あれは一体何だったんだろう。
この疑問が頭に貼りついて離れない。
おかげで昨夜は全然眠れなかった。
朝、寝不足の体を無理やり起こして部屋を出ると、隣から柊斗が出てきた。
「おはよ。理玖」
「え、あ、お、おはよ」
「寝癖ついてるよ」
そう言って微笑む柊斗は、驚くほどいつも通りだ。
まるで、昨日のことが幻だったみたいに。
ーーーー
いつも通り2人で家を出て大和と合流し、いつも通り登校して、いつも通り席に着く。
いつも通りすぎて、あれは本当に幻で、夢だったのかもしれないと錯覚しそうになる。
昨日みたいに見つめてこないし、触ってこない。
それにどこか、焦りを感じている自分がいた。
そんな俺の顔を、隣に座る大和がのぞき込む。
「理玖?どうかした?」
「……や、なんでもない」
首を振って顔を伏せた。
柊斗を見るたび、昨日のあれはキスじゃなくて、俺の勘違じゃないかって自問する。
昨日だってそう自分に言い聞かせていたはずなのに、それが事実かもしれないとなると途端に悲しくなる。
俺ってこんなにめんどくさかったっけ。
だんだんとネガティブな思考によっていく俺の肩を、誰かがトンと叩いた。
「ひーなが!おはよ!」
「おはよ。塚田」
「あれ!?元気ない?今日席替えなのに」
いつも通り返したつもりなのに、元気がないとバレてしまった。大和もそうだが、全員人の機微を見極めるのが上手すぎると思う。「そんなことないよ」と返し、笑って見せた。
「席替えっていつすんの?」
「一限だって」
塚田の後ろにいた高野と椎谷の会話を聞き流す。
塚田が、席替えの時一番前になりそうな時の勘って当たるよな、なんて根拠のない自論を展開したところでチャイムが鳴る。
SHRを終え、一限が始まった。
教卓にくじを引きに行き、そこに書いてある番号通りに席に着く。あわよくば柊斗と近くがいい、という俺の望みは簡単に壊れた。
「高野かよ」
俺の新しい席の前には高野が座っている。どうやら前後らしい。
「なんでそんな嬉しくなさそうなんだよ」
俺の一言に、高野が眉を顰める。
ごめん高野。今の俺は機嫌が悪いんだ。
心の中で謝りながら、柊斗はどこなんだろうと教室を見渡す。
窓側の俺たちと反対の廊下側の席に、柊斗の姿があった。
なにやら隣の席の女子と話している。
あれ、あの女子って俺が巻き込まれた女子会にいた、一軍女子じゃん。
そんなことを考えながら見つめる。
あ、笑った。
俺の前でもあまり見せない、柊斗のくしゃっと笑うその姿に胸がざわつく。
やっぱり俺の勘違いだったのかもしれない。
柊斗が俺のことが好き、なんて。
こんな虫のいい話、あるわけない。
わかっているのに、やけに苦しい。
恋心を自覚したら、苦しくなることはわかっていて。
その上でこの想いと抱えると決めたはずなのに。
そんな覚悟でさえ、打ち砕かれたようで。
「……なが、日永」
「え、あ、なに」
また負のループに入った俺を、高野の呼びかけが引き戻す。
高野ははぁーっとため息をつくと、スマホを取り出した。
なにやら画面を操作して、俺に見せる。
「この映画、今日公開だって。一緒に観に行かね?日永好きだったでしょ」
「あ、うん」
高野が見せてきたのは、ある漫画が原作のアニメ映画だ。高野もこれが好きらしく、以前その話で盛り上がったことがある。
「どーする?観に行く?」
高野が俺の顔をうかがう。
おそらく高野なりに俺のことを励まそうとしてくれているのだろう。
たしかに、ずっと今みたいに悩んでいたらおかしくなりそうだ。
そう考えて、高野の言葉に頷く。
「行く」
「ん。じゃあ学校終わってちょっと時間あるから、ファミレス寄ろ」
「うん」
淀んだ気持ちを押し込めるように首を縦に振った。
ーーーー
放課後。
いつも一緒に帰っている柊斗に、高野と遊びに行くことを伝えるため、柊斗の席に向かう。
「しゅう……」
「風間くん、今日委員会だって」
「分かった」
俺が話しかける前に、柊斗に隣の席の女子が声をかける。どうやら委員会が一緒らしく、柊斗は俺に気づかないまま、その子と連れ立って教室を出て行ってしまった。
取り残された俺は、その場で立ち尽くす。
心臓の音が頭の中に鳴り響いている。
焦っているのか、苦しいのか、悲しいのか、怒っているのか、自分でもわからなかった。
「…………」
「日永?」
俺の元に来た高野が、俺の視線を追って柊斗たちが出ていったドアを見る。
「……なんでもない。行こ」
俺はそのドアに背を向けて高野の脇をすり抜ける。
もう一つのドアまで歩く途中で、なにやら話している塚田と椎谷と大和の3人と目が合った。
「風間、委員会だって?待っとく?」
「……いや、今日は高野と遊びに行くから」
「あ、そうなんだ」
大和とそんな会話を交わす。
その隣にいた椎谷が、首を傾げる。
「風間には言ったの?高野と遊びに行くって」
「……言ってないけど、別に言わなくていいでしょ」
明らかに不貞腐れているように返してしまった。
気まずい空気が流れる。
だが、なにか冗談を言って場を和ませることは今の俺にはできなかった。
「ごめ……」
「はいはい、ほらさっさと行こ」
謝ろうとした俺の頭を高野が乱暴に撫でる。
唖然としていると、俺のぐちゃぐちゃになった髪を塚田が直してくれた。
「お土産よろしくなー」
「……そんな遠いとこには行かないよ」
塚田はいつものようにニッと笑って俺の背中を押す。
「ありがと」と言って俺は高野と教室を後にした。
ーーーー
ファミレスのソファー席に高野と向かい合って座る。
ポテトとドリンクバーという、無難なチョイスをして映画の時間まで待つ。
「あと1時間くらいだって」
スマホを見ながら高野が言う。
「分かった」とあまり考えずに返し、ポテトにケチャップをつけてかじる。
柊斗は今頃あの女子と一緒に委員会の仕事をしているんだろうか。
ふとした時に頭に浮かぶのは柊斗のことで。
今まで気にしたことなんてなかったのに、昨日の一件があって以降、柊斗のことが気になってしまう。
柊斗にとって俺は、やっぱりただの弟なのか。
昨日はなにをしようとしたのか。
俺にはさっぱりわからない。
誰か答えを教えて欲しい。
「風間となんかあった?」
「え」
スマホの画面から目を離さずに発せられた高野の言葉に顔をあげる。
「放っておこうとも思ったけど、流石に我慢できなかったわ」
高野は「塚田達は我慢できたみたいだけど」と小さく笑って俺を見る。
やっぱり全員にバレていた。まあ、椎谷にあんな返し方をしたら誰でも気づくかもしれないが、おそらくそれ以前に気づかれていたのだろう。
その上で踏み込んでこない優しさに、俺はいつも頼ってばっかりだと実感する。
でも、今は。
あの時の答えが欲しかった。
「……うん。あった」
小さく頷くと、高野はまたスマホに目線を落とした。
「まあ、言いたくなかったら言わなくていーよ」
答えを見つける機会を逃しそうになって、慌てて高野の隣に移動する。
「高野」
「なに?」
俺の呼びかけで高野がスマホからこちらに目線を移したと同時に、高野の頬を両手で挟む。
「え、は、なに」
混乱しているけど無視だ。いつも俺がどれだけ高野の言葉に混乱しているか。そんなささやかな仕返しも込めて、俺は高野に顔を近づける。
「は!?ちょ、日永」
息が触れるくらい近づいて、高野が眉間に皺を寄せて目をグッと瞑る。
そこで俺はピタッと顔を近づけるのをやめた。
「どう思う?」
「は?」
「今、俺になにされると思った?」
「なにって…………」
高野は一瞬口籠ったあと。
「キス?」
「……だよね」
俺は高野の答えに同意して、パッと高野から手を離した。
俺が元の席に戻ると、高野はホッとしたように息を吐いた。
「急になに?」
「……昨日、柊斗にされて。俺もキスされるのかな、って思ったんだけど。今日柊斗びっくりするくらいいつも通りだったから、俺の勘違いかな、って」
「さすがに……それはないでしょ」
高野はそう答えると、ドリンクを一気に飲み干した。
やっぱり、そうだよな。
あれは多分、俺にキスしようとしていた。
ひとつの疑問が解けてほんの少しだけ気持ちが軽くなる。
「俺を実験台にすんなよ」
高野が口を尖らせて言う。
「ごめん」と返すと「これ奢りな」と高野はいたずらに笑ってポテトを口に放り込んだ。
「……じゃあなんで、柊斗は俺にキスしようとしたんだろう」
ひとつの疑問が消えると、また別の疑問が浮かび上がる。
柊斗は俺のこと、好きなのだろうか。
でも、驚くほどいつも通りで、女子と楽しそうに話していた今日の柊斗からは、どうしても考えられなくて。
あれは、ただの気の迷いだったんじゃないかって。
俺を揶揄っただけなんじゃないかって、思うようになる。
「高野は、なんでだと思う?」
「……なんでだろうね」
高野に聞いても、いつも通り返されるだけだった。
いっそ、「揶揄われたんじゃない?」って言ってくれた方が諦めがつくのに。
答えをくれない高野の優しさが、痛かった。
ーーーー
映画を観た後、高野と別れて家に帰る。
「ただいま」
そう言いながらリビングに入ると、柊斗がテレビを観ながらソファーに座っていた。
「おかえり、理玖」
そう言って、柔らかく笑う。
なぜかいつもより機嫌が良かった。
その柊斗に、違和感を感じる。
普段は俺が遅く帰ってきたら、「どこ行ってたの?」とか、「なにしてたの?」とかしつこく聞いてくるのに。
今日一日中、柊斗はいつも通りだった。なのにこれだけは、いつも通りじゃなかった。
女子と話していた時の笑顔がフラッシュバックして、バクバクと心臓の鼓動が嫌にスピードを上げる。
「……俺、高野と映画観に行ってた」
「そうなんだ。面白かった?」
胸のざわつきを取り除きたかったのに、柊斗の返事はそれを助長するだけだった。
柊斗は本当に、昨日のことなんとも思ってないの?
やっぱり、俺を揶揄っただけだった?
昨日から感じていた小さな違和感が、一つずつ降り積もって膨れ上がっていく。
「理玖?」
黙りこくった俺の顔を、柊斗がのぞき込む。
「昨日の……キス、しようとしてたやつ」
気づいた時には、口から溢れていた。
柊斗が一瞬、固まったのがわかる。
「……あれ、なんで?」
視線を合わせられないまま問いかける。
「揶揄っただけ……だった?それとも……気の迷い?」
声が震えるのが抑えられない。
喉がキュッと締まっていくのがわかる。
そんな自分が、惨めに思えてくる。
「それは────」
「やっぱいい」
柊斗の言葉に被せるように吐き捨てる。
その後に続く“答え”がなんなのか、わからない。
でも、期待したくなかった。聞きたくなかった。
自分で聞いたくせに、そんな覚悟もできていない自分が、もっと嫌になる。
「勘違い、だよね。俺が勝手に期待しただけ」
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
「いや、違……」
「ごめん。柊斗がなにを言うのか、分かんないけど、でも」
「……今は、なにもききたくない」
逃げるように柊斗に背を向けて、自分の部屋に歩き出す。
「理玖、待って。俺は……」
「放っといてよ。────お兄ちゃん」
バカだ、俺。
そんなこと言って辛くなるのは、紛れもなく自分なのに。
柊斗は自分の部屋に向かう俺を、引き止めなかった。


