俺は浮かれていたんだ。
初めて友人と、翔と文化祭を回れたのが嬉しくて。
バスケ部の手伝いをして、たくさんの人にありがとうと言ってもらえたのが嬉しくて。
翔が、俺と一緒にいることが楽しいといってくれたのが嬉しくて。
これから一緒に夕飯を食べられることが嬉しくて。
それだけじゃない。
来週、翔がうちに来たときの晩御飯は何にしようかなんて考えて。
少し先にある修学旅行のためにバイトのシフトを増やして。
これまでになかった嬉しいことがたくさんあったから、この先にも楽しいことが待っているって思ってしまった。
浮かれて、忘れてしまっていたんだ。
俺は誰かに必要としてもらえる人間なんかじゃないってことを。
それは、バイト先のスーパーで牛乳を買って外へ出たすぐのことだった。
「明希? 明希でしょ?!」
後ろから聞こえたその声にぎくりとした。
ゆっくりと振り返った先にいた、丈の短いワンピースの上にけば立ったニットのロングカーディガンを羽織った女を見ても、記憶の中のその人と全く一致しないのに。
その声は、覚えているなんて。
「お、かあ、さん……?」
記憶の中にある母はいつも黒い長い髪を頭の上のほうで一つに結んでいた。
いつだったか、料理が苦手だった母がびっくりするような失敗をしたことがあった。ごまかすように笑う母を父がいたわるように優しく撫でると、母のポニーテールが嬉しそうに揺れて。それを見て俺も嬉しくなって、家族三人で笑いあっていた。
幸せな記憶。もう、二度と戻らないもの。
なんとなく、そんな情景が頭に浮かんだのはどうしてだったんだろう。
今、目の前にいる母と同じ声をしたその人と、記憶の中の母との共通点を探そうとしたのだろうか。
そんな俺の戸惑いなんてまるで無視をして、その人は色褪せた長い金髪をなびかせ、高いヒールからカツカツと鋭利な音を鳴らしながら俺のほうへと小走りで寄ってきていた。
「やっぱり、明希だぁ! この間みかけて、もしかしてって思って! 大きくなったねぇ! えっもしかしてもう高校生?! やっば! っていうかぁ昔からそっくりだったけど、ほんと若いときの俊くんそっくり! ウケるんだけどぉ」
その人は俺の両腕を掴み、テンション高くまくし立てるように話す。俺は何も言えなかった。口の中は乾ききってぱさぱさで、言葉が出てこなかった。
「ちょっとぉそんなに睨まないでよ。相変わらず怖い顔!」
違う、睨んでなんかいない。
そう否定したいのに体も口も動かない。
「明希には悪いことしたなぁって思ってるんだよ? 寂しい思いさせちゃったよねぇ。ごめんねぇ」
ゆったりとした動作でその人は俺の背に手をまわした。
両親が離婚してすぐのころ、母が夢によく出てきた。母のぬくもりを思い出して、目を覚ました時に泣いていることもあった。
寂しかったんだと思う。恋しかったんだと思う。
でも、現実はそんな気持ちが薄れるのを待ってはくれなくて。
子どもなりに必死だった。平気なふりをするしかなかった。
だって、母は俺をいらないと言ったから。だから、母のところには行けない。
父だって、新しい生活に慣れるのに必死だった。
それなのに、俺が母が恋しいなんて言ったら、父はどう思う?
疎ましく思われたら、父にまで、いらないと言われたら。
俺にはもう、行くところがなかった。
もう、捨てられたくなかった。
でも、夢にまで見たそのぬくもりが今は気持ち悪くて仕方がない。
ねっとりとまとわりつく温度を俺は必死に引きはがした。
「ちょっと!」
俺の拒絶を悟ったその人から聞こえた舌打ちに条件反射のように体が震えた。
最近は出てこなくなっていた、あの日の記憶が戻ってくる。
忘れていたのに。いや、箱にしまって隠しておいたのに。
――いやだ、嫌だ、嫌だ!!
とにかくそこから逃げるために、俺は震える足で走った。
後ろから投げつけられた「また来るから!」という言葉も聞こえなかったふりをして。
――しょう、翔……!
優しく俺の名を呼ぶ声を聴きたい。
俺に優しく微笑みかける顔が見たい。
俺は記憶を振り払うように、必死で走った。
相変わらずアパートの階段は足を乗せると安っぽい音がする。こんなふうに駆け上がったら、抜けてしまいそうだ。
そんなことを気にしている余裕もなく、ドアを開いて中に入る。
聞こえてきた声にほっと息をついて、バクバクと打ち鳴る心臓をなだめていると、大きな笑い声が部屋の奥から響いてきた。
それは、翔の声だった。
俺のそばにいる翔はいつも穏やかに微笑んでいて、その声も、まなざしも、俺に触れる手も、いつも優しくて。
俺の前でこんなふうに大きな声を上げて笑うところなんて、見たことはなかった。
俺は、波が引くように静かになった心臓の音を聞きながら、ゆっくりと足を進める。
そうして目にしたのは、熱のこもる愛おし気な視線を孝太郎に向ける翔の姿だった。
翔は優しい。誰にでも、どんな時も。だから、俺にも優しい。俺にだけ優しいわけじゃない。
俺は、翔にとって大勢いる友人の中のただの一人。
翔の”特別”は孝太郎だけ。
あぁ本当に俺は馬鹿だ。
なんて、みっともない勘違いをしていたんだろう。
俺なんかが。
望まれない子供だった俺なんかが。いらない子供だった俺なんかが。
誰かの”特別”になんて、なれるわけないのに。
初めて友人と、翔と文化祭を回れたのが嬉しくて。
バスケ部の手伝いをして、たくさんの人にありがとうと言ってもらえたのが嬉しくて。
翔が、俺と一緒にいることが楽しいといってくれたのが嬉しくて。
これから一緒に夕飯を食べられることが嬉しくて。
それだけじゃない。
来週、翔がうちに来たときの晩御飯は何にしようかなんて考えて。
少し先にある修学旅行のためにバイトのシフトを増やして。
これまでになかった嬉しいことがたくさんあったから、この先にも楽しいことが待っているって思ってしまった。
浮かれて、忘れてしまっていたんだ。
俺は誰かに必要としてもらえる人間なんかじゃないってことを。
それは、バイト先のスーパーで牛乳を買って外へ出たすぐのことだった。
「明希? 明希でしょ?!」
後ろから聞こえたその声にぎくりとした。
ゆっくりと振り返った先にいた、丈の短いワンピースの上にけば立ったニットのロングカーディガンを羽織った女を見ても、記憶の中のその人と全く一致しないのに。
その声は、覚えているなんて。
「お、かあ、さん……?」
記憶の中にある母はいつも黒い長い髪を頭の上のほうで一つに結んでいた。
いつだったか、料理が苦手だった母がびっくりするような失敗をしたことがあった。ごまかすように笑う母を父がいたわるように優しく撫でると、母のポニーテールが嬉しそうに揺れて。それを見て俺も嬉しくなって、家族三人で笑いあっていた。
幸せな記憶。もう、二度と戻らないもの。
なんとなく、そんな情景が頭に浮かんだのはどうしてだったんだろう。
今、目の前にいる母と同じ声をしたその人と、記憶の中の母との共通点を探そうとしたのだろうか。
そんな俺の戸惑いなんてまるで無視をして、その人は色褪せた長い金髪をなびかせ、高いヒールからカツカツと鋭利な音を鳴らしながら俺のほうへと小走りで寄ってきていた。
「やっぱり、明希だぁ! この間みかけて、もしかしてって思って! 大きくなったねぇ! えっもしかしてもう高校生?! やっば! っていうかぁ昔からそっくりだったけど、ほんと若いときの俊くんそっくり! ウケるんだけどぉ」
その人は俺の両腕を掴み、テンション高くまくし立てるように話す。俺は何も言えなかった。口の中は乾ききってぱさぱさで、言葉が出てこなかった。
「ちょっとぉそんなに睨まないでよ。相変わらず怖い顔!」
違う、睨んでなんかいない。
そう否定したいのに体も口も動かない。
「明希には悪いことしたなぁって思ってるんだよ? 寂しい思いさせちゃったよねぇ。ごめんねぇ」
ゆったりとした動作でその人は俺の背に手をまわした。
両親が離婚してすぐのころ、母が夢によく出てきた。母のぬくもりを思い出して、目を覚ました時に泣いていることもあった。
寂しかったんだと思う。恋しかったんだと思う。
でも、現実はそんな気持ちが薄れるのを待ってはくれなくて。
子どもなりに必死だった。平気なふりをするしかなかった。
だって、母は俺をいらないと言ったから。だから、母のところには行けない。
父だって、新しい生活に慣れるのに必死だった。
それなのに、俺が母が恋しいなんて言ったら、父はどう思う?
疎ましく思われたら、父にまで、いらないと言われたら。
俺にはもう、行くところがなかった。
もう、捨てられたくなかった。
でも、夢にまで見たそのぬくもりが今は気持ち悪くて仕方がない。
ねっとりとまとわりつく温度を俺は必死に引きはがした。
「ちょっと!」
俺の拒絶を悟ったその人から聞こえた舌打ちに条件反射のように体が震えた。
最近は出てこなくなっていた、あの日の記憶が戻ってくる。
忘れていたのに。いや、箱にしまって隠しておいたのに。
――いやだ、嫌だ、嫌だ!!
とにかくそこから逃げるために、俺は震える足で走った。
後ろから投げつけられた「また来るから!」という言葉も聞こえなかったふりをして。
――しょう、翔……!
優しく俺の名を呼ぶ声を聴きたい。
俺に優しく微笑みかける顔が見たい。
俺は記憶を振り払うように、必死で走った。
相変わらずアパートの階段は足を乗せると安っぽい音がする。こんなふうに駆け上がったら、抜けてしまいそうだ。
そんなことを気にしている余裕もなく、ドアを開いて中に入る。
聞こえてきた声にほっと息をついて、バクバクと打ち鳴る心臓をなだめていると、大きな笑い声が部屋の奥から響いてきた。
それは、翔の声だった。
俺のそばにいる翔はいつも穏やかに微笑んでいて、その声も、まなざしも、俺に触れる手も、いつも優しくて。
俺の前でこんなふうに大きな声を上げて笑うところなんて、見たことはなかった。
俺は、波が引くように静かになった心臓の音を聞きながら、ゆっくりと足を進める。
そうして目にしたのは、熱のこもる愛おし気な視線を孝太郎に向ける翔の姿だった。
翔は優しい。誰にでも、どんな時も。だから、俺にも優しい。俺にだけ優しいわけじゃない。
俺は、翔にとって大勢いる友人の中のただの一人。
翔の”特別”は孝太郎だけ。
あぁ本当に俺は馬鹿だ。
なんて、みっともない勘違いをしていたんだろう。
俺なんかが。
望まれない子供だった俺なんかが。いらない子供だった俺なんかが。
誰かの”特別”になんて、なれるわけないのに。

