を放つ長い黒髪。
 青い血が流れているかのように透き通った白い肌、切れ長の紫の瞳。

 絶世の美貌と無尽蔵の魔力を持ち、長身にしてすらりとした肢体。
 片手で巨人(ギガンテス)を放り投げる魔界最強にして最凶の魔王様が――

 ここで「な、なんだこの可愛い生き物は~!」と玉座でごろんごろん転がるわけにはいかないのだ。

「ふふふ……身の程知らずの愚か者め。この魔王城の玉座まで来たことは褒めてやろう」

 魔獣の髑髏を積み上げたおどろおどろしい(きざはし)の上で、
 紫の長衣をまとい、ゆったりと足を組んだまま王者の余裕を装う。

 だが、夜のしじまのごとく低い美声も、その語尾がほんの少し震えていた。
 魔王はごほんと咳払いをして取り繕う。

「問答無用! 成敗ちゅる! えいっ!」

「ぐはっ! やられた!」

 三歳児用の安全レイピアでちょんと突かれただけで、魔王はぱったりと倒れた。
 柱の影で見ていた魔族の衛兵たちは、「魔王様、あまりにもわざとらしすぎます!」と心の中でツッコんでいた。

 魔王城にいきなり現れた飛竜が、城の前にぽいっと襟首をくわえた幼児を落としていった。
 立ち上がった幼児は「ぼくはゆうちゃだ! 魔王はどこだ!」と訊ね――

 “うっかり”玉座の間まで案内してしまった衛兵たちは、
 魔王の制裁を恐れて柱の陰で震えるしかなかった。

 のちに「よくやった」と、たんまり褒美をいただくことになるのだが。

 ばったり倒れた魔王を、三歳勇者は「どうだ!」とばかりに見下ろした。
 だが――。

「ふははは! これで我を倒したと思ったか? 我は不滅にして永遠なる存在!」

 高笑いとともに、魔王は床に突っ伏した姿勢からふわりと宙に浮き上がる。

「しつこい(やちゅ)め!」

 剣を構える勇者の愛らしい――いや、勇ましい姿に、
 魔王は再び床でごろごろ転がりたい衝動に駆られた。

 魔王の威厳、威厳、威厳! 大切なことなので三回唱える。

 そして、「えいっ!」と爪楊枝……ではない、レイピアを突き出す勇者に、
 「ちょっと待ったあぁぁあ!」と叫ぶ。

 勇者はぷくりと頬をふくらませてレイピアを降ろした。
 魔王は“尊い!”と叫びたくなる衝動を懸命にこらえた。効果はバツグンだ!

「我は蘇ったばかりで、まだ力も回復しておらぬ。そこを攻撃するとは卑怯と思わんか?」

「卑怯……それはゆうちゃにあるまじき行いだ。わかった!」

 こくりとうなずく素直な勇者に、魔王は「はぅ」と左胸を押さえた。
 そこに心臓なんてとっくにないのに。

 さらに勇者は「こまった」と腕を組んで考えこむ。
 そのしかめた顔も愛らしく、魔王は「ぐふっ!」と今度は右胸を押さえた。
 そこにも当然、心臓なんてない。

「ど、どうした? 勇者よ。困ったことがあるなら、この私に相談……ではない!
 ふはは! その途方にくれた顔はいいぞ! 話すがよい!」

「ぼくはゆうちゃだ。魔王を成敗ちなければならない!」

「ふむ、ならば一年後の今日、またこの魔王城に来るがよい。
 その頃には我の力も回復しているであろう」

 ――回復どころか、今の魔王はこの出会いに力がみなぎり、
 今なら勇者を抱えて空も飛べそうな気分だった。実際、飛べるけど。

「一年後の今日! それは僕の誕生日だ!」

「なんと! 私はケーキもプレゼントも用意していないぞ!」

 ゆうちゃ三歳のお誕生日を祝えなかったなんて……!
 魔王は深い絶望に包まれた。このまま勇者に倒されずとも、消滅してしまいそうだ。

 勇者がこてんと首をかしげる。
 その仕草に魔王は「はうっ」と今度は両手で両胸を押さえ、そのまま昇天(以下略)。

「ならば、来年の僕の誕生日にまた来る!」

 その言葉に、半分抜けかけた魔王の魂は一気に引き戻された。
 そうだ、来年がある。

 来年こそは、四歳になった勇者の身長より高いケーキを作って、
 イチゴを山ほどのせてやるのだ。

 そして「やられたぁ!」と大げさに倒れ、復活し、また一年後の約束を交わし――
 腕いっぱいのプレゼントを抱えさせて送り出すのだ。

 勇者は用は済んだとばかりに、玉座の間をとてとてと歩き出した。

 その足音が「とてとて」と本当に響くなど……!
 魔王は床をダンダンと踏み鳴らして悶えそうになるが、なんとか声を絞り出す。

「ま、待て!」

「なんだ?」

 勇者がくるりと振り返る。
 そのあどけない表情に、魔王は――(また以下略)。

「そ、そこから帰るがよい」

 魔王が指をさすと、勇者の前に転送陣が現れた。
 魔王の城から脱出するどころか、勇者のお部屋の前まで送り届けるためのものだ。

 なんて親切な我! と魔王は自画自賛する。

「一年後も、お前の前にお迎え……じゃない!
 この魔王と戦うための転送陣が現れるはずだ。

 ふはは……一年後のお誕生日会を楽しみに……じゃない!
 我と戦う絶望を味わうがよい!」

「わかった!」

 勇者はこくりとうなずき、魔王の作ったあきらかに怪しい転送陣の中に素直にはいった。

 ――いや、怪しくなんてない。ちゃんと良い子をお家に届ける安全設計だ。

 そして、勇者の姿は光の中に消えた。

 ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇

 グリファニア王国・王都トール。王宮の朝。

「おはようございます、トルト様」

「おはよ……ゼバス」

 天蓋のカーテンをあけ、恭しく挨拶をしたのは、アルトルトの専属執事。
 小さな手で目をこすりながら答える勇者王子の姿に、男は銀の片眼鏡(モノクル)越しに目を細めた。

 黒髪を一つに束ね、白手袋をはめた痩身。黒のぴったりとした執事服。

 ――大魔王ゼバスティアにして、執事ゼバス。

 その人であった。