俺の友人は。

 気のせいだろうか。今、俺のおでこに翔の唇が当たったような……。

「えっ、い、今、明希にキスし、」
「こんばんは。今日は明希にどういった御用で?」

 キス……? あれ? 唇を当てるのって、確かにキス……? えっ、 俺キスされたの???

「えっ? ちょっと困ってたから明希に相談してただけで、」
「お困りなんですね。どのようなご相談ですか?」

 違う違う、そうじゃない。今のはキスなんかじゃない。
 だって、キスは友達同士がするものじゃないよな? 家族とか、恋人とか……もっと親密な間柄でするものだ。

「こ、今度手術することになったから、それで……」
「それは、大変ですね。でも、おかしいですね。ここ数カ月の間、あなたが病院に行ったという記録はないようですが」
「はっ?! な、なんでそんなこと、」
「ちょっとだけ、調べさせていただきました」

 でも、ワンチャン友人でもおでこならありか? 挨拶的なね? ほら、翔のおばあちゃんは外国の人だし。

「なにを、そんな、勝手に……!!」
「お名前は鈴木 あやかさん。現在の年齢は…、これは不要ですね。高校を卒業してすぐに須藤 俊希さんとご結婚されて、その一年後に明希を出産。それから離婚されるまではご実家の工場を時折手伝われていたそうですね。離婚後はいろいろなお店を転々として、今は繁華街の駅前にある風俗店勤務ですか。あぁでも、最近お給料のことでもめていますね。給料の前借が続いたせいだとか?」

 ってそんなわけあるか。翔は日本生まれ、日本育ちなんだから、そんな文化ないことくらいわかってるだろうよ。
 じゃ、じゃあなんでキスなんて……。

「借金もあるようですね。その返済も滞っているみたいですが、前借していたお給料はいったい何に使っていたんでしょうか」
「なっ、そんなの私の勝手でしょ?!」
「一緒に暮らしていた男性が勤めているホストクラブですか? でも、そのホストクラブも最近、出禁になってしまったと」
「どうして、そんなことまで……」
「今はその男性が出て行ってしまったので、お一人暮らしのようですね。それで、寂しくなって息子さんに会いに来たのかな?」
「そ、そうなの! 生活も苦しいし、一人じゃ大変で、」

 あっ、事故?! 偶然、たまたま当たっただけで、わざとしたわけじゃない。そうだな、絶対そうだ。
 だって、翔が俺にキスをする理由なんてないし。

「それ、明希に関係ありますか?」
「あるに決まってるじゃない?! 私は明希の母親よ! 子供が母親を助けるのは当たり前のことでしょ?!」
「確かに子が親を扶養する義務はありますが」
「ほら、それなら!」
「それはあくまで余力のある範囲に限ります。ましてや明希は未成年だ。あなたが明希を扶養する義務はあれど、明希が自分の身を削ってまであなたを助ける必要はない。あなたはまず自分で努力するべきだ」

 とかいろいろ考えてみたところで、おでこには柔らかな感触がまだ残っている。
 そっと触れてみたら、そこだけまだ熱いような気がして……。

「な、なんであんたにそんなこと言われないといけないのよ!」
()()言ってるうちに、引いてください。大事にすることはあなたも望んでいないでしょう」
「そんなの......! どうしろっていうのよ?! 私は一人で、何もできないのに!!」
「十年前、自ら望んでそうしたのでしょう? 今更その身勝手に明希を巻き込まないでください」

 いやいや、何してんだよ。キモッ! 俺、キモッ!!!
 ゴシゴシと感触を消そうとおでこを擦ってみるけど、全然消えてくれない。

「とは言え、このままではあなたはきっと同じことを繰り返すでしょうから、これを渡しておきます」
「……なに?」
「今後、明希に、俊希さんにも、もし御用がある場合はそこに電話をしてください」
「べ、弁護士?!」

 優しい翔そのもののような感触だった。嫌だったことも全部忘れちゃうくらいに。
 あれ、嫌なことと言えば。俺、今それどころじゃなかったような……。

「借金のことも相談に乗ってくれますよ。一度、連絡してみてください」
「弁護士に払うお金なんてないわよ!」
「初回のご相談は無料です。まぁあなたがこのままでいいと思うなら、その名刺は捨ててください。でも、明希にまた同じことをしたら今度は許さない」

 俺がようやくあの人のことを思い出した時には、もうその人は俺たちに背を向けて去っていくところだった。
 ちょっと待ってくれ。翔とあの人が何か話をしていたようだが、全く聞いていなかった。

「しょ、翔……」
「帰ろっか」

 なに話してたんだ? とか聞けるはずがなく。俺は歩き出した翔の後を追う。
 夜も更けたこの時間はもうかなり冷え込むようになった。それなのに、体がぽかぽかとしているように感じるのは、隣に翔がいるせいか。
 言いたいことも、聞きたいこともたくさんある。でも、俺も翔も黙ったまま気が付けばうちについていた。

「翔、あの……」
「明希、明日一緒に修学旅行に持ってくもの買いにいこっか」
「えっ?! あっ、うん」
「やった。じゃあ、また明日」

 そう言うなり翔は俺との距離を詰めた。そして、今度は頬に。さっき、額に感じたのと同じ柔らかさだ。でも、さっきよりひんやりと冷たい。
 ここまで無言で歩いてきたから、きっと冷えてしまったんだろう。

 ――えっ、は?! こ、こいつ、また……!

 今度は絶対に事故なんて言い張れない、確実に、まぎれもなくキスだ。これじゃあ、さっきのやつだってキスじゃなかったって言い張れないじゃないか。
 俺の頬から唇を話した翔は、いつもと変わらず優しく微笑みながら、いつもとは違う強い光を宿した瞳で俺を見つめた。

「な、なんで……」
「俺さ、今回のことでようやく気付いた。明希はちゃんと捕まえとかないとダメなんだって。だから、覚悟決めた。もう遠慮はしない。我慢もしない。もう、絶対逃がさない」
「どういうこと?!」
「あっ、あと今回のこと全部俊希さんに話してあるから。しっかり叱られてね」
「えぇ?!」

 俺の思考が全く追いつかないうちに翔はひらりと身をひるがえして去って行ってしまった。
 その背中が見えなくなった後も、俺はしばらくその場で呆然と立ち尽くしたまま動けなかった。