「ちょっと、急にどうしたの?」
我に返ってその人の顔を見ると、嫌らしいほど『現実』が戻ってきた気がした。
私は妄想の世界が好きだ。母親の悪口を言っても殴られないから。自由だから。
「考え事、してた。なんか悪い?」
「お母さんの事、嫌いなんだね。安奈のこと。俺も裏切られたとき、嫌いになったよ」
明るい瞳が、急に薄暗くなった気がした。黒くて、歪んでいる、悪魔のような瞳。
怖い。だけど、心地が良い。なぜか、カッコいい、と思ってしまった。
自分のタイプには程遠いのに。同類の匂いがしたからだろうか。自分と同じ過去を持っているような気がする。
「一緒だね。お兄さんのその瞳、怖いね。私と同じ。割と好きかも、その瞳」
「え、そうなの?嬉しい」
喜んでる様子のお兄さんは、さっきとは別人のようだった。演技のような顔だ。
さっきの暗いモードの方が私は好きかもしれない。
「あ、そういえば。名前。聞いてたんじゃないの?私、名前教えるからお兄さんもちゃんと言ってよ」
「そうだったね!安奈はどんな名前を考えるのかな」
無理やり作った笑顔、ということは分かったが、鬱陶しくはなかった。
普通の人なら見抜けないだろう。どれが偽物で、どれが本物か。でも、私は見抜ける。
私自身が偽物だからだ。本当の自分はどこにいるのか忘れてしまった。ずっと思い出せないでいる。
だから、見抜ける。偽物も本物も知っているからこそ、見抜けるから。
「私の名前。紅麗(クレイ)。珍しいっていうか、変な名前でしょ」
そう言った瞬間、その人の目は、ぎらりと輝いた気がした。キラキラではない。
腹の底から黒いような、怖いような。でも、美しかった。凛としていてとにかく黒かった。
好き。二文字のこの言葉がとても恐ろしく感じた。言ったら終わり。
本当に一目惚れのような感覚だった。表すとしたら、汚い恋愛。泥のようにドロドロした愛。
「紅麗ちゃんね。じゃあ、クレちゃんって呼んでもいいかな?」
あぁ、また消えちゃった。また演技に戻っちゃった。気づいてないでしょ。
私、見抜けるんだよ。嘘ついてるよね。「俺は明るい天然男」っていうムードにしたいんでしょ。
「クレちゃん。別にいいけど?じゃあ、お兄さんも名前、教えてよ」
教えっぱなしだと平等じゃない。まず、私はこの人の名前を知りたかった。
名前に「黒」とかついてるのかな。「冬馬」とか似合ってるな。「目黒 冬馬」とかいいかも。
あの人に合う名前ばかり考えていたら、知らぬ間にあの人が紙を差し出してきた。
『四ッ谷 哀賭 ‐yotsuya aito‐ 053‐4788‐2117 
東京都足立区 □丁目〇〇‐〇 ××××マンション312』
多分メモの紙くずだけど、それにしても電話番号と住所まで書いてあった。
あの漢字、合わせるとアイトって読むんだ。なんとなくわかっていたけど、少し微妙な名前だな。
なぜ、息子の名前に「哀」ってつけるのかな。哀って悲しいとも読むし。
哀賭。哀を賭ける。悲しみを賭ける?自己紹介のときに、相当大人に「不思議」って言われてたのか。
ふと思い出したのは、私の親の事だ。『紅の麗って綺麗な響きだから紅麗』ってなったんだっけ。
確かに、親はしっかりと名前を考えてくれた。「愛生磨(アイマ)」も考えてたし。
あと何だっけ、「洲麗(スウラ)」も言ってたな。じゃあ、なぜ哀賭くんは…
哀賭くんの親はそんな名前にしたのだろう。人の名に『そんな名前』なんていうのは失礼かもしれないが。
考えて、くれなかったのかもしれない、最悪の場合。
私よりも最悪な親だったのか。それとも、捨てられたのか。やっぱり、やめよう。
人の親なんか、関係ないし。でも、あの瞳は?普通に育てられてきた子供はそうなるの?
私のように、根っこから暗い人間ということは確かだった。じゃあ、その理由は。
必死に考えるのをやめようとしたが、やめられなかった。