父親は苦しそうな顔で、心配そうに俺を見ていた。俊希さんはダイニングテーブルに両肘をつき、手で顔を覆っている。諏訪野も眉を顰め、下を向いていた。
みんなきっと頭を占めていたことは一緒。
明希ちゃんの苦しみ。そして、自分のふがいなさ。重い空気が部屋を覆う。
でも、そうしてばかりはいられないと示すように、諏訪野は顔を上げ、前を向いた。
「おそらく今日、彼女は明希のところにお金を取りにきます」
「そうか、給料日……。じゃあ、止めにいかないと」
「はい。それで、お願いがあるんです。その役目、俺に任せてもらえませんか」
明希ちゃんに何も聞かないで欲しいという言葉を俺が守っていたのと同じように、俺からも分かるくらい、諏訪野もずっと必死に耐えていた。
一緒に暮らしている俺は、少なからず明希ちゃんと話すこともできたし、様子をうかがうこともできた。でも諏訪野は、家に呼んでもらえなくなったどころか、学校でも「先生に聞きたいことがあるから」とか言って、昼休みはもちろん、他の時間でもほとんど教室にいなくなってしまうほど、明希ちゃんにあからさまに避けられていた。
他の友達に「ケンカしたのか?」って聞かれてたくらいだから、よっぽどだよ。
それにあいまいに笑った諏訪野の顔は本当に悲しそうで。
できるなら明希ちゃんから話してほしい。そう願いながら、きっと、話してはくれないだろうと裏で調べるしかなった諏訪野は、どれほど苦しかっただろう。
今でも諏訪野のことは嫌いだ。本人にその気がなくてもばかにされているように感じるし、いつも余裕そうで、嘘っぽい笑顔がめちゃくちゃむかつく。もう多分、本能的に合わないんだよね。
でも、明希ちゃんのことになると途端に人間臭くなって。なりふり構わず明希ちゃんをつなぎとめようとしている姿は、すごくかわいそうで、ちょっとだけかっこいいなって思う。ほんとに、ちょっーとだけだよ。
だからさ、そんな諏訪野が任せて欲しいっていうなら、もう大丈夫なんじゃないかなって思っちゃった。まだ安心するのには早いのにね。でも、あいつのことだから絶対に何とかするんだろう。
っていうか、明希ちゃんのこと、どうやって調べたんだろ? 絶対ストーカー気質だよね、あいつ。
「ありがたいけど、そこまでしてもらうわけには……」
「申し訳ないのですが、はっきり言って俊希さんが出ていっても、ターゲットが明希から俊希さんに変わるだけです。こういうことは第三者が介入した方がいい」
「そ、それは、そうかもしれないけど……。でも、きみはまだ高校生だし」
「はい、わかっています。だから、親に手を貸してほしいと頼みました。今回、明希のことを調べてくれたのは探偵をやっている俺の父です。母は弁護士をしているので、こういうことに手を貸すのが仕事です」
うわぁ、親まで使うなんて、これは本格的に明希ちゃんを囲いに来たな。
案外、さっき俊希さんが言ってた「明希をください」っていうの、冗談じゃ済まなかったかも。
「で、でも、費用とか……」
「明希のことを調べたのは俺の独断なので、俊希さんが気にする必要はありません。もし今後、母に何か頼むようなことがあれば、ご負担していかないといけないですが……」
「それは、もちろんだけど! こんなに、甘えちゃっていいのかな……申し訳ないよ……」
「俺、明希のことも、この家のことも、大好きなんです。だから、俺にも守らせてください」
「翔くん……ありがとう。本当に、ありがとう」
感動して瞳をウルウルさせている俊希さんも、そんな俊希さんを見て涙を浮かべている俺の父親も、そこまで気が回ってないっぽいけど、何気に今、さらっとぶっちゃけましたよね。これで「友達として」なんて言ったら、しばいてやるから。
その後、諏訪野は何かまだ俊希さんと話をしていたようだけど、俺は、もう俺にできることはないから、大人しく部屋に戻ることにした。一応この和室もふすまで仕切れる。だから、ダイニングから隠れるようふすまを閉めた。
途端にこみあげてくる嗚咽がダイニングに聞こえないように必死で口をふさぐけど、目からは絶えず涙がこぼれてくる。
明希ちゃんはもう大丈夫だろうって思ったらちょっと気が抜けちゃったっていうのもあるけど、何よりも悔しかった。何もできなかった自分が、悔しくて悔しくてたまらなかった。
諏訪野と同じ事はできないにしても、俺にももっとできることがあったんじゃないかって。
諏訪野のことなんて無視して、明希ちゃんを問いただせばよかった? もっと、首を突っ込めばよかった?
後になってならなんとでもいえるけど、俺は、結局できなかったんだ。
親が離婚して、このアパートに越してきて、俺はようやく安住の地を手に入れたと思った。
もちろん父親と二人の生活は大変だったけど、俺の行動を制限したり、強制したりされない。怒鳴られることに怯えることもない。それどころか、同じ立場で話を聞いてくれて、助け合える人までいて。それがどれほど俺の心を楽にしてくれたか。
でも、だからこそ俺は、あと一歩が踏み出せなかった。
踏み込んで拒絶されたらって。この居心地がいい関係が壊れてしまったらって。怖くなって、逃げてしまった。
結局、俺が大事なのは俺だけ。そんなやつが明希ちゃんのこと、助けられるはずがないよね。
「三星くん」
ふすまを叩く音とともに、聞こえたのは相変わらず嫌味なくらいいい声。
声優になればいいのに。あぁでも、顔もいいんだから俳優でもモデルでもできるか。そういうのは興味ないんだって言ってたけど、もったいない。
いやだな。明希ちゃんならきっと「もったいない」なんて言わないから。だから、諏訪野は明希ちゃんにのめり込んだんだろうな。
「三星くん? 大丈夫?」
そんなことを考えていたら返事をするの忘れてた。俺は、一回全力で鼻をかんで、ふすまを開けないまま返事をする。諏訪野はお育ちがいいから、許可がないのにドアを開けたりしない。
「なに」
「俊希さんたちは一回向こうの部屋に戻るって。俺もそろそろ、明希のところ行くね」
部屋に入ってもいいかとは聞かないから、泣いてたのはバレバレだったかも。まぁこのボロアパートのふすま一枚じゃ、防音力ゼロだもんね。
まだ夕飯を食べてはいないけど、きっと一度落ち着くために父親たちは部屋に戻ったんだろう。これからどうするか考える必要もあるだろうし。
「わかった」
「三星くん、明希のことは俺に任せて」
「……」
「今日だけじゃなくて、これからずっと、明希のことは俺が守るから」
昔からプロポーズの定番っていうか、よく言うじゃん。「俺がきみを守るから」みたいなやつ。俺はそれを聞くたびに「何から守るんだよ」って思ってた。
だって、治安が悪化してるとか言われてても、この日本で唐突に暴漢に襲われる確率なんてそこまで高いとは思えないし、そもそも素人がどうやって守るんだよってはなし。
でもさ、ちょっとわかっちゃった。”守る”って物理的なことだけじゃなくて、心も丸ごと全部、その人のことを守るってことなのかも。
それを諏訪野ならきっとできる。悔しいけどさ。心も、身体も、きっと丸ごと明希ちゃんを守っちゃうんだろうな。
まぁそれを俺に宣言してどうするんだよってとは思うけど。でも、そっか。けじめってことかな。
諏訪野は俺をダシにして、明希ちゃんの気を引いてたもんね。
ほんの一瞬だけ、諏訪野が俺に心を動かしたことはあったのかもしれない。でも、諏訪野は俺じゃなくて、明希ちゃんを選んだ。
なにこれ、告白されてないのに、振られたみたいな?! すっごい嫌だな!
ほんとに嫌なやつだよ。やっぱり大っ嫌い。でも、明希ちゃんの隣を任せるなら諏訪野しかいないんだよなぁ。っていうか、本気になった諏訪野から明希ちゃんが逃げられる未来が想像できない。
「明希ちゃんのこと、泣かせたら許さないから」
「う~ん、それはちょっと約束できないかも」
「はぁ?!」
「だって、泣いてる明希もさ、絶対にかわいいから」
「きもっ、こわっ」
「でも、悲しい思いとか、寂しい思いはさせない」
こういうとこだよね、こいつ。かっこつけるなら、最初から最後まで全うしろって言うの。
「じゃあ行くから」って諏訪野が部屋を出ていく音を聞きながら、俺は一つ、深呼吸をする。それから、ふすまを勢い良く開けて、諏訪野の背に向かって大声を出した。
「諏訪野! 明希ちゃんのこと、頼んだからね!」
「うん、任せて」
振り返ってニッと笑った諏訪野は、いつもの胡散臭い笑顔じゃなくて、例えば、これから魔王を倒しに行く勇者みたいな、むかつくくらいかっこよよくて、頼もしい顔をしていた。
みんなきっと頭を占めていたことは一緒。
明希ちゃんの苦しみ。そして、自分のふがいなさ。重い空気が部屋を覆う。
でも、そうしてばかりはいられないと示すように、諏訪野は顔を上げ、前を向いた。
「おそらく今日、彼女は明希のところにお金を取りにきます」
「そうか、給料日……。じゃあ、止めにいかないと」
「はい。それで、お願いがあるんです。その役目、俺に任せてもらえませんか」
明希ちゃんに何も聞かないで欲しいという言葉を俺が守っていたのと同じように、俺からも分かるくらい、諏訪野もずっと必死に耐えていた。
一緒に暮らしている俺は、少なからず明希ちゃんと話すこともできたし、様子をうかがうこともできた。でも諏訪野は、家に呼んでもらえなくなったどころか、学校でも「先生に聞きたいことがあるから」とか言って、昼休みはもちろん、他の時間でもほとんど教室にいなくなってしまうほど、明希ちゃんにあからさまに避けられていた。
他の友達に「ケンカしたのか?」って聞かれてたくらいだから、よっぽどだよ。
それにあいまいに笑った諏訪野の顔は本当に悲しそうで。
できるなら明希ちゃんから話してほしい。そう願いながら、きっと、話してはくれないだろうと裏で調べるしかなった諏訪野は、どれほど苦しかっただろう。
今でも諏訪野のことは嫌いだ。本人にその気がなくてもばかにされているように感じるし、いつも余裕そうで、嘘っぽい笑顔がめちゃくちゃむかつく。もう多分、本能的に合わないんだよね。
でも、明希ちゃんのことになると途端に人間臭くなって。なりふり構わず明希ちゃんをつなぎとめようとしている姿は、すごくかわいそうで、ちょっとだけかっこいいなって思う。ほんとに、ちょっーとだけだよ。
だからさ、そんな諏訪野が任せて欲しいっていうなら、もう大丈夫なんじゃないかなって思っちゃった。まだ安心するのには早いのにね。でも、あいつのことだから絶対に何とかするんだろう。
っていうか、明希ちゃんのこと、どうやって調べたんだろ? 絶対ストーカー気質だよね、あいつ。
「ありがたいけど、そこまでしてもらうわけには……」
「申し訳ないのですが、はっきり言って俊希さんが出ていっても、ターゲットが明希から俊希さんに変わるだけです。こういうことは第三者が介入した方がいい」
「そ、それは、そうかもしれないけど……。でも、きみはまだ高校生だし」
「はい、わかっています。だから、親に手を貸してほしいと頼みました。今回、明希のことを調べてくれたのは探偵をやっている俺の父です。母は弁護士をしているので、こういうことに手を貸すのが仕事です」
うわぁ、親まで使うなんて、これは本格的に明希ちゃんを囲いに来たな。
案外、さっき俊希さんが言ってた「明希をください」っていうの、冗談じゃ済まなかったかも。
「で、でも、費用とか……」
「明希のことを調べたのは俺の独断なので、俊希さんが気にする必要はありません。もし今後、母に何か頼むようなことがあれば、ご負担していかないといけないですが……」
「それは、もちろんだけど! こんなに、甘えちゃっていいのかな……申し訳ないよ……」
「俺、明希のことも、この家のことも、大好きなんです。だから、俺にも守らせてください」
「翔くん……ありがとう。本当に、ありがとう」
感動して瞳をウルウルさせている俊希さんも、そんな俊希さんを見て涙を浮かべている俺の父親も、そこまで気が回ってないっぽいけど、何気に今、さらっとぶっちゃけましたよね。これで「友達として」なんて言ったら、しばいてやるから。
その後、諏訪野は何かまだ俊希さんと話をしていたようだけど、俺は、もう俺にできることはないから、大人しく部屋に戻ることにした。一応この和室もふすまで仕切れる。だから、ダイニングから隠れるようふすまを閉めた。
途端にこみあげてくる嗚咽がダイニングに聞こえないように必死で口をふさぐけど、目からは絶えず涙がこぼれてくる。
明希ちゃんはもう大丈夫だろうって思ったらちょっと気が抜けちゃったっていうのもあるけど、何よりも悔しかった。何もできなかった自分が、悔しくて悔しくてたまらなかった。
諏訪野と同じ事はできないにしても、俺にももっとできることがあったんじゃないかって。
諏訪野のことなんて無視して、明希ちゃんを問いただせばよかった? もっと、首を突っ込めばよかった?
後になってならなんとでもいえるけど、俺は、結局できなかったんだ。
親が離婚して、このアパートに越してきて、俺はようやく安住の地を手に入れたと思った。
もちろん父親と二人の生活は大変だったけど、俺の行動を制限したり、強制したりされない。怒鳴られることに怯えることもない。それどころか、同じ立場で話を聞いてくれて、助け合える人までいて。それがどれほど俺の心を楽にしてくれたか。
でも、だからこそ俺は、あと一歩が踏み出せなかった。
踏み込んで拒絶されたらって。この居心地がいい関係が壊れてしまったらって。怖くなって、逃げてしまった。
結局、俺が大事なのは俺だけ。そんなやつが明希ちゃんのこと、助けられるはずがないよね。
「三星くん」
ふすまを叩く音とともに、聞こえたのは相変わらず嫌味なくらいいい声。
声優になればいいのに。あぁでも、顔もいいんだから俳優でもモデルでもできるか。そういうのは興味ないんだって言ってたけど、もったいない。
いやだな。明希ちゃんならきっと「もったいない」なんて言わないから。だから、諏訪野は明希ちゃんにのめり込んだんだろうな。
「三星くん? 大丈夫?」
そんなことを考えていたら返事をするの忘れてた。俺は、一回全力で鼻をかんで、ふすまを開けないまま返事をする。諏訪野はお育ちがいいから、許可がないのにドアを開けたりしない。
「なに」
「俊希さんたちは一回向こうの部屋に戻るって。俺もそろそろ、明希のところ行くね」
部屋に入ってもいいかとは聞かないから、泣いてたのはバレバレだったかも。まぁこのボロアパートのふすま一枚じゃ、防音力ゼロだもんね。
まだ夕飯を食べてはいないけど、きっと一度落ち着くために父親たちは部屋に戻ったんだろう。これからどうするか考える必要もあるだろうし。
「わかった」
「三星くん、明希のことは俺に任せて」
「……」
「今日だけじゃなくて、これからずっと、明希のことは俺が守るから」
昔からプロポーズの定番っていうか、よく言うじゃん。「俺がきみを守るから」みたいなやつ。俺はそれを聞くたびに「何から守るんだよ」って思ってた。
だって、治安が悪化してるとか言われてても、この日本で唐突に暴漢に襲われる確率なんてそこまで高いとは思えないし、そもそも素人がどうやって守るんだよってはなし。
でもさ、ちょっとわかっちゃった。”守る”って物理的なことだけじゃなくて、心も丸ごと全部、その人のことを守るってことなのかも。
それを諏訪野ならきっとできる。悔しいけどさ。心も、身体も、きっと丸ごと明希ちゃんを守っちゃうんだろうな。
まぁそれを俺に宣言してどうするんだよってとは思うけど。でも、そっか。けじめってことかな。
諏訪野は俺をダシにして、明希ちゃんの気を引いてたもんね。
ほんの一瞬だけ、諏訪野が俺に心を動かしたことはあったのかもしれない。でも、諏訪野は俺じゃなくて、明希ちゃんを選んだ。
なにこれ、告白されてないのに、振られたみたいな?! すっごい嫌だな!
ほんとに嫌なやつだよ。やっぱり大っ嫌い。でも、明希ちゃんの隣を任せるなら諏訪野しかいないんだよなぁ。っていうか、本気になった諏訪野から明希ちゃんが逃げられる未来が想像できない。
「明希ちゃんのこと、泣かせたら許さないから」
「う~ん、それはちょっと約束できないかも」
「はぁ?!」
「だって、泣いてる明希もさ、絶対にかわいいから」
「きもっ、こわっ」
「でも、悲しい思いとか、寂しい思いはさせない」
こういうとこだよね、こいつ。かっこつけるなら、最初から最後まで全うしろって言うの。
「じゃあ行くから」って諏訪野が部屋を出ていく音を聞きながら、俺は一つ、深呼吸をする。それから、ふすまを勢い良く開けて、諏訪野の背に向かって大声を出した。
「諏訪野! 明希ちゃんのこと、頼んだからね!」
「うん、任せて」
振り返ってニッと笑った諏訪野は、いつもの胡散臭い笑顔じゃなくて、例えば、これから魔王を倒しに行く勇者みたいな、むかつくくらいかっこよよくて、頼もしい顔をしていた。

