呆然としたまま家に帰ってきたら、相変わらず孝太郎は和室で本を読んでいて、父と優一朗さんは仲睦まじく二人並んでお茶を飲んでいた。
いつもと変わらない光景。いびつだけど、幸せな家。
俺が今、あの人のことを話したら、みんなはどうするだろう。
怒ってくれるかな、あの人に。
あの人のところに行って、「もう明希に近づかないでくれ」って。
そうしたらきっと、あの人のターゲットは、俺から父に変わるだけだ。だって、別にあの人は金さえ手に入ればいいんだから。
「明希、おかえり。夕飯用意するよ」
帰ってきた俺に気が付いた父さんは、そう言って席を立った。
俺がバイトの日の夕飯は、焼いたり、炒めたりするだけでいいように朝に仕込んでいる。
今日は鶏肉にたれを仕込ませておいたものを、孝太郎が焼いたんだろう。
孝太郎は、野菜を切ったり、味付けをしたりは壊滅的にセンスがないけれど、焼くだけならできる。ちなみに、優一朗さんは焼くのもダメだ。生焼けか、消し炭かの二択。
食卓につくなり目の前に並べられた照り焼きチキンもどきは見るからに味もしみ込んでいて、いい焼き色が付いている。きっとおいしいだろう。
でも胃が重たくて、なかなか箸をつけられない。
「……明希、バイトきついんじゃないか? そんなに頑張らなくても大丈夫だぞ。修学旅行のお金だったら俺が何とかするから」
心配そうに俺を覗き込む父親に、俺はできるだけ明るく笑った。
「大丈夫だって。今日はお惣菜の新作の味見してきてさ。あんまりお腹すいてないんだよ」
こんなどうでもいい嘘をつく俺は、やっぱりあの人の息子だ。遺伝ってすげぇな。似なくていいところまで似る。
その日、結局俺はほとんど夕飯に手を付けられなかった。
「その照り焼きうまそう」
「食う? 昨日の晩飯の残りだけど」
「いる! やったぁ」
100g、52円の超激安鶏肉(一応国産)が翔の口に合うのだろうかと思ったけど、俺が差し出したそれを嬉しそうにほおばっているから、そんなに問題はなかったんだろう。
お返しに、と口に入れられた唐揚げの方がよっぽどうまいのに。
「明希は今日もバイト?」
「いや、今日はない。でも勉強しないとだから……」
ほんとは試験はまだ先だから、そんなに切羽詰まっているわけじゃない。
それなのに、俺は弱い心のせいでこうやってまた小さなうそを積み重ねる。そのたびに、俺は自分の中で何かが崩れて行っているような気がした。
お金の話を持ち出してからもその人は俺のところにやってきた。でも、態度があからさまに変わったのだ。
前は媚び一択の態度だったのが、今はもうなんていうか、情緒の不安定さが全面に来ている。
この人にも余裕がないんだろう。
誰が産んでやったと思ってる。
子どもが親に尽くすのは当たり前だ。
お前は人の心がないのか。
なんて、ヒステリックに叫び散らかしたかと思えば、急に泣き出して、どれほど自分がつらいを語り始めたり。かと思えば、甘えるように俺をほめちぎり始めたり。
離婚してから、この人だってきっといろいろあったのだとは思う。そのせいですり減った心が不安定になるのは仕方がないことだとは思う。自業自得だとも思うけど。
でもね、今、現在進行形で俺の心もこの人のせいでゴリゴリにすり減っていっているからさ。
「ねぇ明希、お願いよ!! お母さんを助けて!」
もう、いやだ。疲れた。
早く、解放されたい。楽になりたい。
そんな言葉が頭を占めて。
その時の俺にはもう、正常な判断はできなくなっていたんだと思う。
「……わかった」
俺は、次の給料日にその人に金を渡す約束をした。
それからはもう惰性で過ごすだけの日々だった。
「修学旅行を、キャンセルしたいんです」
昼休みの時間に突然職員室にやってきた俺が告げた言葉に、担任の教師は絵に描いたように目を丸めた。まぁ多分、前代未聞だったんだろう。
あの人に金を渡しても、修学旅行代は積み立てをしてあるし、これまでの貯金を崩せばいけないことはない。
でも、結局は夏祭りの二の舞になるだけだ。
もう、惨めな思いはしたくない。
それに、なんかもう、すごく疲れた。
当日、具合が悪いといえば休んでも変には思われないだろうし。残念だったね、で終わる。それが一番いいような気がした。
修学旅行の積立金を返してもらえば、大学の入学金くらいにはなるし。
もちろん理由を聞かれたけど、家庭の事情だと言えば、教師はそれ以上追及してこなかった。俺の家の状況を把握してるんだから、何も言えないんだろう。
「……どうしても無理そうか?」
俺は、視線を床に落とし、声を出さないまま、首を縦に振った。
「そうか…わかった。でも、もしいけるようになったら直前でもいいから遠慮せずに言ってくれ」
「ありがとうございます。あっ、あの、翔とか、クラスの人たちには言わないでもらえますか?」
「……あぁ、わかった」
これで、いい。
いつもと変わらない光景。いびつだけど、幸せな家。
俺が今、あの人のことを話したら、みんなはどうするだろう。
怒ってくれるかな、あの人に。
あの人のところに行って、「もう明希に近づかないでくれ」って。
そうしたらきっと、あの人のターゲットは、俺から父に変わるだけだ。だって、別にあの人は金さえ手に入ればいいんだから。
「明希、おかえり。夕飯用意するよ」
帰ってきた俺に気が付いた父さんは、そう言って席を立った。
俺がバイトの日の夕飯は、焼いたり、炒めたりするだけでいいように朝に仕込んでいる。
今日は鶏肉にたれを仕込ませておいたものを、孝太郎が焼いたんだろう。
孝太郎は、野菜を切ったり、味付けをしたりは壊滅的にセンスがないけれど、焼くだけならできる。ちなみに、優一朗さんは焼くのもダメだ。生焼けか、消し炭かの二択。
食卓につくなり目の前に並べられた照り焼きチキンもどきは見るからに味もしみ込んでいて、いい焼き色が付いている。きっとおいしいだろう。
でも胃が重たくて、なかなか箸をつけられない。
「……明希、バイトきついんじゃないか? そんなに頑張らなくても大丈夫だぞ。修学旅行のお金だったら俺が何とかするから」
心配そうに俺を覗き込む父親に、俺はできるだけ明るく笑った。
「大丈夫だって。今日はお惣菜の新作の味見してきてさ。あんまりお腹すいてないんだよ」
こんなどうでもいい嘘をつく俺は、やっぱりあの人の息子だ。遺伝ってすげぇな。似なくていいところまで似る。
その日、結局俺はほとんど夕飯に手を付けられなかった。
「その照り焼きうまそう」
「食う? 昨日の晩飯の残りだけど」
「いる! やったぁ」
100g、52円の超激安鶏肉(一応国産)が翔の口に合うのだろうかと思ったけど、俺が差し出したそれを嬉しそうにほおばっているから、そんなに問題はなかったんだろう。
お返しに、と口に入れられた唐揚げの方がよっぽどうまいのに。
「明希は今日もバイト?」
「いや、今日はない。でも勉強しないとだから……」
ほんとは試験はまだ先だから、そんなに切羽詰まっているわけじゃない。
それなのに、俺は弱い心のせいでこうやってまた小さなうそを積み重ねる。そのたびに、俺は自分の中で何かが崩れて行っているような気がした。
お金の話を持ち出してからもその人は俺のところにやってきた。でも、態度があからさまに変わったのだ。
前は媚び一択の態度だったのが、今はもうなんていうか、情緒の不安定さが全面に来ている。
この人にも余裕がないんだろう。
誰が産んでやったと思ってる。
子どもが親に尽くすのは当たり前だ。
お前は人の心がないのか。
なんて、ヒステリックに叫び散らかしたかと思えば、急に泣き出して、どれほど自分がつらいを語り始めたり。かと思えば、甘えるように俺をほめちぎり始めたり。
離婚してから、この人だってきっといろいろあったのだとは思う。そのせいですり減った心が不安定になるのは仕方がないことだとは思う。自業自得だとも思うけど。
でもね、今、現在進行形で俺の心もこの人のせいでゴリゴリにすり減っていっているからさ。
「ねぇ明希、お願いよ!! お母さんを助けて!」
もう、いやだ。疲れた。
早く、解放されたい。楽になりたい。
そんな言葉が頭を占めて。
その時の俺にはもう、正常な判断はできなくなっていたんだと思う。
「……わかった」
俺は、次の給料日にその人に金を渡す約束をした。
それからはもう惰性で過ごすだけの日々だった。
「修学旅行を、キャンセルしたいんです」
昼休みの時間に突然職員室にやってきた俺が告げた言葉に、担任の教師は絵に描いたように目を丸めた。まぁ多分、前代未聞だったんだろう。
あの人に金を渡しても、修学旅行代は積み立てをしてあるし、これまでの貯金を崩せばいけないことはない。
でも、結局は夏祭りの二の舞になるだけだ。
もう、惨めな思いはしたくない。
それに、なんかもう、すごく疲れた。
当日、具合が悪いといえば休んでも変には思われないだろうし。残念だったね、で終わる。それが一番いいような気がした。
修学旅行の積立金を返してもらえば、大学の入学金くらいにはなるし。
もちろん理由を聞かれたけど、家庭の事情だと言えば、教師はそれ以上追及してこなかった。俺の家の状況を把握してるんだから、何も言えないんだろう。
「……どうしても無理そうか?」
俺は、視線を床に落とし、声を出さないまま、首を縦に振った。
「そうか…わかった。でも、もしいけるようになったら直前でもいいから遠慮せずに言ってくれ」
「ありがとうございます。あっ、あの、翔とか、クラスの人たちには言わないでもらえますか?」
「……あぁ、わかった」
これで、いい。

